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表現活動と震災と

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3.11の震災はいろいろな意味で日本社会を変えるきっかけになってしまいそうです。今まで自明だったものがどんどん崩れていって、これから日本はどういう方向に転がっていくんだろうな、と思いながら日々過ごしています。ちょうど今僕も日本にいるのですが、自分に対しても、日本全体に対しても、混乱の渦にいるような、以外と落ち着いているような、相反する感覚を同時に覚えています。

今回は二つのツイートをきっかけに表現と社会の関わり方をちょっと考えてみました。2つのツイートはそれぞれ別方向を向いているものですが、どっかで繋がんないかなあ、と思って書いてたんですが、あんま繋げきれてないですね。 苦笑

まあ、読んてくださった方が何か考えるきっかけになればそれでいいと思います。

 

その1:家入さんの震災と表現活動に対するツイートについて

https://twitter.com/hbkr/statuses/55136605706522624

震災や911みたいな大事件がみんなの価値観を根底から揺るがしたのは事実だけど、それをフックにしてしか表現活動を始められないアーティストってどうなんだ。多くの人が無くなった事件をフックに利用する奴(しかも無意識だからたちが悪い)の作品なんか燃やして暖をとったほうがよっぽど有用

健全な感覚だと思う。家入さんみたいに絶えず活動を続けて、何かを生み出している人からみれば、そういうアーティストは軟弱に見えるだろうな。

 

でもアーティストってそもそも健全な社会に対して不全感を持ってる人が多いもんで。社会と自分の距離感とか関わりかたを上手くチューニングできない結果、その距離感が逆に社会を見つめる際にユニークな視点を提供できたりするわけで。

 

宮台真司氏の著作、「世界」はそもそもデタラメである、にもこういう一節がある。韓国映画「4人の食卓」のイ・スヨン監督へのインタビューです。(P80)

「貧しく混乱した社会では、共有された不全感が豊かなサブカルチャー表現を生む。豊かで平穏無事な社会では、不全感は自意識の問題に個人化され、サブカルチャー的コミュニケーションが貧困になる。

「サブカルチャー表現が豊かな、不幸な社会」と「サブカルチャー表現が貧困な、幸せな社会」。この「究極の対比」は、日本の過去と現在の対比であり、韓国と日本の対比である。この問いに、イ監督は「私にとってサブカルチャーが一番だが、社会にとっては幸せが一番さ」と明解に答えた。」

 

こういう態度って、世の中の不幸を喜ぶとか、そういうのとはちょっと違ってて、社会が幸せになることを願ってはいるんですよね、でも表現の意欲から来る別の感情もまたあってその葛藤が上の監督の解答から見て取れる。表現者って大なり小なりこういう葛藤を抱えて生きるもんだと僕は思ってます。その葛藤こそが表現者にとっての本当の肥やしなんでしょうし。実際、力強い映画を作る国ってのは、ハリウッドみたいに技巧とは別の凄みがあって、その凄みがどこから来るかといえば、その国の社会の流動性や混乱の中から何かをつかみ出そうとする力だったりするんですよね。かつての日本映画もそれがあったから面白かった。

 

震災があって、「我、水を得た魚なり」みたいになれっていう意味ではもちろん無いです。家入さんが批判してるのは、そういうタイプの人でしょう。どっちみちそんな態度の人間に大した表現ができるとも思いません。でも社会の問題が表現者の動く原動力にもなるっていう事実はあって、芸術はいつの時代もそうやって産まれたきたのです。燃やして暖をとったほうがいいのか、僕にはわからないですが。燃やさず残しておいて、後世の何か重要なメッセージを伝えるものになり得るかもしれないし。

 

 

 

その2:東浩紀さんのこんなツイートもあった。

http://twitter.com/#!/hazuma/status/53037075984949248

今後は「萌え〜」とか言っていても、「こんな時代だからあえて萌えだ」という厄介なコンテクストが付与される。なにも考えず萌え萌え言っていた時代とは、同じ作品・発言でも受け取られ方が異なってしまう。厄介な時代になってしまった。

http://togetter.com/li/118030

今回の震災で作り手の意識も変わるけど、受け手の側の変化もすごい大きいよね、という話。そしてその受け手の変化は、制作側の態度にも大きな影響を与える、と。まあ当たり前の話といえば当たり前ですが。ただ、今後は萌えが流行ってるから萌えでいこうとか、とりあえず泣ける話にしとけばみんな見に来るだろ、的な単純な作品作りはやりづらくなるでしょう。変化があるのはなにもオタク文化に限らないでしょう。

そういえば、けいおんの大学生編が誌面上では始まるようです。なにごとも起こらない日常生活の中でキャラを愛でるだけのこの作品は、昨年まで大ヒットし社会現象にまでなりました。震災後もその作風は変わることはないんでしょう。震災に日本が見舞われたからといって、あれだけ受け入れられたスタイルを変える必要は全く無いわけで。そこには未曾有の震災など無かったかのような女の子たちの日常がつづられるのでしょう。

でも、僕ら受けて側の感覚は間違いなく変わってしまっている。震災前と同じ特に事件も起きない平和な日常風景で萌えキャラを愛でるその世界をかつてと同じ距離感で受容できなくなる。もうこれは自然とそうなる。今自分達の置かれた状況と頭が買ってに対比してしまうし、以前よりも距離感を感じざるを得ない。少なくとも僕は以前と同じようにけいおんを享受できないと思う。良い意味で違うか悪い意味で違うかは読んでみないと何とも云えないけど、違うことは確実だと思う。

需要側のコンテクストの変化は、確実の作り手の意識も変える。オタクカルチャーだけではなく、全ての娯楽産業を巻き込んで変化が生まれていくだろう。安っぽく愛とか希望謳うだけの作品は以前ほどには受け入れられないんじゃないか。ミニマルな話を描いたとしてももっと世の中に対する大局観みたいなものが求められてくるかもしれない。

 

アメリカ映画も9.11以前と以後ではその内容は大きく違ってきている。ダークナイトのような作品は9.11以前にはあれほど大ヒットするとはちょっと思えない。ダイハード的アクション映画も一掃されてしまった。テロリストに挑むヒーローが絶対善でテロリストが絶対悪なんて構図は、ブッシュ政権見てれば通用しないに決まってる。(アメリカ映画の場合、世界中がマーケットってこともポイントですが。一時のアメリカ国内なら通用した気もする。)

映画を始めとして、日本の娯楽産業がこの3.11に対してどう動いていくのか、ちゃんと注目していきたいですね。

 

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