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ケン・ローチの当事者の時代。映画レビュー「ルート・アイリッシュ」

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via 公式サイト

ケン・ローチは常に弱者の立ち位置から映画を撮る。67年に「夜空に星のあるように」で映画監督デビューして以来、いや、BBCの演出家の頃から常に一貫して社会に抑圧される側の市民の立場から映画を作ってきた。

されゆえ、彼はしばしば左翼とも評される。実際インタビューでも公言しているし、ネオリベサッチャー政権との激しい戦いは彼が筋金入りの左翼であることを物語っていると思う。
 
そう、かれは「筋金入り」の左翼だ。しかし、日本で云われるところの左翼とは大分違う。
端的に云ってしまえば、日本の左翼は(全てとは云わないが)しばしば「弱者利権」を貪り、彼らの言葉を「代弁」すると称して「正義」を振りかざす。
ローチはあらゆる組織、システムの全体最適のために犠牲にされてしまう人々にこそ注目する。それはサッチャリズムのような経済全体の合理主義的システムだけでなく、かつてのイギリスの弱者を保護する名目で行われた左寄りの理不尽な社会福祉政策にも向けられる。
「レディバード・レディバード」という作品では、社会福祉と子供の保護のために、当局が「母親不適格者」と見なした母親から一方的に赤ん坊を取り上げてしまう、という政策を痛烈に批判している。
 
「大地と自由」では、共産主義を理想と掲げた若者たちの内紛から自滅していく様を描いてもいる。軍事独裁政権に倒されたではなく、資本の論理に破れたでもなく、決して一つの政治的立場を悲劇のヒーローのようには扱わない。
 
ローチはしばしば、特定の政治的立場からメッセージを発しているようでもあるが、その実理不尽にも人を抑圧するものがあれば右でも左でも徹底的に批判する男だ。ローチは特定の政治的立場からの発信ではなく、社会の隙間からこぼれ落ちてしまう人々の目線からの言葉を届けるという意味で一貫している。それでいて弱者利権を代弁する、というように堕してしまうこともない。
 
こうしたケン・ローチの姿勢は最近出て来た言葉で云うと、「当事者性」という言葉で云えるかもしれない。
佐々木俊尚さんが「当事者の時代」で「マイノリティ憑依」という言葉を使って弱者立場に勝手にただ乗りして相手を罵倒する態度を批判しているが、ケン・ローチの映画製作の姿勢は、そうしたものから一番遠いところにあると思う。
 
彼は常に苦しめられている当事者のリアルを知ろうとするし、被害者となる弱者が善良な犠牲者だ、と主張は絶対にしない。彼の映画に登場する「弱者」たる市民は、適度に汚れているし、どうしようもなく馬鹿でもある。
 
同時に、ユーモアを持った愛すべき連中でもある。これがローチの最大の魅力だ。
 
今回の新作「ルート・アイリッシュ」は、イラク戦争の戦争民営化の実態を背景にしている。ルート・アイリッシュとはバグダッド空港から、グリーン・ゾーンと呼ばれる連合軍の駐留する安全地帯までの幹線道路のことだが、最もテロの標的にされやすいことから、世界一危険な道路とも云われる。その道路で死を遂げた民間兵として勤務していた親友フランキーの死の真相を主人公ファーガスが追いかける、というのが話の本筋。
 
民間兵であって、国の軍人ではないフランキーは、「戦死」とは扱われないので国からの支給はないもない。大臣からの弔いの言葉もない。彼らもまた戦場で命をかけているにも関わらず、正規の軍人よりも彼らの「命」は安いのだ。戦争の民営化によって、死んだ兵士のために出費するという無駄なコストを省けたわけだ。こうしたシーンが冒頭に持ってきて、このテーマに対するアプローチをまず明確にしている。
さらに民間兵は正規の軍人ではないので、国際法が適用されない。拷問しても許されてしまうし、現地で武器を持ち民間人を射殺しても国際法で裁かれることがない。そういう意味では民間兵の起用は国にとって「リスク」も低い。
 
遺体に一目会わせてくれ、と神父に頼み、あまりにも損傷が激しいのでと断られたファーガスは、夜中に協会に忍び込み棺を開け、遺体と対面するのだが、このシーンは素晴らしい。ファーガスは遺体の損傷にショックを受けるのではなく、フランキーがネクタイを付けさせれていることに憤慨する。焼死体となってしまったにも関わらず、ネクタイ嫌いのフランキーにネクタイをさせたことに憤慨できるファーガスは、よほどこの親友のことを知っているのだ。二人の絆の強さと積み重ねた時間の重みをたった1シーンで表現して見せた見事なシチュエーションだった。
 
ファーガスは自責の念もあって、彼の不審な死の真相を調べ始めるのだが(フランキーをイラクの民間兵に誘ったのは実はファーガスの方)、ネタバレになるので詳しくは書かないが、その裏には冷酷な資本の論理がある。
 
利益拡大、という全体最適のために切り捨てられた一部がフランキーであった。
 
そこに資本の論理が働く、ということはそこにニーズがあるということだ。
一つの企業が人道に反するからといって撤退しても、ニーズがある以上別の誰かがそこを埋める。
 
そうして全体が最適化され、フランキーのような犠牲は続いてしまう。ローチはそのことをよくわかっている。一つの企業だけをフィンガーポイントしても仕方が無いことを。
だからああいうラストになるんだろう、この映画は。
 
愚かにも金儲けのために親友を民間兵に誘った主人公ファーガスは、自分もまたその資本の論理で親友の死に加担していたことに気づけていない。僕らと取るに足らない人間であるファーガスは、フランキーを死に追いやった企業に対する復讐心でいっぱいだ。それを断罪することも、賞賛することもローチはしない。
それゆえに、安易なカタルシスに流されることなく、この世界の理不尽さが浮かび上がる。
 
それでもなお、その残酷な世界に生きる、弱い人間たち。それでも誰かを愛し、共に笑うことができる人間たちのが何と魅力的なことか。
 
そうした人々からローチを決して目をそらさない。
 
 
ケン・ローチの映画から学ぶ最大のことは、「当事者」であるとはどういうことか、ということだと思う。
ローチは60年代から一貫して労働者階級の当事者であり続ける。その眼差しと姿勢はいささかもブレることがない。
 
彼はずっと当事者の時代を生き続けている。

ルート・アイリッシュ予告編

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