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なぜ津田大介は東北にコミットし続けるのか。映画レビュー「おくの細道2012」

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Via http://okuno-hosomichi.tumblr.com/

震災から一年が経過して、被災地以外の地域では平穏な暮らしがもどりつつあります。原発稼働がゼロになったり、夏の電力がどうなるとか、問題が山積していますが、とりあえず人々の生活から震災は消えつつある。
それはそれで喜ばしいことかもしれません。平和が一番に決まってますからね。
しかし、被災3県ではまだまだ復興の途上であり、多くの支援が必要としています。地元の人々だけではなく、より多くの人のコミットがなければ復興は終わらないでしょう。

このドキュメンタリー映画は、津田大介率いるネオローグの一向が、震災から間もなく一年になろうとしている東北地方を取材した際の記録です。元々はインターネットや音楽著作権を専門としていたジャーナリストである彼は、一時の盛り上がりに終わらず一年経った今でも東北取材を続けコミットを続けています。

震災前、あるいは震災後に津田氏がそこまで震災問題と原発問題に深くコミットすると思っていた人はいるんdしょうか。震災問題は彼の経歴からするとあまりイメージできないし、「ブーム」が過ぎたらまた元のソーシャルメディアのコメンテーターなどの仕事に戻るだろうとみんな思っていたんじゃないでしょうか。無論そういう仕事もしていますが、東北取材と原発問題は現在の彼にとってかなり大きなウエイトを占めているように見えます。

この映画は一見多くを語らないのですが、そうした津田氏の「変化」を念頭に置いておくとより情報量の多い作品として楽しめるかと思います。
なぜ彼は変化したのか、そしてコミットを続けるのかのヒントがこの映画には隠されています。

内容を吟味する前に少し前置きします。
まずこのドキュメンタリー映画は、どんなタイプかをはっきりさせておきます。
ドキュメンタリーと一口にいってもいろんな作品がありますが、僕はまず大別して2つに分けられると考えています。
その2つは、始めに結論ありきの作品か、始めに結論を出さず撮影の過程でテーマが浮かび上がって来るタイプ。

前者は、テレビのドキュメンタリーとアメリカのドキュメンタリー映画に多く見られるタイプで、あらかじめ作り手の主張は決まっていて、その主張を訴えるために素材集めをしていきます。テレビの場合はスケジュールや時間枠の制約もあり、こうして事前に方向性を決めないと製作が進行しないのでこういうやり方をします。アメリカのドキュメンタリー映画では、イルカ漁を題材にした「ザ・コーブ」は典型的な始めに結論ありきな作品です。マイケル・ムーアの作品もそうですね。ブッシュを「落とす」ためだけに作った華氏911もブッシュだけを悪者にする素材で構成されているわけです。

後者の代表例は、観察映画の想田和弘監督の作品でしょうか。あるいはフレデリック・ワイズマンのような大巨匠。原一男監督の作品も後者のタイプでしょう。
観察映画の想田監督は、撮影前に一切のテーマを決めていないそうです。その上対象にああしてほしい、こうしてほしいという要求も一切なく、ひたすらにカメラで「観察」するのみ。そうして撮影していく中で浮かび上がって来たものが自然とテーマとなっていくんですね。
このやり方は、作品がどういう方向に進んでいくかわからなく、下手すると作品としてのまとまりがなくなくリスクもありながら、思いもよらない発見があったりします。予定調和にはまらないんですね。原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」や「全身小説家」などは撮影を進める過程で、人物の全く別の側面を発見して、テーマがそちらにシフトして、ものすごいモノを描いてしまう典型的な例です。

この「おくの細道2012」は完全に後者のタイプで、あらかじめ決まっていたことは津田大介の東北取材に同行する、ということだけでしょう。映画から推測するにいろいろと準備と企画を練ってテーマを設定したようには見えない。大事なガイガーカウンターを忘れ、スケジュールもきちんと管理されていない感のある、まさにドタバタの珍道中」です。

そのせいかこの映画はとても静かな作品で、何も事々しく起こらないのに妙にスリリングな印象があります。次に何が起こるか、何が画面に映るか予測が立たない。車で移動しているため、道中の車内から撮影されたショットが多いが、次々と流れていく風景を見ているだけでもある種の冒険をしている気分になる。ほとんどのショットを手持ちカメラで撮影しているため、車に座っている人間と同じ目線になれる。津田大介一行と一緒に旅をしているような気分を味わえるんですね。そうしてこの映画を見る人は、津田大介が東北で見たもの、体験したことを追体験できるんです。

さてこの映画を見た人は、どんなことをこの映画で疑似体験できるでしょうか。

未だに苦しむ被災者の悲痛な叫びや、あまりにも過酷な地震と津波の傷跡。

いえ、それだけでは決してないのです。

例えば、スパハワイアンリゾートのアイスクリームがおいしいこと。
ド派手な金髪のわりに案外顔が無表情な津田氏ですが、その鉄仮面がアイスクリームのおいしさに一瞬綻ぶんです。

「被災地」取材にアイスクリームが美味いことにどんな意味があるのか。別にありません。でもこれは映画としては重要です。美味いものに感動して心が動く瞬間こそドラマチックな瞬間です。そしてそういう普通の営みがここにはある、と示すこともまた重要です。「被災地」、「被災者」というレッテルから解放されるためにはこういう何でもない光景の大切を伝えることは極めて重要なのです。
伊里前の仮設の商店街でお土産を物色するシーンもりますが、あれも取るに足らない光景ですが、そういう何でもなさこそ貴重なわけです。

そして、ハワイアンリゾートのダンサーたちの見事なパフォーマンスにパソコンを打つ手を止めて見つめる目津田氏は、確実に何かに感動しています。こういう人間臭い面をこの映画はたくさん捉えています。いびきかいて寝てたり、橋に感動してみたり。

この映画の魅力はそんな人間臭さにあります。道中インタビューする方や出会う方たちにも同じことが云えると思います。
南三陸の旅館の女将さん、石巻2.0の若者たち(渡されたカタログで可愛い女性のとこだけ2度見する津田氏の人間臭さを的確に捉えるカメラがすばらしい!)、山元町ふるさと伝承館の方達、伊里前福幸商店街の人々。。。

みな素敵で人間味に溢れているんですね。少なくとも津田氏がこの映画で出会う人たちに変なレッテルは貼れない。被災者ではなく(もちろん未だ復興は果たしておらず、これからも困難がたくさんあるけど)津田氏は、非東北の人情ある人々に触れている。少なくとも津田氏は、彼らを被災者とは見ておらず、人間として接しているんです。

映画を通じて疑似体験する人たちにも、伝わると思います、彼らの魅力が。津田氏はそんな東北の人々の魅力にやられているんですね。だから彼は一年たってもコミットを辞めない。311が日本の戦後史を2分する転換点で、それを世界に伝える使命がじゃーナリストにはある、とか意気込んでいるわけではないんだ、ということをこの映画はスゴくよく伝えてくれます。(そういう使命感もあるのかもしれませんが)

かくいう僕も南相馬の朝日座という映画館を訪ねたときに現地の人たちの明るさと暖かみにやられたクチです。
おヒマな方は下記のエントリーでも読んでみてください。
http://hotakasugi-jp.com/2012/03/20/minamisoma-kibou/
http://hotakasugi-jp.com/2012/04/07/asahiza/

積み上る瓦礫に声を失うシーンもあるし、未だに復興が思うようにすすまない南三陸の現状などつらい現実も、カメラが当然捉えているが、それを超える人間の魅力をこの映画は伝えています。

センセーショナルを狙って、「福島に人は住めない」と書いてしまうジャーナリストがいる一方、津田氏のように人間臭さにこだわる姿勢は非常に貴重だと思うのです。

被害を受けた地域以外に住む人たちは、徐々に震災の記憶が薄れている人もいるかもしれません。けど、中にはコミットしたいと思っている人もたくさんいると思います。震災から一年たって、どうコミットしたらいいか悩んでる人がもしいたら、この映画を見るといいでしょう。要するに津田氏のように彼らの魅力にやられてしまえばいいんです。それがコミットを続ける秘訣だということをこの映画は暗に語っています。

映画の最後が示すようにまだ課題が山積しているわけです。カメラ撮影を断られたあの分厚い鋼鉄の向こうにはさらなる課題がある、ということを示して「To Be Continued」と示して映画が終わるわけですが、それはそのまま、東北の魅力にやられた津田氏の、これからもコミットし続けるぞという意志でもあるんでしょう。

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