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スクリーンにバットマンがいる希望、現実にはいない絶望。映画レビュー「ダークナイト・ライジング」

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大変面白かった。

一作目の「バットマン・ビギンズ」では犯罪と汚職のはびこるゴッサム・シティを浄化するため、自らを恐怖のシンボルとして演出していく様を描き。二作目の「ダークナイト」ではその法の枠の外で圧倒的な力を行使するバットマンがむしろ更なる犯罪を呼び起こしてしまうことに気づき、その連鎖を断ち切るはずの「光の騎士」を見つけるものの、それもまた偶像に過ぎなかった。しかし、偶像でも光のシンボルが必要と判断したバットマン自らハービー・デントの罪を被り消えた。
そしてのこのシリーズ三作目にして最終章、「ダークナイト・ライジング」では平和と正義のシンボルであるデントの名を冠した法律、デント法によって犯罪が減少し平和になったゴッサム・シティから物語が始まる。

デント法によって犯罪者が裁かれ、街は平和になった。デントは今でも正義の信念で戦ったと信じられている。ただ一人、ゴッサム・シティ警察のゴードン本部長だけが真実を知っている。街は一見犯罪も減り、平和になった。しかし、それもまた虚構の中の平和に過ぎない。実際には犯罪も貧困もこの街からは消えていない。たんに地下に潜って見えなくなっただけだった。法律一つで社会と人間の本質が変わるわけではない。暴力団を取り締まる新たな条例を作って表向き暴力団が街から消えても、それを必要悪として求める社会が変わるわけではない。風営法改正で表向き売春を提供するお店が減ってもより表には見えにくい形で商売が続いていた歌舞伎町も同じだ。
そうして地下に潜って見えない所で、犯罪者たちは力を付け始め、気づいた時には足下を救われる。ウェイン産業の武器庫を地下から攻められ、武器をかすめ取られてしまうかのように。

ブルース・ウェインはひそかに次世代エネルギーとして小型原子力を地下で建設していた。未来のエネルギーとして、開発・研究していたものだが、これを人類に扱うことができるのかをノーランは問う。ブルース・ウェインも台詞で「もし世が未熟なら、これは沈めろ」ともいう。結局ペインの手に渡り、未来のエネルギーは容易に兵器に転用されてしまう。

その兵器を用いて政府を脅し、民衆へ立ち上がることを突きつけたペイン。その後に訪れたものは、無秩序な暴動。市民が立ち上がり、富を持つ者から収奪する様を見えて、オキュパイ・ウォールストリートへの批判を見て取る人もいるようだが、僕はちょっと違うと思う。脚本を書いたのがオキュパイ運動が起こる前であるということもあるだろうが、ああいうう無秩序な状態を僕らは常日頃からネットの世界では見かけている。あれはインターネットで主に起こっている無秩序な世界がもしリアルな世界でも展開されたら、というノーラン流の思考実験なのかもしれない。一作目から登場しているキリアン・マーフィ演じるスケアクロウが何の権限もなく罪を言い渡し、人を断罪している。ゴードンの云うように、何の証拠もなくとも雰囲気だけで罪を決めつける。

核兵器を町中で走らせても、そのことに対して放射能汚染を心配する民衆がいないのは、2011年を経験した日本人からすると、おかしいと感じるところだが、ノーランは脚本段階では去年の日本を経験していないだろうし、そこはしかたがないかもしれない。核兵器を積んだ車を町中に走らせていたら、権力者を失ったことからくる混乱以上の混乱が本来はあったと思う。

取り返しのつかない混乱状態に陥ってしまったこの街をいかにしてバットマンが救うか。一度はペインに敗北し、地獄に落とされながらも這い上がり街に舞い戻るバットマン。舞い戻った彼を最初に見るのはアン・ハサウェイ演じるキャット・ウーマン。子供を救い、おもむろにリンゴをかじる彼女の姿は何かを象徴している。リンゴをかじる自体には物語的に意味はない。それでいて妙に印象的。なるほどここから先は神話に近い物語が始まるということかと仮回した

実際、バットマンはこの混乱のキーであり核とともに飛び去り、もろとも吹っ飛ぶ。あたかも核が人類の罪であり、それを背負って死ぬイエス・キリストのようだ。この街の混乱を救うには、それほどの超越的な存在になる意外にないということか。犯罪者を恐怖させるシンボルになっても、罪を背負って光のシンボルを打ち立てても救えない、社会を救うには超越的な何かになるしかない。

何とも壮大なストーリーで、最後を飾るのにふさわしい作品だった。細かいディテールに突っ込みどころはあるかもしれないが、バットマンというダークファンタジーをリアルな世界の出来事として描き直して実に多くのことを問いかける作品です。

なぜマスクをつけ、匿名で戦うのかについて、それは大切な人に危害が及ぶのを防ぐためだ、というのも非常に示唆的です。前作ダークナイトで実名で表で戦ったハービー・デントは自分だけでなく、恋人のレイチェルも危険に晒したエピソードがありましたし、誰かが不祥事を起こせば、ネットで本人を特定するだけでなく、その周辺の人間まで特定しようとする連中は少なからずいます。

今作の悪役、ペインについては賛美両論ありますね。批判の多くは前作のヒース・レジャーの神がかった芝居も話題だったジョーカーとの比較からくるものだと思います。
前作の悪役ジョーカーは社会の中を生きる一員というよりは、そこから一段高いポジションから見下ろし、欺瞞を欺瞞と晒してしまう超越的な存在で、それゆえか、ジョーカーの行動の一切に人間的な動機を感じさせません。
しかし今回の悪役ベントは、ジョーカーと同様に社会(ゴッサムシティ)の欺瞞を暴こうとしますが、そこには極めて「人間的な理由」があります。
前作と比較するにあたって、もし批判的なポジションを取るならそこの部分なのでしょうね。見た人によって相当に評価の分かれる作品になっているのは、この点が前作よりも後退しているように見えるということでしょう。
しかし、その極めて人間的な動機であそこまでの大事を仕掛けること自体に僕は強いリアリティを感じてしまいます。
現実世界でも、世界を転覆しようとする者や社会に混乱をもたらそうとしている者を見ていると、実際の動機は極めてみみっちいルサンチマンや自己保身であったりするのがほとんどじゃないでしょうか。
オウム心理教などはその典型ではないでしょうか。少し角度の違う事例で考えて見ると、昨年の日本の原発事故にかかる政府や東電の対応を見てみてもいいかもしれません。彼らの発言や行動の背景に巨大な陰謀や巨大な悪の理念があったというより、たんに小さな自分たちの身の保身を考えての行動なのではないでしょうか。
世界中でおきる大きな事件も、いざフタを開けて見ると、動機はそのように極めて「人間的な理由」だったりするんじゃないでしょうか。

前作「ダークナイト」は超越したジョーカー対超越しきれないバットマン、という対決構図でしたが、今回は人間たちの起こした破壊と混乱をバットマンが超越的な行動で収める、と云う話であると思います。

ゴッサム・シティは救われ、平和が再び訪れます。バットマンの意志を継ぐ後継者も最後に登場します。翻って僕らの現実社会はますます混乱しています。多くの現実の社会を示唆的に表現したかのようなエピソードのたくさん出て来るこの物語を見て、ふと気づくこと。それは僕らの生きる現実社会にはバットマンのように超越的な行動を取ってでも世の中をよくしようという意志を持った存在。それが僕らの社会には決定的に欠けている。
その意味でクリストファー・ノーランの突きつけるメッセージは重く暗いものかもしれない。最後の最後に救いのある結末を迎えはするものの。

でもだからこそ、この物語は感動的なんだと思う。ありそうも無いものをあるのかも思わせてくれるから。それが偶像だったとしてもそういう夢や希望がなければやっぱり人は生きていけない。

こちらの13分に及ぶ、ダークナイト・ライジングのメイキングも大変面白いので必見です。

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