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情報の受信責任と発信責任

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イケダハヤト(@ihayato)さんのこのエントリーを読んで情報の受信と発信に対する責任の所在について考えてみたいと思います。
「影響力があるんだから発言に責任を持ってください」

フォロワーもアンチも多いイケダハヤトさんなので、きっと僕にはない気苦労があるんだと思いますが。。。

イケダさんがこのエントリーで書かれていることは、ご本人もまとめておられますが、以下の三点です。
・情報の取捨選択の責任は受信側にあって、発信側に責任を求めるのはおかしい
・社会的に悪影響が及ばない限り、発信側に責任を求めるべきではない
・これはマスメディアや官報などの情報発信についてはこの限りではなく、責任が生じ得る


ネット時代の情報の受発信にかかる責任とは何か?
インターネット時代の前、マスメディアだけが情報を発信できた時代というのは、情報の受信・発信にかかる責任というのは、その多くは発信側にあったと思います。一般消費者は選択の余地が限られていたので、情報をどこから入手するかについてフリーハンドがないので情報を受信する際の責任を求められる場面はほとんどなかったでしょう。

まあ、夜中ずっとテレビ見てて、翌日寝坊したとかだったら、その寝坊の責任は受信側にありますが。寝るという選択肢を取れよ、という話ですが。

しかし、インターネット時代になり、情報量が飛躍的に増加しました。増加の要因は、個人が情報を発信できるようになったこと。マスメディア発の情報は、その日々大量に発生する情報のワンオブゼムになりました。当然ブランド力があるので影響力はありますが。

こうした情報量も情報を発信する主体も大量な時代、人はどこから、あるいは誰から情報を得るかを主体的に選択する必要があります。その情報のインプットに対して自分で選択する必要が出てきました。自分で情報源をカスタマイズする必要が出てきたわけですね。
こういう情報源をカスタママイズする必要はインターネット時代前にはありませんでした。情報は人の行動や発言、はては思想や人生観にまで影響を与えますから、インターネット時代にはそのインプットのカスタマイズには当然個々人が主体的に、自分の責任でやる必要があります。

情報の「受信責任」とでも云えばいいでしょうかね。そういう情報の責任に対する新しい考えが出来て来てるんだと思います。

しかし、情報の受信側に責任が生じた、ということが情報発信側の責任を免除することにはならないと思います。情報発信側には情報を発信する上で責任は変わらずあるでしょう。
社会的影響があるかないかは、発信者個人が決定できるものではありません。極論を云うと、どんな情報も多かれ少なかれ、社会を構成している個々人に影響を与えます。というかそうでなければ情報を発信する意味がないでしょう。イケダさんとて、ブログを読む誰かに何らかの影響を与えたいと思うから書くのでしょう。

マスメディアだけが情報の発信に対する責任を負うのか?
それから、官報や国営放送、マスメディアならともかく、そもそもインターネット上の個人に「発言の責任」を求めるのがナンセンス、というのが書いていますけども、この考えの方がよほどナンセンスでしょう。

官報は別としても(ていうか官報とマスメディアを一緒くたにしてしまっていることにも違和感がある。この辺はマスメディアの報道姿勢にも問題があって、一緒くたに考えてしまう人になってしまうのかもしれないけど)、インターネット上において、個人とマスメディアの違いは端的に云ってあるんでしょうか。あるにはあると思いますが、その境界がくずれていくことに今の時代の特徴があるわけですよね。インターネットで情報を発信する主体の違いとは、マスか個人かではなくって、ブランドが確率されているか、いないかの違いくらいしかないんじゃないでしょうかね。

既存メディアと同じように、個人でも情報が発信できるようになる。それは既存メディアの持っていたパワーを個人も行使可能になってきた、ということです。
そんな風に境界はくずれているけど、情報の発信責任だけは変わらずマスメディアだけが持ってるんですか?それはないでしょう。情報を発信することによるメリットやパワーと一緒に、情報発信の責任の所在だってパワーやメリットと一緒にくっついてきてますよ。

ちきりんさんにTwitterで「責任を持て」と云っている人は情報の受信責任について無頓着なのかもしれませんが、このエントリーを読む限りにおいては、イケダさんはその受信責任に無頓着な人たちと同じくらい情報の「発信責任」に無頓着と感じます。
情報を巡る責任は、受信側、発信側双方にあるんではないでしょうか。

見出しで大きく「責任は受信側にある」としていますが、正しくは「受信側にも責任はある」じゃないですかね。というか、このエントリーに貼られているちきりんさんのツイートはそういう意味に僕には読めますが。

僕は映像という、最も強い力を帯びる表現手段を使う世界の人間ですから、表現の攻撃性と暴力性について敏感すぎるかもしれません。映像は何かを伝えるとき、とても強い武器になりますが、武器は使い方を間違えたら凶器になります。
一年以上前に、この誰でも手軽に映像配信が出来てしまう時代に、そういう危険性も認識してほしい、みたいなエントリーを書いたことがありますが、程度の差はあるかもしれませんが、本質的にはペンでも映像でも同じことでしょう。

イケダさんのエントリーの真意が、情報の受信責任を自覚しよう、ということにあるんであればそこに反論がありません。しかし、イケダさんの文章表現がどうにも責任転嫁のように読めてしまう。

結局、「影響力があるんだから発言に責任を持ってください」なんて言葉は、十中八九、安全地帯から発言者に石を投げたいがための言葉です。

僕が観察するかぎり、この言葉はほとんどの場合、自分の過去・現在、考えを否定された気がして、苦し紛れに出てくる非難です。インターネット上の個人に投げかけられる場合、この非難が意味を持つ場面はほとんどありません。

これの根拠がよくわかりません。
僕にはこれらのフレーズを含めるのは、イケダさんの言葉でいうところの情報発信の「影響力の魔法」は行使したいけど、責任は取りたくないから云っている苦し紛れの批判にしか見えない。

インターネットの普及によって、個人は情報を発信するパワーと得ると同時に責任もしょったと僕は思います。さらに情報の受け手は自分にインプットされる情報に関して、どの情報を受信するかの受信責任を負ったと僕は思います。発信の責任と受信の責任はそれぞれ質の違うものです。
そのどちらか一方に対してだけ関心を寄せるのはやはりバランス悪くて、両方に対して敏感であるべきじゃないでしょうか。

特に自身をくりエイターと呼び、表現を持ってお金を稼いだり、社会に影響を行使しようと思う人はなおさら、その2つに責任に関して敏感であってほしいと思います。自戒を込めて。

photo credit: Brian Lane Winfield Moore via photo pin cc

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