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映画レビュー『ザ・マスター』

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さて、レビューを書こうにも非常に難解であるこの作品。どう紹介していいものか迷います。たんに難解であるだけでなく、題材として人の理解できない混沌からの何やら脱却(超越)しようとしている男たちの物語であり、その意味ではシンプルな物語理解に落とし込むとかえって本質から逸れてしまうような気がしています。

とはいえこうした作品に興味のない方にも興味を持っていただくためにレビューは存在すると考える僕としてはなんとか頭をひねって言葉を紡がないといけません。いや、相当の難物ですね、これは。

(C)MMXII by Western Film Company LLC. via eiga.com
(C)MMXII by Western Film Company LLC.
via eiga.com

この映画に登場するザ・コーズという宗教団体は、アメリカのサイエントロジーをモデルにしています。ポール・トーマス・アンダーソン監督自身が明確にインタビューなどでもモデルとしてサイエントロジーを参考にしたことは語られています。この団体は50年代に誕生して以来、社会と様々な衝突を起こしてもいますが、存在の是非を問うような作りにはなっていません。
物語の中心はむしろ、ホアキン・フェニックス演じる戦争でアルコール依存症を患い、人生を狂わせた男と、フィリップ・シーモア・ホフマン演じる宗教団体「ザ・コーズ」のマスターとの父と子のような関係性にあります。孤独な魂を持つもの同士の疑似家族としての共同性を描いた作品と言えそうです。ある意味、非常に普遍的な物語であるわけです。

そして、わざわざ当時の映画でよく使用されていた65mmフィルム(美しい!)を用いて撮影していることでもわかる通り、この作品は時代性を非常に意識したものでもあります。1950年当時のアメリカ社会の状況を知ることもこの映画の理解を深めるポイントとなるでしょう。

SF黄金時代とサイエントロジー

この映画の舞台は1950年のアメリカ。第二次大戦開けて間もないこの頃、戦勝国アメリカといえども社会には様々な混乱がありました。西側諸国のリーダーとして、経済的にも軍事的には最強のパワーを誇るアメリカの社会にも間違いなく暗い影があったわけです。メディアとハリウッドの世界では「赤狩り」があったのもこの時期。人々が経済的に豊かになり、郊外にマイホームを持ち始め、中流家庭を享受する一方で、共産主義への過剰な恐怖や、核競争時代の本格的な到来とともに未来に対する不安感が世相を覆っていた時期。

またこの時期はSF小説の大家アーサー・C・クラークやアイザック・アシモフ、ロバート・A・ハインラインなどのSF小説の大家が活躍した時代であります。科学が人類の未来を明るく照らすと考えられていた時代でもあります。またそうした科学の発展を宗教や超常現象の解明にも役だつのではないかという考えが起こってきたのもこの時期からです。この映画のモデルとなったサイエントロジーはそうした時代背景から生まれた新しいタイプの宗教ですね。サイエントロジーの創始者L・ロン・ハバードも元々SF小説家ですが、50年に出版した「ダイアネティックス」がベストセラーとなり、ここからサイエントロジーの歴史が始まるわけですね。
ある種の自己啓発本のようなものですが、SF的な想像力の延長線上に本来の自己の回復の仕方の科学的アプローチというのがでてきたのでしょうね。むしろ最初は宗教ではなく、科学だと定義づけていたようですし。

科学が本格的に宗教にとっても変わるような時代に突入していったのがこの時代でした。サイエントロジーはそうした時代の申し子だったのかもしれませんね。

船長(マスター)は船から離れることはできない

L・ロン・ハバードもサイエントロジーの勢力が大きくなるにつて、彼と彼の団体を巡って様々なトラブルの渦中に位置することになるのですが、この映画の中の権力者であるマスターもまた、反対勢力や当局から睨まれる存在となっています。

この物語の主人公フレディ(ホアキン・フェニックス)は、第二次世界大戦に水兵として参加し、アルコール中毒と患います。戦争終了後にデパートのカメラマンとしての職を得ますが、アルコール中毒を克服できず、問題を起こしクビになります。行く先々で問題を起こし、行き場を失い、偶然通りかかった船に無断で乗船。その船でザ・コーズのマスターであるランカスター・ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)との出会いを果たします。

そしてマスターのメソッドによって、それまでフレディが表に出したことのなかった感情が溢れ出します。自己啓発風にいうと「真実の自分」というものでしょうか。自分を卑下していること、欲望、故郷のドリスという想いをよせる女性のことなどなど。。。
ここからフレディがマスターを慕い始めるのですが、彼はヒドい癇癪持ちなので、マスターに敵対するものには容赦なく暴力で対抗します。そうした彼の振る舞いがこの団体の社会的信用をいっそう奪うのですが、マスターはなぜかフレディのことを放逐しようとしません。それどころか親族、とりわけ奥さんからもフレディを追い出すべき、という助言を受けているにも関わらず彼を家に置いておきたがります。

マスターは、多くの信者を抱えていますが、その内実は「カリスマ」と呼べるかどうかは疑わしく、フレディの作る危険なアルコールを愛飲し、反対者には必要以上に声を荒げて相手の言い分をシャットアウトし、奥さんに手コキで抜いてもらい鋭気を養うなど、かなり矮小な人間でもある。社会や人間の真理を追求すれども、周囲の評価を気にして、社会から束縛されている、そんな存在。
対してフレディは社会に居場所を見いだせない下劣なアウトローであるが、言い換えるとかれは社会から自由であるとも言える。とても好対照。それゆえ彼はフレディがどれだけ悪態をつこうとも放逐しない。

フレディがバイクに乗り、疾走(失踪)したあと、フレディが人気のない映画館でみているアニメーション映画の台詞はとても印象的です。
「船長は船から離れることはできない。船から離れれば船長でなくなってしまう」

フレディとマスターの最初の出逢いは船の上だったことを覚えていれば、この何気なく流れるアニメの台詞は重要な意味を持つ事に気づくでしょう。
船長(マスター)は、自分を信じる船員(信者)を引き連れる(導く)キャプテンだが、それ故に船(教団、あるいは社会)から自由になれない。フレディはそこから自由。彼は誰の導きも受けずに高みへ登る。。。マスター曰く「マスターなしで生きる最初の人間」になれるのかどうか。。。

フレディにとって、社会の未練はドリスという女性のみ。バイクで失踪後、彼はドリスを訪ねるが、彼女はすでに結婚し子供もいて、幸せな家庭を築いていることを知ってしまいます。これによって彼を社会に縛り付けるものは亡くなっています。彼は社会の外に出て、マスターの求めるような超越的な存在になれるのかどうか、というところで映画は幕を閉じます。

混沌のまま人は生きることは可能か

この映画は、自分の混沌とした感情の正体を恐れる男が、マスターの導きで克服し、その先のだれも到達していない地点(マスターをなしで生きる)という混沌に向かう物語でしょうか。
人は混沌(アノミー)を恐れる、アノミーの吸収装置として宗教は社会に必要。宗教の部分に科学を代用してもいいのかもしれない。そうしたものを必要としない地平に人は辿り着けるのか。

単純な物語なら、混沌があり、克服するために戦いがあり、平和に着地して終わりですが、これは着地せずにもっと深い混沌に向かっているような作品ですね。それでも折れない強靭な「何ものか」こそがこの映画に描かれた核なのでしょう。それが何なのかは言葉にできそうにありません。

公式サイト
映画「ザ・マスター」公式サイト

ポール・トーマス・アンダーソン監督作品

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