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【児童ポルノ改正法案問題】社会倫理と表現規制の先行事例としてハリウッドのヘイズコードを再考してみる

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前回児童ポルノ改正法案の表現の影響について書きましたが、それの続編というか、少しまた違う角度から社会倫理と表現規制の問題について考えてみます。

前回の記事はこちら。
児童ポルノ改正法案問題とクールジャパン問題と残酷なグローバリズム

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via Hays Code | Publish with Glogster!

倫理観・道徳と表現の規制で僕が思い出すのはやはり30年代から30年間ハリウッドを規制し続けたヘイズコードです。これはぶっちゃけ児童ポルノ規制も霞むくらいの厳しい規制でした。
ヘイズコードとはアメリカ映画製作配給社連盟が規定した自主規定。この自主規定が生まれた背景には政治的な圧力がもちろんあり、法によって規制される前に自ら規範を示すことで、介入をとどめようとしたのが狙いが言われています。当時のアメリカ映画製作配給社連盟の代表を務めていたのが共和党の政治家ウィル・ヘイズであったことからヘイズコードを呼ばれています。1934年から68年もの30年以上の間施行されたこの規定倫理は後にカトリック団体の圧力により、かなり厳格なものになっていきます。しかも割と人種差別的な内容をも含んでいます。白人の奴隷は出してはいけないとか、白人と黒人の性的表現は禁止とか、キスは3秒以内とか、汚いスラングを使用するのもダメでした。衣装も過度な露出のあるものは禁止など、今考えると非常に厳しい内容の規定となっています。出産シーンもNGだったんですよね。かけがえのない命の誕生はいかがわしいんでしょうかね。。

ヘイズコードは法律ではなく、政治的な圧力も背景にはあったとはいえ、自主規制でした。それもかなり過剰な。脚本の段階からチェックし、カットしなければいけないシーンを突き付けたり、試写会段階でも当然ダメだしをしてきます。

もし今でもヘイズコードが続いていたら、これらの映画も作られなかったんだろう、という予測で現代のヘイズコードに引っかかりそうな映画リストを書いている人がいますが、たしかにここに挙げられている映画は厳しいでしょうね。
Movies against law (The Hays Code) list

さて、非常に厳しい規制を製作側に課していたヘイズコードですが、その時代のハリウッドは勢いを失っていたかというと、そうでもありませんでした。というかこの30年代から40年代はハリウッドの黄金時代と言われているほどにハリウッドは隆盛を極めていました。
当時多くの巨匠と呼ばれる監督が活躍していました。ヒッチコック、ハワード・ホークス、オーソン・ウェルズ、ジョン・フォードetc…風と共に去りぬような大作映画が作られたのもこの時期。

こうした巨匠たちはこの検閲をいかにかいくぐって表現したいものを表現するか常に研究しており、中でもヒッチコックは検閲をかいくぐるために新しい演出テクニックを編み出し、後の映画界に大きな影響を与えました。有名なサイコもシャワー室での殺人シーンも直接ジャネット・リーの身体にナイフが刺さるシーンは描かれていません。そうした暴力を見せてはいけないとヘイズコードが規定している中で、ヒッチコックはむしろ見せずに直接見せるよりも恐ろしい演出テクニックを編み出したのですね。

さらに汚名という作品では、キスシーンは3秒までという制約をあざ笑うように3秒以内のキスを連続させて合計2分半のキスシーンを作り上げて、映画史上に名を残すキスシーンを作り上げました。

ハリウッドの黄金時代とヘイズコードの規制の関係は、ある種の制約は表現の革新性を生み出すモチベーションとなっている可能性の議論としてはよく引き合いに出されます。映画評論家である蓮實重彦氏は、ヘイズコードの存在がハリウッドを視覚優位の表現に向かわせず、物語優位の発展に向かわせたと主張していたりもします。要はヌードや過剰なバイオレンスで簡単に客を呼ぼう、という発想で映画を作ることができなかったので、シナリオを徹底的に磨く方向に当時のハリウッドは行くしかなかったってことですね。(もちろんハリウッド黄金時代の形成はヘイズコードだけが要因なんてことはありません。ほかにもさまざまな要因があります)

制約による新しい表現の例は、日本のリミテッドアニメにも見て取れるでしょう。スケジュールと予算でディズニーのような滑らかなアニメーションの動作で勝負することのできなかった日本のアニメの環境が止め絵の美しさとストーリーを磨き上げ、結果それが今の日本のアニメの最大の強みになっていることはよく言われる話ですね。

最も、ヘイズコードを肯定できるのかというと、それは難しい話です。規制の目をかいくぐって製作された作品を僕らは後からこうして評価できるわけですが、その陰でお蔵入りになってしまった作品も多数存在するはずです。そして、それらの作品の是非は公開されていないので、後から是非を問うこともできないのです。人は生まれてこないものにまで思いを馳せるのは難しい、けれど規制がなければあり得たかもしれない存在もあるわけです。

ハワード・ホークスの傑作「暗黒街の顔役」は34年のヘイズコードが施行される数年前に公開されました。(それでもヘイズオフィスとのかなりの攻防があったようですが)
犯罪を賛美するような作品も禁じていたヘイズコードがもし数年はやく施行されていたら、あの作品は生まれたこなかった可能性もあるということですよね。
あの名作がお蔵入りになっていたら映画の歴史においても相当な損失だったでしょうね。。。

ヘイズコードの恩恵で名シーンを生み出した例としてサイコを挙げましたが、サイコ製作当時はヘイズコードの規制は大分弱体化していました。乳首は見せていないとはいえ、シャワールームを舞台にできたのもその弱体化のおかげでしょう。その意味で言えば、ヘイズコードの規制が最盛期のままであったら、サイコも生まれなかった可能性もあったのかもしれません。少なくとも今僕らが知る形ではなかったかもしれない。

児童でポルノ改正法案に現状の文案のまま、創作物まで禁止されれば、日本のアニメやマンガ業界は、ある程度の方向転換を余儀なくされることになるのでしょう。そこからストーリーテリングのさらなる磨き上げ、という方向に行くのか、どうなのかはわかりませんが、わかりやすい性表現には訴えづらくなるから、別のストロングポイントを伸ばしくしかないのは確実。一方で、生まれることのできない大量の作品も出てくるでしょう。生まれていない作品を惜しむのは人間には難しい。本当はその中にも傑作があるかもしれないわけだが、それも誰にもわからなかくなる。

児童ポルノ問題とヘイズコードの違う点は、これが国による法規制か、団体による自主規制かという点です。アメリカのコミック界はヘイズコードを参考にコミック・コードという規制ガイドラインを設けていたことがありますが、これも自主的な倫理規定だったため、そうした団体に背を向けアングラ市場で活躍したロバート・クラムのようなコミックアーティストが生み出されたりもしました。

ただ、法律の場合はこうはいかんのですね。正規流通に乗せたメジャー作品だろうと、アングラだろうと同じ法で裁かれてしまうので。インターネットの時代なのでメジャー団体が規制を掲げてもオルタナティブな活動はしやすくはなっているんですが。

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