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「男の子」も頭からっぽで生きることは許されるだろうか

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HKT48の「アインシュタインよりディアナ・アグロン」の歌詞がいろいろ物議をかもしてる。この歌詞についてあさっての方向からちょっと考えてみたいと思います。とくに結論はないです。

この歌詞の「女の子」の部分を「男の子」に変えて男性ボーカルが歌ったらどうなんだろうと思った。

男性が「バカで頭からっぽでいい」と主張したら、世間的にはどんな風に受け止められるんだろう、と。
おそらく、その価値観は通用しない。通用する場面が思いつかない。でも「女の子」の価値観としては、(それがオッサンの作ったものだとしても)通用する場面がありそうな気がする。この価値観は今の世の中では男女入替えの可能性がない。

どうして男は頭からっぽで生きてはいけないんだろうか。端的に言うと、それじゃ生き抜けないからなんだろうけど、なぜ男は頭からっぽでは生き抜けないんだろう。そしてそういう男はモテないだろうとも思う。でも頭からっぽにしてかわいく振る舞う「女の子」はモテることがある。なぜ。

男はあらかじめ「頭からっぽ」にして生きる選択肢を奪われているような気がしてならない。女はしかし、「頭からっぽ」にして生きる選択肢がある。知的に生きる選択肢もある。

榎本ナリコの「スカート」という漫画がある。男であることに違和感のある男子高生・花と女であることに違和感を持つ女子高生・葉子と自分が男であることに何の疑問も持たない男子高生・幹の3人の物語なのだが、この漫画はこういう台詞のやり取りで幕を開ける。

花「女っていいよな」
葉子「何でえ?」
花「服装が自由で。スカートもズボンも両方はけるじゃん。色とかもキレーだしさ。メンズなんかドドメ色ばっかでさ—」
幹「何、花田、お前スカートはきたいのかよ!」
花(モノローグ)「『そうだよ』と軽く応えたのならお前はどうするんだろう。風を受けてひるがえるスカートをはいたらどんな気持ちだろう。両足をしめつける重い布の足カセをのがれてオレは自由になれる気がする」

あとがきに榎本ナリコさんはこうも書いている。

女子としての不自由感を感じていた子供の私が、唯一男子より自由だと思ったのが、実はスカートを履く自由だったのでした。
中略
女子は不自由ばっかりだ、と思っていた私が、男の子のなかに初めて発見した不自由が「スカート」だったのです。

僕は一時ピンク色を服を意識してよく着ていたことがある(18,9歳のころ)。ピンクという女子特有の色があるので、男子特有の色がないのはなぜなのか、疑問だったから。なんでないんですかね、男子のカラーって。黒も青も緑も紫も男子特有じゃない。ピンクはなんだか「特権的」な感じがしたんですね。なんで男にはその選択肢がないんだろう、という疑問があった。(結局似合わないのでいつしかやめた)

同じあとがきで榎本ナリコさんは、子供のころに書く「将来の夢」の作文などのエピソードでこうも書いていた。
『男の子は「野球選手」などと書く一方、女の子は選択肢が少ない。「お嫁さん」「保母さん」「お花屋さん」がトップ3という男の子に比べて堅実なものばかり。でも不自由なのは女ばかりじゃない。逆に考えると男の子は「おムコさんになる」将来の夢を奪われている、と。
もしも「おムコさんになる」夢を抱く自由が男の子にあるのなら、女の子の「お嫁さんになる」夢も、選択肢のなさによって追い込まれた苦渋の選択ではなく、純粋に願いとなると思うのです、と

男は頭からっぽで生きたいと願う自由はあるんだろうか。
HKT48の歌詞は、どんな状況下の、だれのどんな願望(あるいは環境への適応かね)を歌ったものなんだろうか。もし男の子も頭からっぽで生きることを許容される社会なら、あの歌詞は純粋に願望になり、批判もされなかったのかな。

多分、あの歌詞は男には歌えない。歌う自由がない。ということは女性の、いや「女の子」の特権ということなんだろうか。ねじれた社会的価値観に強いられているのか。
それとは別に、男が「男の子」として振る舞える自由を獲得する時代っ来るのかなあ、などと思ったりもしている。

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