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『AMY エイミー』は素敵な笑顔の女性を失った悲しみを共有するための映画だった

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人間エイミーの実像に迫る映像の数々

27歳という年齢は音楽ファンにとって特別な年齢だろうと思う。「27クラブ」なんていい方もあるが、多くの稀有な才能を持ったミュージシャンがこの年齢で亡くなっている。(もちろん、20世紀少年的に言えば「ジジイになってもすごいロックやってる奴はいっぱいいる)
27歳で死んだらすごいミュージシャンになれるわけではもちろんない。しかし、エイミー・ワインハウスのジャズ・シンガーとしての実力は本物だった。彼女の死を多くの人が惜しんだわけだが、メディアを通じてしか僕らは彼女のことを知らなかった。彼女の歌詞は自身の人生を色濃く反映したものが多く、それが若い人々の共感を広く集めていたのだが、実際のところ歌を聞いて彼女のついて何か知ったつもりになっていたとしても、「スキャンダラスな歌姫」エイミーの本当の人生については何も知らないままだった。

貴重な才能が世界の音楽シーンから失われたことはとても大きな損失だ。しかし、この映画を見ると僕らはもっと大きな失ったのではないかと思えてくる。
彼女の曲には、彼女を身近な存在に感じさせる何かがあったように思う。しかし、本作ではさらにエイミー・ワインハウスを身近な、家族や友人の距離の存在として感じさせる。友達のような存在を失った悲しみ、友達が壊れていくのに何もできない苦しみがこの映画には溢れている。

ホームビデオからパパラッチの映像へ

映画冒頭の入り方が秀逸だ。最初のショットはエイミー・ワインハウスの14歳のころのホームビデオ映像。親友の二人(声だけのインタビューでその後も度々登場する)と三人での誕生日会の模様を写したビデオだが、ここで歌うエイミーの歌唱力の非凡さと無邪気なティーンエイジャーの姿が対照的だ。稀有な才能を持つが普通の女の子、エイミーの姿が実によく現れされた映像だ。
本作には冒頭だけでなく、数多くのプライベートなビデオ映像が使用されている。メディアを通じてしか知らない彼女の素の表情がたくさん見られる。その多くは無防備ともいえるほど素の笑顔だ。
しかし、本作の構成が秀逸なのは彼女の知名度が上昇していくにつれ、プライベート映像は減っていき、代わりにパパラッチが撮影した映像が増えていくことだ。同じカメラでもエイミーの表情はまるで違う。友人たちの撮影した私的映像で、観客にも身近な存在として提示される彼女がどんどん「知らない人」へと変貌していき、手の届かない存在になっていく様に感じさせる。きっと近しい友人たちはこんな思いをしていたのだろう。

映画を見て初めてみる彼女の顔がある。メディアを通じて彼女のことを知る人達は、彼女の死をその比類なき才能ゆえに惜しんだかもしれない。だが、本作を見た人はもっと身近な人を失ったかのように感じるだろう。テレビ画面の向こうの人ではないエイミー・ワインハウスの姿が(ポジティブな姿もネガティブな姿も)この映画にはたくさん映っている。
あの美しい歌声がもう聴けないんだ、ではなく、あの素敵な笑顔はもう見れないんだ、という喪失感を抱えて観客は映画館を後にするだろう。

C)Winehouse  family
C)Winehouse family

本当に悲しくて苦しくなる映画だが、こうして彼女の歩んだ道を克明に記した作品が残ることには感謝だ。ここには屈託のない笑顔のエイミーがいつでもいる。

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