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映画「葛城事件」切断操作不能なシリアルキラー映画

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いわゆる後味の悪いタイプの作品だ。この手のタイプの作品は後味の悪さを楽しむというか、尾を引くモヤモヤを自分なりに考えて咀嚼する態度で鑑賞することにしている。しかし、この映画はきつい。前向きに共感できる登場人物が出てこない。だからと言って世の中のごく少数の悪人を描いているというわけでもなく、「こういう人ってよくいるよね」というタイプの人物ばかり出てくるのだ。
家父長制の権化のような父親(三浦友和)、息子に無条件で甘い母(南果歩)、リストラされたことを言い出せない長男(新井浩文)、人生が上手くいかないのは全て社会のせいにする次男(若葉竜也)。これを見る観客もどこか既視感を憶えるかもしれない。身近にこんなクソ野郎どもがいてほしいと思いたくはないが、確実に身近にも存在している。この映画はそんな家族を描いている。だからこそ、鑑賞後に感じる閉塞感がただごとでない。

本作は、赤堀監督の舞台劇が原案となっている。舞台版は附属池田小事件をモデルにしていたそうだが、映画版ではさらに複数の事件の要素も取り入れたそうだ。映画.comによると舞台版と映画版の違いは以下の点とのこと。

映画版の製作に当たり赤堀監督は新たに「土浦連続殺傷事件」「秋葉原通り魔事件」「池袋通り魔殺人事件」など、近年起きたさまざまな事件を参考にしたという。それぞれの事件の犯人像や公判の傍聴記録、事件を起こすに至った背景、家族像などを調べ上げ、稔を生まれながらのサイコパス(反社会的人格障害者)として描いた舞台版とは異なり、強権的な父親の元で育ったがために屈折してしまった人間として構築していった。
無差別殺傷犯の人物像は実在の事件を参考に 「葛城事件」死刑囚・葛城稔の特別映像 : 映画ニュース – 映画.com

舞台版は未見だが、上記のように生まれつきのサイコパスとして描かれているなら、観客もある程度「切断操作」が可能になるが、映画版では監督はその選択をしなかった。連続通り魔事件を起こすような輩をより身近に感じさせる選択をした。
インタビューで赤堀監督はこのように語っている。

舞台では先天的なモンスター、いわゆるサイコパスを描いていましたが、映画ではもっと後天的などこの家庭にでも起こりうるであろう可能性を秘めた人物描写を目指しました。観客に対しても自分自身にも言っている事ではあるのですが、これは対岸の火事では無い、私たちと地続きにある物だという想像力を喚起したいなという想いで作りました。
家族の崩壊を描く衝撃作『葛城事件』赤堀監督インタビュー「明確に言語化できない“現在の雰囲気”を掴みたい」 | ガジェット通信

鑑賞後のキツさは、こうして通り魔を身近に引き寄せる描写によるものだが、見る観客には大きな緊張感を伴う。よくぞ選択したものだなと思う。この家族は確かに壊れていて、何でも他人や社会のせいにしてしまうのだが、観客はこの家族に対してある程度理解できてしまい(させられてしまうと言ったほうが正確かも)、自分の中にも責任転嫁の感覚を見つけてしまう。
こうなると恐怖に襲われる。映画が怖いというより、この恐ろしい家族のようになってしまう可能性を自分の中にも見つけてしまったことへの恐怖だ。

しかし、死刑囚となった次男と獄中結婚する星野順子(田中麗奈)が圧倒的に不気味だ。三浦友和はじめ役者陣のパフォーマンスが大変素晴らしいのだが、田中麗奈はとにかく異彩を放っていた。家族がどこにでもいそうな感じなのに対し、死刑制度反対を訴える星野は日常であまりお目にかかるタイプの人間ではない。最後まであれはなんだったのだろう、と疑問がつきまとい続けるが、社会の全ての人間を理解できるなんて思うのはそもそも傲慢だ。そんな傲慢さを打ち砕かれるような、そんな凄みのある演技だった。

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