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「聲の形」は何を描いた作品なのか

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※ネタバレあります。

石田将也の一人称の物語

映画「聲の形」がヒットしている。原作マンガは有名だし、この題材をを京都アニメーションが、山田尚子監督で挑むという意外性も手伝っているだろうか。実際、これを京アニがやるとは随分思い切ったなと僕も思った。下手すると、京アニの築いたブランドイメージを損なうのでは、と思ったけど、昨年放送の「響け!ユーフォニアム」で結構シビアな人間関係に踏み込んでいたりして、少しずつ地ならししていたというか、いじめなど深刻な題材にもいきなり挑んだというわけでもないのだが。

本作、原作の読み切り版が少年マガジンで発表された時にも、様々な角度から話題になったのだが、今回映画化され一部の議論が再燃しているようだ。『24時間テレビは感動ポルノであるか』という議論が少し前にも大きく取り上げられたせいもあってか、本作もその議論の対象になっている。
感動ポルノは、個人的には好きではない。障害を持つ人への一面的な見方すぎるし、記号的に扱って手軽に感動を作ろうという手法は、倫理的な批判よりも個人的には稚拙だと感じるからだ。しかし、感動ポルノは世間への理解へのファーストステップとして機能しているとも言えなくもない。だが、ファーストステップはファーストステップなので、24時間テレビはいい加減セカンドステップとして新たな視点を提供してもよいのでは、しかも放送時間24時間もあるわけだし、とは思う。24時間あれば多様な視点を提供できるはずだ。

さて、「聲の形」であるが、この作品は何を描いた作品だろうか。聴覚障害の少女は登場する。男のように振る舞う妹も登場する。いじめっ子がいじめられっ子に転落する様も描かれる。自殺もほのめかされる、主人公もヒロインも片親である。その他、様々な要素が重層的に詰め込まれている作品だ。その複雑に絡み合った要素を含んだ物語の主人公は石田将也だ。さらにこの作品は、原作も含めて石田に起きた出来事を描く一人称視点が採用されている。ということは必然主人公石田の心の変化を描いた作品だということになる。

石田は、小学校時代に聴覚障害を持つ西宮をいじめていたが、過剰ないじめのエスカレートによって自分がいじめの対象となってしまう。補聴器をたくさん壊し親にも多大な迷惑をかけた。小学校時代の経験から自己評価が極端に低くなり、他者とのコミュニケーション不全に陥っている。他者の顔を見ることができず、クラスの人間の顔には「☓」がついている。そんな石田の成長と回復を描いた作品だろう。映画での物語のゴールは、過去の精算や贖罪、赦しではなく、彼が他者の顔を見られるようになったところで終わる。この映画は他人の顔を見られなくなった少年が、再び顔を見ることができるようなった過程を描いた、ただそれだけの物語だ。それがちっぽけだということではない。作品の良し悪しは単純なストーリーのスケールで測られるべきものではない。そんなちっぽけな変化にもこれだけの葛藤を経ているのだ、ということを丁寧に描いた作品だということだ。

(c)大今良時・講談社/映画聲の形製作委員会
(c)大今良時・講談社/映画聲の形製作委員会

この作品に対する批判の柱は、ヒロインの西宮の描写にある。なぜ西宮はあんなにも従順で、あれだけ苛烈にいじめを受けたのに、石田を赦し、あまつさえ恋愛感情を抱くにいたるのか。まるで『聖女』かなにかのようだ。障害者は清く、美しくなければいけないという、感動ポルノが築いたステレオタイプな障害者像ではないか、と。

これに反論しようと思った時に戸惑うことがある。そもそもこういうキャラクターとして描くべき、という「べき論」の応酬をしても意味がないのではと思うからだ。そもそも彼女は上記にあてはまるようなステレオタイプなキャラとして描かれていたのか検証することは可能だが、それをやっても作品の本質を語ることには繋がらず、批判を批判するための文章になるだろう。

ただ、西宮はヒロインというポジションにあたるが、作中最も謎なキャラクターでもある。観客にとっても謎、ということは、一人称物語の主体である石田にとってもわからないことがたくさんある存在ということだ。この一人称の主人公が女に翻弄されるような物語構成をもって、批評家の渡邉大輔氏はノワール的な作品と評している
ノワール的はこういうことらしい。たしかに西宮が運命の女だとすれば、ある意味石田が翻弄される話とも見て取れる。

 フィルム・ノワールは、その多くが、レイモンド・チャンドラーなどの同時代のハードボイルド探偵小説を原作としています。タフな探偵である主人公が、蠱惑的なファム・ファタール(運命の女)に翻弄される物語。チャンドラーの小説(あるいはずっと後につくられた村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)を思い浮かべてもらえればわかるとおり、ハードボイルド小説は探偵の一人称を採用しています。それらを原作としたフィルム・ノワールも当然、一人称=主観ショットを特徴のひとつとしています。
渡邉大輔「フィルム・ノワールの現代性」―連載〈イメージの進行形〉第5回 – Wasebun on Web

ノワールかどうかは、あまり僕の関心にはないので、この話はここまでにしておくが、この作品は一人称であるので、石田以外の人の気持ちが克明に描かれているとおかしい作品なのだ。いじめられた相手を好きになる西宮の気持ちがわからない、都合が良すぎるという批判もあったが、人が誰かを好きになる気持ちがわかったらすごすぎるし、もう一人石田に好意を抱く植野の好きになる理由も同様に描かれない。それは石田の知らないことだからだ。
西宮の自殺の唐突感にしても、原作の頃から理解しにくいという意見はあったが、自殺に思い至る心情を他者が推し量ることは本当に困難なことだ。ひとつだけ作品から言えることは、西宮はかなり自己評価の低い人間だということだ。(観覧車のシーンでそのことを植野には告げているが、ここもその相手が植野だったことはかなり重要な意味を持つ。佐原でも石田でも結弦でもなく。この辺に人物配置が巧さがある)
自己評価が低い、というのは石田にも同じことが言える。この2人は自己評価の低さでつながるという、ある意味でとても不幸なつながり方をする。しかも、お互いが自分のことを加害者だと考えている。本作は、この不幸なつながり方によって生じるすれ違いや葛藤を2時間かけて描いている。石田が西宮にノートを返しに行くのも、西宮がそれを受け入れるのも、赦しの感情よりも、加害者感情からくる罪悪感のほうが先行しているのではないか。

その自己評価の低さという、あまりよろしくない絆がようやく少し前向きになったところで(石田に関しては)、この映画は終わる。ただそれだけのことを描くのにこの映画は2時間を費やすのだが、それを丹念に、ときには執拗な描写で描くからこの映画は感動的なのではないだろうか。物語の本筋に感動ポルノが入る隙間はあまりなかったように思う。

一言で言えば、本作は人と人がわかり合うというそもそもがありそうもないことに、苦しみながらも挑む様を描いた作品なのではないだろうか。

なぜ聴覚障害でなければいけないのかの問いの複雑さ

人とのつながりがテーマであるなら、それは聴覚障害を題材のひとつにせずともえがけるのでは、という批判は成立し得る。成立し得るが危うい。なぜなら、その問いは聴覚障害を持ち出す以上、そこには何らかの意味が必ずあってしかるべきという感覚に結びついてしまうからだ。例えば逆に植野がなぜロングヘアなのかを同じレベルで問うことがあるだろうか。

少し前にバズフィードにこんな記事があった。

「感動か笑いか、だけではしんどい」24時間テレビとバリバラに出演 義足の女優が語るリアル
「例えば、映画やドラマの中で、身体障害者が取り上げられるときは、主役が多いですよね。でも、リアルな学園ドラマや、街を映すときはどうですか?学校にいたはずの障害者、街を歩いているはずの障害者はそこには写ることはほぼない。障害者がいない、健常者だけの『きれいな世界』がそこにあるだけです」
「ある映画のエキストラの募集要項の中に、補助器具や介助者が必要な人はNGだとありました。彼らの意識の中に障害者を排除しようという思いはないでしょう。でも、これを読んだとき『あぁ私は参加できないんだ』と思いました。実際に、エキストラで障害者の姿はほとんどみませんよね」
「こうやって、リアルな世界の中にいるはずの障害者は、メディアからは消えていくのではないですか。私には、日常的に映らないことのほうが大きな問題に思えます」

実際にエキストラで障害者を起用したらどういう反応があるだろうか。もし障害者を起用する時には特別な意味がなければならないとしたら、エキストラに特別な意味を求められても難しいし(当然、エキストラの配置にいたるまで全て画面に映るものには演出上の意図はあるけども)、脇役に起用することもかなり気を使う。本当なら、障害を気にすることなく、ただの日常描写でそこに存在することが描写として自然であることの方が理想的じゃないだろうか。たまたま、(それが主題でないにも関わらず)聴覚障害の少女がヒロインであったとして、それはどの程度問題なのだろうか。

感動ポルノから抜け出すには上記のような感覚はとても重要だと思っている。「聲の形」の主題を描くには、聴覚障害という要素は必須ではない。しかし存在しても良いと僕は思う。映画のラストのように、健聴者と当たり前に混じって文化祭を回るように、そこに当たり前に存在していいと思うのだ。

関連記事:『聲の形』”天才”山田尚子監督の演出術について書きました。

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