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「ハドソン川の奇跡」決断という人のあり方をめぐる物語

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クリント・イーストウッドの映画は常にシンプルだ。奇をてらった演出はしない。至極「普通」に撮っているという印象なのだが、完成した作品は普通を遥かに超えた素晴らしさにあふれている。おそらく本人は本当に「きちんと」撮ってるだけのつもりだろう。長年蓄積された映画作りの経験から、最適解をすんなりと決断できるのだろうと思う。「こういうのはこう撮る」、「この場面ではこう芝居してもらう」とその場その場で、瞬時にベストな判断ができるほどに身体に映画が染み付いているのだろう。
必要な時に必要な判断ができる能力、というのはシンプルでいて簡単に身につくものではない。だがイーストウッドは映画の現場においてそれが誰よりも的確にできる。それはそのまま本作の主人公、サリーの明晰な判断にも重なる。

この映画はシンプルに物語を受け止めれば、決断に関する物語だ。人はどうやって決断するのか。データとコンピュータによるシミュレーションが発達した現在、多くの情報をコンピュータに処理させながら、人は日々を生きている。AIの成長が人間の仕事を奪うかもしれない、という議論が盛んになっている昨今、人間にしかできない、人間らしい仕事とは何かを日々考えざるを得ない時代になった。

おそらく、それは「決める」ということだ。この映画のサリー機長の土壇場での決断には人間らしさが凝縮されている。事故調査委員会で、サリーと副機長が裁かれる時、最後に重要視されたものも「人的要因(ヒューマン・ファクター」だった。

バートン・マルキールが著した「ウォール街のランダム・ウォーカー」という本がある。ランダム・ウォークとは、次に出現する確率が不規則に決定されることを指す。マルキールはこの著書で、どれだけチャートを分析しても、企業に関する詳細な情報を集めたとしても、株価の動きを予測しきることは、どれだけ卓越した証券アナリストにも理論上不可能であると主張する。過去の株価の動きや業績を全て網羅したとしても、市場全体や企業を取り巻く環境が、過去と全く同じ状況が訪れることはあり得ない。ならば、過去のデータを分析することで株価の値動きを予測しきることはできない。株式市場は常に偶然の入り込む可能性を排除できない。

翻って人間の人生を考えてみれば、人間の人生にも過去と全く同じ状況など訪れるない。毎日同じ電車に乗って、同じ会社に出勤しても電車に乗り合わせる人々が全く同じでることは考えられない。何かが日々違っている中で、人は日々決断をくだす。同じ状況などあり得ないにも関わらず、人は自らの経験に裏打ちされた決断をくだしている。

この映画のモデルとなった、USエアウェイズ1549便不時着水事故は、作中でも言及されているが、航空史上例のない低高度で両エンジンがフレームアウトするというものだった。事故直後に副機長が読んでいた「クイック・リファレンス・ハンドブック」は高度2万フィートでエンジンが停止することを前提に書かれたものだ(事故が起きたのはわずか高さ3千フィート地点)。低高度での両エンジン停止はそもそも想定外の事態なのだ。
この前例のない危機的状況でサリー機長は、的確な決断を下す。大ベテランのパイロットである彼も経験も訓練でも想定したことのない事態にも関わらず、冷静に判断した。クイック・レファレンスのチェックリストを飛ばし、いちはやくAPU(補助電源)をONにした(チェックリストの優先順位ではないにも関わらず、機長はこれを真っ先に実行した)。そして、管制官の引き返せとの支持を拒否し、ハドソン川への着水を決断、着水にはフラップは迷うことなく2を選択していた。(通常着陸時にはより機体を揚力を確保するためフラップをFULLか3にするものだそうだ
ちなみにこの事故は、鳥の激突によるエンジン停止から、ハドソン川への着水までわずか208秒の出来事だ。サリー機長の判断がどれだけ迅速だったかわかるだろう。

なぜサリー機長はこのような大胆な決断ができたのだろうか。長年の経験から来る直感としか言いようのないものであるが、それこそが真の「人的要因」と言える。前例はない。判断するにも十分な情報も時間もないなかで最良の決断をせねばならない。ハドソン川へ着水することだけではなく、APUの即時作動や、フラップ2の選択など、着水の成功率を高めるためにたくさんの決断を機長はしている。驚くべき決断力であると思うが、これこそが長年の経験を積み重ねた「人間」にしかできないものだろう。

それからもう一つ。映画ではあまり強調されていないが、冷静に的確な判断を下したのはサリー機長だけではない。副機長やフライトアテンダントも慌てず冷静に事態に対処し、的確な非難誘導を行っている。また救助の船の迅速な救助活動、沿岸警備隊や消防隊の尽力もあってこの『奇跡』は起きた。データやシミュレーションでは決してなし得ない「人的要因」こそがこの奇跡を作り上げたのだ。
「何事にも初めての事例はある」とサリーは言う。人生は大なり小なり全ての瞬間は初めてのことの連続だ。自分は、サリーのように毅然とした態度で決断をできているだろうか。

上映時間わずか96分で、これだけの人間に関する含蓄がてらいもなくシンプルに詰め込まれている。すごい映画だ。

 
※実際のUSエアウェイズ1549の航路。

File:US Airways Flight 1549.png - Wikimedia Commons
File:US Airways Flight 1549.png – Wikimedia Commons

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