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映画「わたしたち」が描く、教室という社会の生きづらさ

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 最初のカットで、一瞬で心を奪われる。そこにたたずむ少女の表情があまりにもリアルなのだ。これほどナチュナルな子どもの存在感を見たのは、是枝裕和監督の「誰も知らない」以来だろうか。すごい映画だ。

 ファーストシーンは、ドッジボールのチーム分け。リーダー格の子が欲しい人を順番に選んでいく。主人公は最後まで残ってしまう。そして彼女と同じように残される少女がもう一人いる。同じような姿勢、同じような表情で所在なさげに立ち尽くす2人の少女の間には、微妙な距離がある。

 この距離感がとても重要だ。お互い集団からはじかれたもの同士、でもそれぞれがそれぞれに対してそうなってしまった責任を負っている。

 
 韓国映画『わたしたち』は小学校のいじめを題材にした作品だ。ねたみ、そねみ、自己保身、罪悪感、貧富・・・ 小学校の教室という小さな「社会」でも大人社会同様、いろいろなしがらみがついてまわる。小学校を舞台にしつつも、子どもたちだけの問題ではない、人間が社会を営む時の普遍的な課題を数多く突きつける作品だ。

 
 貧乏な家庭で育った、小学校四年生のソンは学校で友だちがおらずいじめられている。ソンは夏休みに転校してきた同い年のジアと偶然出会い、仲よくなる。夏休みという特別な期間には、2人の間を邪魔するしがらみは何もない。ジアの家庭は裕福で、塾にも行っており、成績も優秀。そんな子が自分の友だちになってくれたことがソンにとってはとても嬉しいことだった。

 しかし、彼女たちの友情は長く続かない。新学期が始まり、正式に同じクラスに転入してきたジアはソンに対して冷たい態度を取るようになってしまった。ジアの通う塾には同じクラスの子もおり、ソンがいじめられっ子であることを知ってしまったのだ。ジアは自分がいじめの対象には絶対になりたくないと思っている。なぜなら、彼女の転校の理由は、前の学校でいじめにあったからだった。

 ジアはスクールカースト上位の子たちと遊ぶようになるが、結局は出る杭は打たれるということか、クラス1の成績優秀者だった子よりもテスト結果で上回ってしまったジアもまた、いじめの対象になってしまう。クラスの子たちはそれぞれから弱みを聞き出しながら、2人をいじめ続ける。

 
 社会には様々なしがらみがあり、純粋な好き嫌いだけで成り立つ人間関係はほとんど存在できない。会社でも学校でもそうだし、趣味の集まりにですらそうかもしれない。子どもにとっての社会とは学校そのものだが、教室の中には、貧富の差による差別もあれば、微妙な力関係による権力差もあれば、利害闘争すらある。ジア前の学校で上手く立ち振る舞えなかったがゆえに、新しい学校では生き馬の目を抜くように教室の人間関係に気を配るようになった。(それでも虎の尾を踏んでしまうわけだが)

 
 学校に限らず、人間が集団を形成すれば必ず起きる軋轢がこの映画には詰まっている。そして、そんなしがらみから解き放たれて純粋な人間関係は成立するのか、映画を見ている観客は問いかけられる。夏休みという、社会に属す必要のない期間にはたしかに、2人は純粋に「友だち」だった。主人公の幼い弟は、そうした純粋な友だちを持っている。私たちはいつからしがらみを計算しなければ人と付き合えなくなるのだろうか。

 
人間社会に対する鋭い洞察が満載の作品だ。誰もが自分の過去と向き合うことになるんじゃないだろうか。
 

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体
内藤 朝雄
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