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即興芝居とアニメーション。『リズと青い鳥』

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言葉で決めつけたくないから映像にする

 山田尚子という監督は、今日本の現役映画監督の中で最もフィルムメーカーらしい人なんじゃないかという気がする。今年カンヌ国際映画祭に行く濱口竜介に近い存在かもしれない。人間は言葉で思考し、コミュニケーションする生き物だが、優れたアーティストは絵や音楽などそれぞれの手法で言葉と言葉の間にこぼれ落ちた、捕まえきれない情動を表現する。凡庸な表現者は、言葉の範疇に収まるものを他の表現物に代替させているだけにすぎない。ただライターとしては、そういう作品の方が仕事は楽だ。優れた作品ほど仕事しづらくて困る。困るけど映画ファンとしてはそういう作品に出会えた方が嬉しい。

 
 で、『リズと青い鳥』はどうなのかと言うと、非常に困る作品だ。素晴らしい。あの2人を描くためには、確かに映像ではなくてはならかったという気がする。原作では希美とみぞれの間で久美子が立ち回ることで描かれた2人の本音が、映像に立ち込めているというか。映像純度がものすごい高い。こういう映画にはそう簡単には出会えない。

 
 映像が言葉の領域を外れた情動を描けるからといっても、そして監督個人がその資質を持っていたとしても、なかなかここまでの純度の高い状態でフィルムが完成することは滅多にない。

 映画制作のプロセスを考えてみればなぜなのか良くわかる。どの作品を映画化しようか検討するときに、当然会議では言葉でやり取りする。「言葉にならないものを描きます」と会議で発言したところで、取り合ってもらえる可能性は低い。

 もし企画が通っても、スタッフにイメージを伝える時もほとんど言葉によって伝達しなくてはならない。まあ絵コンテは存在するけども。とにかく映画制作の現場では、映像じゃないと捉えきれないモノを描くために、数多くの言葉を交わさねばならない。その言葉にとらわれていくうちにいつしかイメージも、言葉に絡め取られていき、気がつけば言葉の代替物にすぎないものになっていることが多い。

(C)武田綾乃・宝島社/「響け!」製作委員会

 実際、そういうものを突き詰めたい作家は、個人作業に向かうことが多い。実写でもアニメーションでもできるだけ制作人数の少ない単位に向かうだろう。

 アニメーション研究家の土居伸彰氏は、本作についてアニメーションのインディーズの想像力に近いとツイートしているのだが、そういうことを追求できるのは確かにインディーズだろう。(氏はもっと違う意味で仰っているかもしれないが)

 だが、山田尚子監督の京都アニメーションはインディーズと呼ぶには大所帯だろう。一体どのようにスタッフとイメージを共有しているのだろう。

 
 今回、監督にインタビューさせていただく機会をもらえたので、そのことを聞いてみた。彼女は非常に慎重に言葉を選んで質問に答えてくれるのだが、それは的確に表現できる言葉が彼女自身、見つけられないからだろうし、言葉で語ることはこの流動的な情動を無理やり固定化してしまうことにもなりかねないからだろう。試写会の舞台挨拶で「名前のない感情」を描きたかったと語っていたが、名前がないからこそ、それは何にでもなれるのであり、無理やり名付けてしまえば、その名前以外のものにはなれなくなる。だから、観客もむりやりこれに名付けずにそのまま受け止めた方が良い。

 
 しかし、スタッフとのやり取りではそうはいかない。だが、山田監督はこのスタッフとのイメージの共有については自信を持って、「京都アニメーションのスタッフはそういう機微に関してとても理解がありますし、ずっとそういうのを積み上げてきたスタッフですから」と言い切った。

 
 このスタッフへの信頼がものすごいカッコよかったので、記事の締めにそれを持ってきたのだが、山田尚子もすごいが京都アニメーションのスタッフ陣も傑物ぞろいなのだなと改めて思う。長年一緒にやっているというのもあるだろうけど。

(C)武田綾乃・宝島社/「響け!」製作委員会

アニメーションに偶発性はない・・・はずだが

 彼女の作品は実写的と言われることが良くある。僕もそう書いたことがある。他のアニメ作品よりも明確にカメラがそこにあると思わせるようなカットが多い。カメラの使い方が上手いなと思うが、本作の一番重要なポイントはそこではない気がする。

 
 実写とアニメーションの違いは多々あるのだが、僕の中で一番の違いは偶発性の有無だ。

 偶発性とは、例えば役者のアドリブだったり、撮影中に偶然写り込んだものをそのまま使用してみたりなど、ようするに予定にはない偶然の産物を取り入れる演出のことだ。

 実写の劇映画にも脚本はあるが、即興芝居を加えたり、偶然ロケ地で撮れたカットを生かしたりすることがある。それはあらかじめ設計されていた予定の作品に、どんな効果をもたらすか。

 
 現在公開中の映画から一つ例を挙げてみる。ドイツのファティ・アキン監督の『女は二度決断する』という映画は、ネオナチに家族を殺された女性が、司法で裁けない犯人に対して復讐を企てる物語だ。

 
 主人公は、ギリシャ旅行中のネオナチカップルの泊まるキャンピングカーに爆弾を仕掛け、離れた所で2人の帰りを待つ。そこに二羽の鳥がキャンピングカーに止まるカットが挿入される。主人公はそれを見て爆弾を取り外す。邦題にもなっている「二度の決断」の一度目を断念する瞬間だ。

 この鳥のカットは、脚本段階では想定していなかったらしい。あの鳥は撮影中に偶然飛んできたものを、反射的にカメラを向けたものだそうだ。監督は主人公の翻意をどう表現するべきか、いろいろ悩んだそうだが、この偶然撮れたカットにそれを託した。監督曰く「映画の神様がくれたプレゼント」だそうだが、理屈を超えた強烈な説得力を生み出しており、その瞬間の主人公の名状しがたいエモーションの表現となっている。

 
 偶発性の効果について、プロの役者を起用せず、素人を出演させることを好んだ巨匠ロベール・ブレッソンはこのように語っている。

「即興演出は、映画の創造の基礎を成す。白紙のままにしておいた困難な問題を、カメラを使ってたまたま解決できたときこそ、優れたものが出来る」。(作家主義、p438)

 
 僕はこの手の、自然なままの姿の即興的な芝居の作品がとても好きで、イタリアン・ネオリアリズムも好きだし、フリー・シネマも好きで、一番好きな監督はケン・ローチだ。初期の是枝裕和監督の作品ももちろん好き。これらの作品群には、たくさんの偶発性があるからだ。

この偶発性の発揮に関してアニメーションという手法にはデメリットしかない。なぜならアニメーションは全て人為的に人の手によって描かれたものであるからだ。

 
 しかし、どういうわけだか山田尚子監督の作品には、しばしばその偶発性に近い感覚を感じる。事前情報としてこれがアニメーションであるとわかっているから、原理的にそんなことはあり得ないと知っているのだが、その前提を乗り越えて、「たまたま」カメラを向けて撮られたかのような感覚を与えてくる。

(C)武田綾乃・宝島社/「響け!」製作委員会

 山田監督は別のインタビューで、「望遠カメラですごく遠くから、ひっそりとのぞき見するイメージ」で作ったと語っているのだが、まさにカメラでのぞいていたら「たまたま」撮れてしまったものを見せられているような、そんな感じだ。

 
 そういうイメージを作るために、例えばカメラのパンが人物の動きより半歩遅れていたりなどの細かいカメラ演出を積み重ねているわけだが、描かれたキャラクターたちの仕草のリアリティがやはりそう思わせる鍵なんだろう。

みぞれがよくやる髪を触る仕草などは、むしろ芝居っぽい。それよりも、ほんのちょっとの体重移動や、わずかな足の動き(しかもそれがフレームアウトしている時もあるのだが)などに、アニメーターが動かしているというより、自然に動いたものをカメラが収めたという感覚が宿っているように思う。「動き」を追求するのがアニメーションの基本だが、動かしたのではなく、自発的な人物の動きに見えてくる。要するに即興芝居のような肌触りがある。それをアニメーションで追求しているので、実際の即興芝居とはまた少し違い感覚も生まれている。

 
『リズと青い鳥』が、アニメーション・ドキュメンタリーであると言いたいわけではない。いや、もしかすると近い話かもしれないが、現実の記録や可変性の話よりもカメラが捉える偶発性そのものの効果だ。ドキュメンタリーは素材が現実ベースでそれをどう解釈、再構築するかというもので、偶発性そのものではない。ドキュメンタリーとはジャンル名でなく手法なので、この手法は、劇作品やアニメーションよりも、偶発性に出会う確率が高いというだけにすぎない。

 にもかかわらず、構成・編集で偶発性を排除してしまうドキュメンタリーはいっぱいある。そういう作品を観ると、「もったいねえなあ」といつも思う。

 
 ドキュメンタリーですらそうなのに、アニメーションである『リズと青い鳥』にそういう感覚が溢れてること自体がすごい驚きだ。不可能であるはずのことを可能にしている。これは驚くべきことだ。

(C)武田綾乃・宝島社/「響け!」製作委員会

断片の集積で作られる映画

 もうひとつ監督はインタビューで、「この映画って途中から途中を切り取った映画だと思っていて」と重要なことを語ってくれている。断片的という意味だと思うが、本作は断片的なエピソードの集積で成り立っている。これも結構重要なポイントだろう。

 
 ハワード・ホークスは、「物語を説明しなくても良く、ただ良いシーンを撮ればいい」と言っていたりもしている。極端な話、良い断片をそのままつなげれば、それはそのまま良い映画になる。

 全ての出来事には理由があるなどと思わない方がいい。理由がないと人は不安になるから、いろいろ後から理屈をつけたがるが、道に落ちている青い羽が美しいことに理由などないように、人生に起こる事件も脈絡なく起こる。人の人生はそういう断片の連続だ。

(C)武田綾乃・宝島社/「響け!」製作委員会

 
 本作は、非常に断片的な構成だ。同じ京都アニメーションの今年の『映画 中二病でも恋がしたい! Take On Me』のキャラクターが行動する時は理由にあふれているのとは対照的だ。六花の姉がイタリアに移住すると言い出すことにも理由があり、それを聞いて六花と勇太が駆け落ちし、それを追いかける凸守とモリサマーにも理由がある。言い換えると言語で明確に記述できる動機で、ほとんどのキャラクターが行動する。

『リズと青い鳥』では、人物たちの行動にいちいち理由は示されない。みぞれがフグに餌をやるのはなぜだろうか、後輩たちがみぞれをお茶に誘うのはなぜだろうか、希美のまわりの後輩たちのお喋りはストーリーを展開する上で何か意味があるだろうか。それらのエピソードにはストーリー上の意味はあまりない、しかし「強度」がある。ホワード・ホークス流に言うと、良いシーンである。

 
 本作は、全てのエピソードは極めて巧妙に作られた断片的であるから、偶発的な何かのような雰囲気を醸し出せるのだと思う。脚本の吉田玲子氏の功績も大きいだろう。思えば山田・吉田コンビは『けいおん!』の頃から「大きな物語」を語ろうとせず、極めて断片的であり続けている。

 
 世界のエンタメ市場は、ハリウッド映画に慣らされているので、断片的な作品が注目を集めることは少ない。しかし、日本のアニメは断片的な作品で溢れている。いわゆる「日常もの」がそれにあたるが、世界的に見れば特異な市場環境があったからこそ、山田尚子のような才能が商業ペースで活躍できるのだろうと思う。まあ市場分析は特にここでは行わないけど。
 
 
 
『リズと青い鳥』は、僕にとっては映画のど真ん中の作品だ。これぞ映画って感じだ。改めて、山田尚子監督は天才だと思った。

 

 
※いくつかの映画監督の名前を挙げているけど、山田監督が彼らの影響を受けているとは、そんなに思っていない。むしろ彼女の映画は山田尚子以外の何者にも撮れなさそうなものであるし、強靭なオリジナリティを有していると思います。

 

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