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『フロリダ・プロジェクト』の残酷さが温かさへと変わる瞬間

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映画監督の二種類の「まなざし」

『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』は残酷な映画だ。しかし、冷たい映画ではない。むしろ温かみさえ感じさせる。

 
 相反するこの印象はどうして生まれるのだろうか。

 
 その前に上記のフレーズについて紹介しておきたい。これは本作を観終わった後の、自分の正直な感想なのだが、どうも既視感を覚えた。きっとどこかで読んだフレーズに違いないと思って、頼りない脳みそを掘り回して記憶を辿ってみたのだが、これは是枝裕和監督がイギリスの名匠ケン・ローチの『マイ・ネーム・イズ・ジョー』に関して書いた文の冒頭と同じものだった。

 
『マイ・ネーム・イズ・ジョー』のパンフレットに収録されている『残酷さとやさしさの距離』という表題の批評文なのだが、僕に映画を観る時のとても重要な基準を示してくれた名文なのだ。

 
 この『フロリダ・プロジェクト』を観る上でも非常に重要な視点がこの文には示されているので、少し長いが本作の解説に入る前に引用する。

 映画監督という仕事を経験してみてわかったことがひとつある。それは、日頃監督の”まなざし”として語られることの最も多いカメラという道具の使い方についてのことだ。

 つまり、監督には、登場人物をどう見せていくか?という視点からカメラのアングルやサイズを決めていくタイプと、彼らをどう見つめていくか?という視点からそのポジションを決めていく二種類のタイプがあるということである。

 もちろんカメラマンはファインダーをのぞきながら常にこのふたつの意識の間を揺れているだろうし、監督とて同じことだとは思うのだが、ひとつはっきりと言えることはフィクションだから見せることに主眼が置かれ、ドキュメンタリーだから見つめることが重視されるというような、ジャンルの問題ではないということである。

 どちらが良くてどちらが悪いということではないが、そこには映画というものに対する監督の態度や姿勢というものがジャンルを超えてはっきりと浮き彫りにされるのだと思う。
(シネカノン発行『マイ・ネーム・イズ・ジョー』パンフレットより。改行・太字は読みやすさのため筆者が挿入)

 是枝氏は、ケン・ローチを「見つめる」タイプの作家の代表格だと言う。是枝氏もまた同じタイプの作家だと言えるだろう。この姿勢は映画史を遡れば、敗戦直後の社会の荒廃の現実を見つめることから出発したイタリアン・ネオリアリスモに源流を求めることができる。

 
 この姿勢の違いがフィクションかドキュメンタリーかというジャンルの問題ではないというのは、例えば太地町のイルカ漁を撮った『ザ・コーヴ』というドキュメンタリー映画は、あらかじめイルカ漁を「悪に見せる」と決めてかかって作られているというようなことだ。フィクションかドキュメンタリーかは、姿勢の違いではなく、素材の違いに過ぎない。演じられたものを素材にするか、そうでないものを素材にするかで、見せ方の問題ではない。

 
 さて、本作のショーン・ベイカー監督はどちらのタイプだろうか。僕は彼もまたケン・ローチや是枝裕和と同じ「見つめる」タイプの作家だと思う。その二人と比較するとやや「見せ方」へのこだわりも強いタイプであるが、ベイカー氏の対象へのカメラの向け方はとても観察的であるし、対象によって距離感を変えない等距離意識のようなものがあるように思う。

(C)2017 Florida Project 2016, LLC.

ショーン・ベイカーはこの映画で何を、どう見つめたか

 本作について、ショーン・ベイカー監督にインタビューさせていただく機会があったのだが、上述のような印象は当たっていたと感じた。

 
 ベイカー氏は、インタビューで「観客にもマジックキャッスルでひと夏を過ごしたような気持ちになってほしい」と語っていた。

 
 カメラは監督のまなざしだが、それを通して観客にも体験してほしいと言うわけだ。カメラのまなざしは監督だけでなく観客のものでもある。そうあってほしいとベイカー氏は言っている。

 
 本作は、アメリカの格差の底辺に沈む人々の厳しい現実を見つめている。それは誰が見ても重大な課題であるし、解決せねばと思うものだ。しかし、本作はこの問題に対する解決案も道筋も提示していない。ここに本作の残酷さがある。

 
 ではショーン・ベイカー氏は意地悪にも、残酷に「見せよう」としたのだろうか。違う。

 
 彼の「見つめた」ものが残酷だっただけだ。それがディズニーワールドを擁するフロリダのオーランドの現実だというだけである。インタビューによれば本作のエピソードのほとんどは、現地を取材した結果得られたものだと言う。

(C)2017 Florida Project 2016, LLC.

 映画の中で彼女たちに歩み寄り、複雑な事情に同情するような「見せ方」を選ぶこともできただろう。しかし、本作は例えば主人公の母親、ヘイリーの過去の事情などは一切描かれない。だから観る人によっては、あの母親にまったく共感できなくてイライラしてしまうかもしれない。この映画では登場人物たちの事情は終始、等距離感覚で見つめ続けられ、ことさらに誰かに肩入れしない。

 
 だが、この厳しい現実の前に、映画の中でだけ、一時の情に流された共感を示すことが、彼女たちの現実に対してなんの助けになるだろうか。

 
 あるいは、映画の中でだけ、こうなってくれればいいなという夢や希望を示すことに、彼女たちのような人々の現実に対してどれだけの意味があるだろうか。そもそもこうすれば問題は解決する、というような答えがこの問題に対して本当にあるのだろうか。

 
 この映画には答えがない。宣伝が「マジカル・エンド」と呼ぶ結末も何も問題を解決するものではないし、スッキリとした物語の結末を示すものではない。貧困に対して社会はこうすべきだ、というメッセージもない。むしろ、安易な結論はむしろ現実から目をそらす結果になるかもしれない、と監督は考えているかもしれない。

 
 インタビューの際に気をつけたことが一つある。それは、安易に監督から言葉で映画に込められたメッセージなどを引き出すような質問は避ける、ということだ。本作は、プロパガンダや扇動のための映画とは真逆の作品であると僕は思う。

(C)2017 Florida Project 2016, LLC.

残酷さが温かさへと転じる時

 ショーン・ベイカーは残酷な現実を残酷なままに見つめている。少なくともそこから目をそらさない。ごまかすことはしない。

 
 この目をそらさないという姿勢が、この映画が残酷なはずなのに冷たい印象を退ける要因なのではないかと思う。

 
 その「まなざし」の先には、躍動感あふれるムーニーに代表される子どもたちのたくましさがある。ベイカー氏はインタビューで、「ドラマチックな誇張はしていないし、それは彼らに失礼だと思った」と語っている。

 
 この貧困に注目を集めたいなら、ニュースのように大げさに描き立てて、同情を誘った方がいいのかもしれない。しかし、そんなことは失礼なことだと彼は言う。

 
 これはいろんな解釈ができるだろうが、僕は監督が彼らの生きる力を信じているということだと思っている。彼らは貧困で、大きな問題に直面している、しかし幸せを掴み取る、生き抜く力があるのだと。

 
 可愛そうだと言う人ほど、彼らのことを認めていないのではいかと僕は思う。ショーン・ベイカーにはそんな気持ちは1ミリもない。なにしろ、このモーテルの夏を体験してほしいなんて言うぐらいだ。誰が悲惨な体験をしてほしいと思うだろうか。

 
 その対象に対する信頼こそが、この映画の温かさの秘密じゃないだろうか。ややメタ的な視線なのだが、ここには確かに人と人との信頼があるように思うのだ。

 
 その監督の信頼は観客に対しても向けられているようにも思う。過剰な誇張やわかりやすいメッセージを発さなくとも、自分と同じようにこの問題から目をそらさないでくれる観客がたくさんいるに違いないと。

 
 その信頼に気づいた時、一観客である僕は胸を熱くし、残酷な現実に負けない温かな気持ちを運んでくれたのだ。

 

 

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