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『Fate』シリーズ言峰綺礼について書きました

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 アニメ!アニメ!の連載「敵キャラ列伝 ~彼らの美学はどこにある?」の今月は『Fate』シリーズの言峰綺礼を取り上げました。

 「Fate」の悪役・言峰綺礼から学ぶ、“自分らしく生きる”ために必要なこと 自らの“欲望”に自覚的であれ | アニメ!アニメ!

 今月中旬に『Fate/stay night: Heaven’s Feel III. spring song』が公開なので、言峰取り上げるならここだろうと思っていました。前々から候補には上がっていたのですが、一番良いタイミングで取り上げたいよねと。

 しかし、映画のネタバレは避けた方がいいので、「Heaven’s Feel」での言峰には触れない形で書いています。なので、『Fate/Zero』が一番大きな参照先となりました。

 この連載は1500字前後で、と言われてるので、大体その分量を意識してやるのですが、短い原稿ほど難しいなといつも思います。1500字だとトピックは1つだけに絞るしかないので、複雑なキャラクターを紹介する時、紹介しきれなかったらどうしようといつも思うのです。言峰はそういう意味でかなり苦労しました。どこに絞るべきか、定めるのが難しかった。

 かなり紆余曲折して全面的に書き直したりしました。彼は非道で人の命よりも自分の愉悦を優先するくせに、「私ほど人を愛している者はいない」と本気で言うんですけど、最初はこれを起点に考えていました。

 言峰は神父なのに、こんなに悪いことしながら人間を愛しているとはどういうこと? そもそも、悪ってなんだっけ? 神父だから、キリスト教の悪の教義から言峰を書いてみようか、などと考え、最初に書いたものはかなり難解な方向に進んでしまいました。アウグスティヌスの神義論とかを引用したり。

 あとキリスト教における悪を書けば、キリスト教以前の宗教であるゾロアスター教の悪、アンリマユについても書けるし、ちょっと「Heaven’s Feel」の予備知識にもなるかも、とか思ったんですけど、言峰の本質を捉えきれないなと思ったので、軌道修正して、「自分らしく生きる」ことを中心に書き直すことにしました。

 せっかくなのでボツにした原稿をここに載せてみます。

ーー
ボツ原稿その1:

 聖職者は基本的に善人である。少なくとも多くの人はそう考えている。

『Fate』シリーズの悪役、言峰綺礼は神父にもかかわらず悪役である。人が苦しむ様に愉悦を感じる男である。悪役の動機は、復讐や金銭目的、憎しみなど様々だが、言峰の場合は人間への愛だ。「私ほど人間を愛している者はいまい」と堂々と言ってみせる。人間に対する愛がある点では言峰は神父らしいと言えるかもしれない。

 しかし、彼のやることはひどくむごいことばかりだ。それがどうして愛だと言えるのだろうか。
 

 この一見矛盾した態度は、言峰が神父であることが重要なのではないか。

 キリスト教における「悪」とは何だろうか。一神教のキリスト教において、神は全知全能で完全な善なる存在だ。この世界を創造したのは神である。しかし、ここで疑問が浮かぶ。善なる存在の神が世界を造ったのなら、悪がどうしてこの世界に存在するのか。この矛盾に応えを見出すために神義論という学問ができた。神義論は神を弁護すると書く弁神論とも言う。

 神義論で有名なのは、アウグスティヌスの神義論だ。彼は、悪は人間の自由意志から生まれると説いた。キリスト教では人は生まれながらに罪を背負う、「原罪」があると言う。その原罪ゆえ、自由意志によって人が悪を生むのだとアウグスティヌスは考えた。

 つまり、神には悪を造れない。悪を造れるのは人間だけだと考えたのだ。しかし、人間が自由意志を持っているのも創造神がそう作ったからではないか、ならやはり悪の責任は神にあるのではとの疑問が浮かぶ。それに対して、アウグスティヌスは人間が自由意志を持つのは、それなしには正しくなれないからだと説く。自由意志がなければ、人間の全ての行動は決定されていることになる。したがって人間には一切の責任がない。そうすると悪を裁く神の正当性も無くなってしまう。自由意志を悪用する人間がいるから、神は善によってそれを裁くことができる。

 言峰の名言の一つ、「正義の味方になるには倒すべき悪が必要だ」というセリフは、キリスト教の神義論の矛盾を突いたセリフとも言える。

 悪は人間にしか行えないとするなら、誰よりも人間を愛そうと思えば悪も愛さねばならない。むしろ悪を積極的に楽しめる言峰こそ人間を真に愛せると言えるのかもしれない。なぜなら、悪は人間の自由意志から生まれるのだから。だから、言峰はあれだけ人に対してむごいことをするにもかかわらず、人間を愛していると言えるのだ。

 
 言峰はそうした結論にたどり着くために、多くの努力を費やしている。空虚な自我の正体を探るため、研鑽を重ね、肉体を鍛え上げ、常人の何倍もの努力を重ねたことが『Fate/Zero』で語られている。当初は人の苦しみに喜びを見出すなどあってはならないことだと考えて、真面目の神の道を追求していたのだ。その探求の結果、言峰は悪にたどり着いた。決して堕落や道を踏み外したのではなく、考えに考え抜いた末にたどり着いた結論なのである。それこそ、人間の自由意志でその道を選択したのである。

 その求道者としての姿勢は、主人公の衛宮親子とも似ている。他人の幸福を喜ぶ「正義の味方」と他人の不幸を喜ぶ「悪役」と立場は違うが、その努力の過程と苦悩はよく似ている。だからこそ、彼らは同族嫌悪のように反発する。衛宮士郎は、「どうも俺は、言峰綺礼という男が好きだったらしい」とまで言う。

 自らの存在の本質を知るために誰よりも努力し、それが悪だった。それを悲劇ではなく喜びだと思える言峰はやはりすごい男なのだ。敵にすら好意を寄せられるほどに悪。言峰のような存在を「筋金入りの悪」と言うのだろう。

ボツ原稿その1、ここまで
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 このボツ原稿その1は、言峰についてというより、言峰はただの入り口で、キリスト教の神義論の中での悪と神の話が主題になってしまいました。これを叩き台にしてもちょっと連載の趣旨に沿った内容になりそうにないと判断して、捨てました。

 これが『Fate』から学ぶ宗教とか、『Fate/stay night』の背景にある宗教観とは、みたいなテーマの原稿ならありだとは思いますけど。

で、そこから次のボツ原稿その2では、言峰が努力家である、という要素を追加して、ちょっと軌道修正しています。

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ボツ原稿その2:

『Fate』シリーズの言峰綺礼は努力家だ。常人にはできないレベルの研鑽を積み、自分は悪という結論に達した悪役だ。

 彼は人が苦しむ様を見て「愉悦」を感じる。それが彼の人生の喜びなのだ。当初はそれを拒んでいた。迷える人を救う仕事である神父の息子に生まれ、自らも崇高なる神の真理を求めて猛勉強し神学校を飛び級した上に主席で卒業、異端討伐の代行者に任命されて過酷な仕事をこなしつづけた。それでも、自分の空虚な魂を救えず、最終的に神の道と正反対の悪行に自分の愉悦があることを知ってしまった。

 悪役の動機にも色々なタイプがある。自分の快楽のために悪を働くタイプは珍しくはないが、言峰のように悩みに悩み抜き、果てしない努力の末にその結論に至った対応はそうそういないだろう。それだけに彼に対して理屈で勝つのは難しい。何しろ、善の道を進もうとものすごい努力した後に悪の道に進んでいるのだから。それは堕落とか道を踏み外すのとも違っている。

 その求道者としての姿勢は、主人公の衛宮親子とも似ている。他人の幸福を喜ぶ「正義の味方」と他人の不幸を喜ぶ「悪役」と立場は違うが、その努力の過程と苦悩はそっくりだ。だからこそ、彼らは同族嫌悪のように反発する。正義の味方を辞め、桜だけの味方になった衛宮士郎は、そのことに気が付き「どうも俺は、言峰綺礼という男が好きだったらしい」とまで言う。

 言峰が苦難の末にたどり着いたのは、人の痛みと嘆きに喜びを見出すことだった。なんともむごいことだ。しかし、彼は「私ほど人間を愛している者はいまい」と堂々と言う。

 悪を行い、他者の痛みに喜びを見出すことに愛があるのだろうか。

 この矛盾した物言いには言峰が神父であることが重要かもしれない。キリスト教における「悪」とは何かを考えると合点がいく。一神教のキリスト教では、神は全知全能の完全な善の存在で、世界を創造した者だ。

 しかし、ここで疑問が浮かぶ。善の神が世界を造ったのなら、どうして悪がこの世界に存在するのか。一神教ゆえの矛盾である。ちなみに、キリスト教よりも歴史の深いゾロアスター教は、最高神アフラ=マズダと悪の神アンラ・マンユ(アンリマユ)が対立する善悪二元論で、善と悪を司る神が別れている。

 一神教では神は善なる一つの存在なので、悪は神から生まれない。なので、悪は人間から生まれると考えるようになった。神学者のアウグスティヌスは、悪は人間の自由意志から生まれると説いた。人間は「原罪」を背負っていて、自由意志は悪に傾きがちな傾向があるので、神の恩寵を受けて初めて正しい行いができると考えたのだ。

 言峰が自分の本性が悪だと悟ったことは、実はキリスト教の神義論的には何もおかしくない。むしろ、わりとオーソドックスな考えだと言っても良い。言峰は神学校を主席で卒業しているくらいだから、こうした神義論は当然知っているだろう。そして、人間が自由意志によって悪になる可能性があるから、神が人を裁く正当性もあるのである。じゃあ、神の正義は悪の存在によって担保されるということなのか、という問いがさらに発生する。

「正義の味方になるには倒すべき悪が必要だ」という言峰の台詞も、実は神義論的な問いかけなのである。

 もし、悪が人間からしか生まれないなら、悪行を愛する言峰が人間を愛していると言うのもうなずける。

「愛せよ、そして汝の欲することを為せ」とアウグスティヌスは言った。言峰綺礼はまさしくそのように行動しているのだ。本人も認めているように、やや歪な形ではあるが。その結論は、並々ならぬ努力の末に手に入れたからこそ、彼の悪に対する信念はどうあっても揺らがないのだ。まさに「筋金入りの悪」だ。

ボツ原稿その2、ここまで
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 まだ神義論を引きずっています。一番最初のイメージを捨てるのに苦労している様子が伺えます。このボツ原稿その2は、最初のイメージを捨てるために書いたみたいなとこがあって、軌道修正の方向を探るための模索のための文章です。

 完成原稿と比べると、冒頭は大体同じです。冒頭の「努力家」というイメージから膨らませたというか、この時点でもう一回『Fate/Zero』を見返して、作品全体で言峰が自分を発見していくプロセスを描いているよなと思ったので、現代的な関心に寄せて「自分らしく生きる」ということを中心に置いてみたら、スッキリいったという感じです。悪人なのに、自分らしく生きて輝いてるよね、というのは意外性もあって面白いかなと。

 というわけで、短い原稿ゆえに難産でした。長い原稿なら全部つっこんじゃえばいいとなるんでしょうけど。

 
 「Heaven’s Feel」の最終章はトゥルーEDなんだろうと思っていますが、この完成原稿を読んでから、あの最後の戦いをご覧いただくとより面白くなるのではないかと思います。映画、楽しみですね。

 『劇場版「Fate/stay night [Heaven’s Feel]」Ⅲ.spring song』

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