[PR]

『Fate/stay night [HF]』について書きました

[PR]

 リアルサウンド映画部に『Fate/stay night [Heaven’s Feel]』について書きました。

 劇場版『Fate/stay night [HF]』が問いかける“罪”との向き合い方 映画独自のアレンジの妙|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 『HF』劇場版については、一章と二章の公開時にもレビューを書いたので、まだ書けることはあるだろうか、と悩みました。『HF』の物語として最も重要な部分は、衛宮士郎が「正義の味方」をやめて桜だけのために生きると誓う点ですが、これは二章で描かれているので、どうしようかなあと。

 まず、今回の記事の方針を決めることに時間がかかりました。三章のみについて書くのか、三部作ひっくるめた内容にするのか、さらにさかのぼって原作ゲームのことまで含めて書くのか。

 悩んだ結果、『Fate/Stay night』全体が描こうとしたものをちゃんと提示して、『HF』がその全体の中でどんな位置づけで、それを映像化するにあたってどのような解釈をしたのか、という構成で行くことにしました。

 映像演出的にも見応えだらけの作品なので、ひたすらそれについて書くのも楽しいだろうな、と思ったのですが、書くための資料が出揃ってないのでやめました。スタッフインタビューとかオーディオコメンタリとか色々出てきた時にはそういう記事を書きたいですね。

 詳しくは記事を読んでいただきたいのですが、最も感銘を受けたのは最後と最後前のカットです。どうして桜は花見会場の前で立ち止まったのか。

 僕はあのシーンに既視感を覚えていました。これは、須藤監督が意識したわけでないと思ったので、記事にはしていませんが、あのラストカットはケン・ローチ監督の『マイ・ネーム・イズ・ジョー』に似ているんです。

『マイ・ネーム・イズ・ジョー』のラストシーンは、墓地での葬式でして、主人公ジョーが目をかけていた甥っ子の葬式に集まった仲間のうち、ジョーの恋人、セーラだけが他の人物と距離を置いて立っているんです。

 これは『マイ・ネーム・イズ・ジョー』のパンフレットで是枝裕和監督が書いていたことですが、あの距離が重要だと言うのです。主人公のジョーやその甥は貧しいワーキングクラスで、ドラッグや犯罪と隣合わせの生活をおくっています。でも、セーラはそういう人々を支援するソーシャルワーカーでミドルクラスの人間。是枝監督いわく、そのセーラの距離感は、彼女が「その仲間たちの輪に参加する資格がないということを理解している」からだと。

「なるほど、立ち位置の距離感ひとつでそのような複雑な感情が表現できるのだな」と、当時高校生だった僕は学んだんですが、『HF』ラストの桜の立ち位置がその距離感の話とダブったんです。

 要するに、桜はみんなと一緒に花見に参加する資格がないと感じてしまったのではないか。そのように僕には見えたのです。そして、その罪悪感というのは、原作ゲームのノーマルエンドにある台詞「誰かと話しているだけで、世界中から『償え』と責められている気がする」につながるものであり、映画はトゥルーエンドを選びながらも、ノーマルエンドの精神もきっちり引き継いでいたんじゃないかと思えたのです。

 そんな罪の意識に一緒に向き合うために、士郎は桜の手を取るのですね。とても力強く、あたたかくて、感動的なラストでした。複雑な感情を台詞抜きで表現している素晴らしい最後でした。

 余談ですが、上で紹介した是枝裕和監督のパンフレット原稿は、僕が映画を見る時の指針になっているものです。「残酷さとやさしさの距離」というタイトルのこの解説記事で、是枝監督は映画監督を2つのタイプに分類しています。

 映画監督という仕事を経験してみてわかったことがひとつある。それは、日頃監督の”まなざし”として語られることの最も多いカメラという道具の使い方についてのことだ。

 つまり、監督には、登場人物をどう見せていくか?という視点からカメラのアングルやサイズを決めていくタイプと、彼らをどう見つめていくか?という視点からそのポジションを決めていく二種類のタイプがあるということである。

 もちろんカメラマンはファインダーをのぞきながら常にこのふたつの意識の間を揺れているだろうし、監督とて同じことだとは思うのだが、ひとつはっきりと言えることはフィクションだから見せることに主眼が置かれ、ドキュメンタリーだから見つめることが重視されるというような、ジャンルの問題ではないということである。

 どちらが良くてどちらが悪いということではないが、そこには映画というものに対する監督の態度や姿勢というものがジャンルを超えてはっきりと浮き彫りにされるのだと思う。
(シネカノン発行『マイ・ネーム・イズ・ジョー』パンフレットより。改行・太字は読みやすさのため筆者が挿入)

 僕は、常にこのことを意識しながら映画を見ています。『HF』最後のシーンは、間違いなく「見つめる」眼差しがありました。須藤監督の眼差しを感じましたよね。

 
以下、メモです。

Thesis 犯罪者を愛することができるか

正義の味方から犯罪者を守る「正しくない存在」=人間らしい存在へ
罪と向き合い日常へと帰還する物語

偽物というキーワードに挑むか、否か

この映画について書くというスタンスを忘れずに。

この全三章は何を描いたのかを改めて考えてみる。

犯罪者であっても、愛する人を守ると覚悟を決められるのか。

これをどんなテーゼとして提示するのか。ここが一番重要。
 

そして、日常に帰る物語であること。
第一章が何気ない日常的なシーンから入るのはどうしてか。

帰るべき場所を提示していた。

パンフレットの那須きのこのコメントは引用する必要がある。
罪と向き合うという物語、ラストで白線を超える手前で映画は終わる。
 

腕は英霊のものを移植した、身体中から剣が生えだし、見た目には最も人間らしくなくなった衛宮士郎はその心と決断だけは最も人間らしくなるエピソードがヘブンズフィール。

安らかな顔をしている慎二。生きることは罪と向き合うこと、桜にとってもう一度日常を歩き出すのは相当つらい選択(パンフレットP12 )。

ナラティブレベルでの逆説
善と悪の逆説。アンリマユの誕生。言峰の存在。士郎の今回の決断
倒すべき悪が必要だ、という逆説
映像レベルでの逆説
安らかな顔で死んでいる慎二。つきものが落ちたかのような顔をしていた

 
人生の実存は、善悪の彼岸にある。

 
Intro
あなたは、犯罪者を愛せるか

犯罪者をかばうことは、政治的正しさのかけらもない行為だろう。社会を維持するためには秩序を乱す者は排斥されねばならない。正義とは常に秩序を維持するために存在せねばならない。

しかし、それは社会の歯車としての機械的思考にすぎないのではないか。真にシステムから外れた人間的な選択はいかなるものであるのか。

Heavens feelはそんなことを問う物語ではなかっただろうか。

 
Body1 正義の味方の理想を捨てる
桜一人のために、己の理想を捨てることを尊いことだと描くこと

UBWでは、己の理想に殉じることを尊いと描いた。それを同じ物語の中で転覆させた。fateは3つのルートでこのような価値の転覆を何度も行うことにその真価がある。

此度の転覆は、父切嗣から譲り受けた正義の味方への思いを断ち切り、主体的な人間らしさを取り戻す決断、精神的な父殺しだった。

那須きのこのパンフレットの言葉を引用

 

Body2 罪と向き合う生き方というもの
慎二の安らかな死に顔。彼の苦しい人生には死のほうが楽だったかもしれない。冒頭で死の安らかさを見せている。
この映画は死を苦しい者だと印象付けていない。むしろ解放かもしれない。セイバーオルタの死にざまもどこか解放感がある。

ゲームの話だが、とどめを指さない選択肢を選ぶと「士郎、初めて貴方を憎んだ」と言われてバッドエンドになる。
死が解放であるというイメージを植え付けるから、生はある種の苦しみを伴うとする、にもかかわらずそれを肯定する。

ノーマルエンドの台詞「誰かと話しているだけで、世界中から『償え』と責められている気がする」しかし桜はこれからそんな思いを抱えて生きるのだ。

映画はトゥルーエンドだけど、ノーマルエンドの精神も引き継いでいるのでは。

どうして桜は、花見の前で立ち止まるのか。その繊細な芝居の意味は。

監督の言葉をパンフレットから引用・・・罪と向き合う物語であるということ

そんな桜と一緒に伴走するのだと誓う士郎の言葉、作中から引用

 

Body3 この世界の誰が悪となるのか
ゾロアスター教の悪神を担わされた少年
言峰のありかた。。。神議論。なぜこの世界に悪があるのか。麻婆豆腐はネタにされやすいが、そこにも価値の転覆がある。前2ルートで悪の象徴として主人公に立ちはだかった男のコミカルな日常風景にも、fateらしい価値の反転が込められている。
この反転からの士郎との共闘から、過去の告白、そして最後の肉弾戦。艱難辛苦の末に見つけた「自分らしさ」が悪徳だった男の最後の命の燃焼として、肉弾戦は華がある。彼はクリスチャンでなければ苦しい人生を送らずにすんだかもしれない。だからこそ、善悪二元論の悪神の誕生を望んだのかもしれない。ここにも善性を追求するはずの聖職者であるがゆえの苦悩、そこから生まれた悪という価値の転覆がある。

 

メモ、終わり。

 3つめのBodyは結局除外しました。これを入れると、まとまりに欠けるなと思ったので。ただ、拝火教(ゾロアスター教)がここで出てくるのは興味深いと思っています。言峰が神父ですしね。キリスト教にも影響を与えたぞのアスター教の悪の誕生を願う神父、というのは神義論を踏まえるとすごく面白い。

 しかし、これについて書くなら、一本別の記事として独立させるべきだと思いました。機会があったら書きたいと思っています。このテーマは、アニメ!アニメ!の悪役特集で言峰を取り上げた時にも入れようか迷ったもので、2回連続スルーとなってしまいました。

 メモの中で、なんか反転とか逆説とか転覆とかを盛んに書いているのは、なんか是枝監督の原稿に影響受けてる気がします。是枝監督はこの原稿で、「残酷さがやさしさに転じる」ことの凄さについて書いていて、そのことにどっか影響されてるんだろうなと思います。