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『劇場版BEM〜BECOME HUMAN〜』について書きました

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 SPICEに10月2日から公開されている『劇場版BEM〜BECOME HUMAN〜』のレビューを書きました。

『劇場版BEM〜BECOME HUMAN〜』 人間とは何かをめぐる終わりなき問い | SPICE – エンタメ特化型情報メディア スパイス

 テレビシリーズの続編という位置づけの映画ですので、TV版のおさらいもある程度加えています。

 このシリーズは、醜い妖怪人間と人間を対比させるようにして、「人間とは?」という問いを突きつける作品ですが、今回の劇場版でもそこは踏襲しながら、さらに一歩進めているという感じでしょうか。

 外見が醜いが心は正義の妖怪人間、心が怪物のように醜い人間。一体本当に人間らしいのはどっちだ、というのがオリジナルのテーマで、昨年のTV版もそれを踏襲しながら、さらに、人間は欲望のために簡単に人の姿を捨ててしまう様が描かれていました。

 今回の劇場版は、実際に「形だけ」は人間の生活を手に入れたベムが描かれます。しかし、形だけで自分らしくもない、自我も自由もない生活は「人間らしい」と言えるのか、という問いかけがなされています。ある意味、チャップリンの『モダン・タイムス』のような問いかけだなと思いました。機械の部品のように、あるいは組織の消耗品のように扱われる人間は、人間と言えるのかということですね。

 50、60年代のアメリカの中流家庭を再現したベムの生活空間が、ある意味すごくグロテスクなんですよね。ステレオタイプの気持ち悪さが出ていました。ああいう「みんなと同じ」生活をルーティンのように続けているのも人間らしくないなと思わせるような、そんな感じですね。面白いアプローチだと思います。

 人間とはなにか、という問いはテクノロジーの発達で人間と機械の境が曖昧になっていく時代だからこそ、一層真剣に考えねばならないものになっています。とても良いアレンジだったんじゃないかと思います。

 
 以下、原稿作りのためのメモです。

——–

映画のポイント3点
・3人の妖怪人間、それぞれの選択
  偽りだが人間の生活を手に入れたベム
  人間ごっこをして生きるベラ
  一人戦う道を選んだベロ
・自我を持つとはどういうことか
・オリジナルのポイント
  妖怪人間の正義の心VS醜い人間の心・・・これをどう現代的に進化させるか

「人間らしさとは何なのか」という問いの本質はオリジナルシリーズの頃と今も変わらない切実さがある。

BEM TVシリーズは、
・人間になりたい妖怪人間たちVS欲望のために人間を捨ててしまう人間たち
・人間のために戦えば人間になれると誰が言ったのか。・・・ベロ「それってほとんど宗教だよ」というセリフ

忌むべき存在だ。だからこそ人類のために身を捨てて戦うことができるんだという設定。それは民俗学的な設定だった? 少し違う角度の作品だが、参照:https://realsound.jp/movie/2020/09/post-616239_2.html

妖怪人間ベム 一番怖かったアニメ https://www.ne.jp/asahi/sansiro/takahashi/yokainingen.html

妖怪人間ベム(1968年版) #8 墓場の妖怪博士 | アニメ | GYAO!ストア https://gyao.yahoo.co.jp/store/episode/A100030008999H01

マンストール博士が登場。本作と関連性あるか?

 
怪物と人間の関係と言えば、フランケンシュタイン。
「怪物」の誕生 : Frankensteinにおける醜さの視覚化http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015196

怪物とは周縁的な存在。正義、人間を相対化する。

人間らしさとは何かを悩む存在として妖怪人間はいる。

人間はそのように憧れるに足る存在だろうかという問い
 

作中の気になる点:
・作り物の街で作り物のように人間の生活を送る。規則正しく。まるでロボットのように。
・見た目には人間の生活を手に入れたベムは、なぜそれを否定して妖怪人間である自我を取り戻すのか。
・意志なくしては人間たりえないから。言いなりのロボット、言葉の自動機械のような連中は人間にあらずということか。
・組織の命令に従わないソニア・サマーズ・・・自分で見て聞いた自分で判断する意志。
・組織に従う・・・ただの歯車ではない、人間としての判断に従う。チャップリンのモダンタイムス的なテーマがここにある。
・資本の倫理は人に自我を捨てさせようとする。だから、ドラコ社も自我を捨てた戦争の兵隊を造ろうとしている?
・妖怪人間たちが、ソニアにだけは心を開くのは? 彼女こそ人間らしく生きているから?

ソニアの人間らしさとは、自我を強く持っていることか。

薬でコントロールされているベム。・・・非人間的な扱い

見せかけの人間になったベムがもう一度妖怪人間へと戻り、それから人間になる話だと言える
人間ごっこでいいと言うベラ。ベロはなぜ戦うのか、はっきりとはしない。

オリジナルで最も人間になりたいと思っていたのは少年のベロだった。

現代版では、最も世の中に対して期待していないのが少年ベロになっている。
夢を持てない、未来に希望を持てない現代の若者の姿を反映しているかもしれない。

 
Thesis
人間らしく生きるとはどういうことか。異形だから人間とは何かに迫るという逆説

 
Point3つ
・正義の心を持った妖怪人間VS醜い心を持った人間・・・シリーズ全体を貫く姿勢
  今回の新アニメでは人間が欲望にままに人間を捨ててしまう敵が描かれた
・見せかけの人間らしい生活・・・自我を失い言いなりに生きるのは家畜のようではないか。・・これも人間らしいとは言えない・・・組織の言いなりにならないソニアのありかた
  街のあり方。まさにステレオタイプな平和な街をルーティンで繰り返しているさま。人間らしい理想の生活が作られたものだったと知る。知らずにい切れていば人間と言えるのか。
・人間以外を描くから人間が描ける
  周縁的な存在。ゲゲゲの鬼太郎の幽霊族のような、人間ならざる者は何を描くために用いられてきたか。日本の例、西洋の例(フランケンシュタイン、ドラキュラなど)

 
Intro
早く人間になりたいという鮮烈なセリフで昭和の名作アニメとなった妖怪人間ベム。

その50周年を迎えてリブートされたのがBEM、そしてその続編である劇場版だ。キャラクターデザインが一新され、ホラーテイストだったオリジナルよりもジャズ音楽を取り入れ、シティポップさを押し出した作風となっている。

その本質、異形のものが人間を照らす。異物と見なしたものを迫害する人間の醜さを描く点は変わらない。それは、人間の愚かさの変わらなさを証明するかのようだ。リブートされたTVシリーズと今回の劇場版では、新たな要素を加えて、人間とは果たして憧れるに足る存在なのかを問いかけている。

 
Body1 妖怪人間ベムは何を描いたのか、そして新TVシリーズはどんな作品だったか
正義の心を持った妖怪人間と、醜い心を持った人間の対比が鮮烈な作品
今回もそれを踏襲している。

TV版について、
人間のために戦えば人間になれると信じている妖怪人間

でもそんなこと誰が言った?「ほとんど宗教だよ、それ」すれているベロ。少し現実的になっているベラ、

今回の作品では、的に仇なす妖怪を相手に戦うよりは、欲望に肥大化で人間を辞めた改造人間たちが相手となる。人間の醜さはますます強調されていると言っていいだろう。
人間は汚い、いいことなんかないんじゃないかとベロが冷めているのが特徴的だった。

 

Body2 今回の映画版で描かれたこと
劇場版では、ベムが記憶を失っており、人間として家庭を持っていることが描かれる。しかし、それは偽りの人間生活。自我を失い、言いなりに飼育されているような状態なのだ。
チャップリンがモダン・タイムスで書いたように、資本の論理で人がシステムに組み込まれ、非人間的に振る舞う様をカリカチュアした世界と言えるかもしれない。ステレオタイプな家庭、ステレオタイプな街の人々に同僚。

形だけ見れば人間として生活を送っているが、これで人間的と言えるのかと問いかける。
だから、彼は妖怪人間としての「自我」を取り戻す

自我は重要なキーワードだ。自我を持って生きているかが重要だ。三人の妖怪人間はそれぞれの意思で、人生を選んでいる。

そして、ソニア・サマーズのあり方は、人として生きることを象徴する。彼女は決して組織の歯車になることをよしとしない。自分で見て聞いて、考え行動を決める。

知らずにいれば、外見上は人間の生活を手に入れることができたベムに何を思うか。しかし、「人間は考える葦」なのである。

 
Body3異形の存在、異形が人間を照らすということ
フランケンシュタイン・・・キレイな心を持った醜い怪物に悲哀。
「怪物」の誕生 : Frankensteinにおける醜さの視覚化

奇怪な出来事や生物の登場は神々の警告である」と考えられていたことに由来しています。奇怪なものを目にしたら、それが何だか分からないとしても、危険なもの、何か異常なことが起こる前兆であると感じる。そう感じることが「神々の警告」であると理解されるわけです。
モンスターの語源

それは50年たっても人間の愚かさは変わらないということを証明しているのかもしえない。

 
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メモ、終わり。
完成した記事では、Body3はまるごと削除しています。作品の外に話が広がりすぎるなと思ったし、神々の警告うんぬんの話は面白いですが、本作にそういう要素はあまりなくて、むしろ神の不在の中で人間たちの欲望の暴走が描かれているような感じだなと思ったので、削除しました。

下手に神様の話をすると、「人間とはなにか」の問いかけの部分がぼやけるかもしれないなとも思ったので、多分削って正解だったと思います。モンスターの語源の話とか面白いので、別の作品を語る時に出せたらいいな。