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『PUI PUIモルカー』の技法、ピクシレーションについて書きました

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 リアルサウンド映画部の連載の更新です。

 実写なのにアニメ―ション? 『PUI PUI モルカー』から“ピクシレーション”を考える|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 話題だった『PUI PUIモルカー』を取り上げていますが、作品評ではなく、本作の一部で使用された「ピクシレーション」という技法について書いています。

 詳しくは記事を読んでいただければと思いますが、ピクシレーションとは生身の人間をひとコマずつ撮影して動きを作る手法です。本連載が実写とアニメの境界線というテーマなので、この手法は連載にピッタリの題材だったと思います。

 実写の運動の記録性とは、果たしてなんなのかということを掘り下げています。毎秒24コマの動きとは果たして、肉眼で見ているものを記録できているのか、それは果たして本当に「自然」か、ハイフレームレートの作品の登場は何を意味しているか、などなど、ピクシレーションから大きく議論を展開させています。後半には『モルカー』の話はあんまり出てきません。すいません。

 この記事の結論は「実写は存在しない」というすごい結論になっていますが、実際全ての映像はアニメーションなんだと思います。突き詰めるとね。運動は原理的に静止画と違って記録しきれず、必ず溢れるので。こぼれた動きをいかに創造するか(あるいは想像するか)が映像なんだと思います。

 まあ、読んでいただいて納得できなければしょうがないです。

 
 以下、記事作成時のメモです。

 

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Thesis
実写とアニメの違い

そこからアンドレ・マルタンの言う「アニメは映画を包括する概念」という議論に持っていく
 
 
Intro
モルカーが人気。
2021年1月から放送開始された『PUI PUIモルカー(以下モルカー)』が大人気である。

本作は、NHKで毎週火曜日の朝に放送されてているストップモーションアニメーションだ。各話2分ちょっとの短さながら、内容が濃い。モルモットを車にした「モルカー」の可愛さとどこかシニカルな視線で描かれた人間の行いのギャップが受けているのだろう。渋滞を引き起こしたり、銀行強盗をしたり、車からごみのぽい捨てをする人間たちの姿に、視聴者は「人間は愚か」との感想を漏らしている。

本作の監督を務めたのは、2018年に東京藝術大学大学院映像研究科アニメーション専攻を修了したばかりの見里朝希。卒業制作として制作した『マイ・リトル・ゴート』が国内外で高く評価された逸材だ。

そこで使用されている技法、ピクシレーションが気になる。目を引く
本作はフェルト生地のパペットによるストップモーションアニメーション作品だが、一部生身の人間が登場するシーンがある。ご覧になった方はわかると思うが、人間もまたカクカクとした動きで人形のコマ撮りのような動きをする。この生身の人間を素材にコマ撮りする技法は「ピクシレーション」と呼ばれるものだ。

実写なのにこれもアニメーションである。本稿ではこのピクシレーションについて考えてみたい
ピクシレーションとは、実写の人間や写真素材をコマ撮りの素材とするアニメーションテクニックのことだ。実写素材なのにこれもアニメーションなのかと思われる方もいるだろうが、ピクシレーションもれっきとした歴史あるテクニックである。

 
 
Body1 ピクシレーションとは
定義を明確にする・・引用が必要
ファンタスティックアニメーション、メイキングガイド
ピクシレーション | 現代美術用語辞典ver.2.0

これを得意にしていたのはノーマン・マクラレン
マクラレンはどん作品を残したどんな人物か・・・物語らないアニメーションを参考に
代表作の『隣人』・・・どんな作品か。・・・森卓也はもっともマクラレンらしからぬ作品と称する・・・テーマが明確になるから(FORUM POUR UNE AVANT-GARTE)
争いの愚かさを描いた作品。。。フィルムセンター登川直樹


 
人形をコマ撮りできるなら生身の人間もコマ撮りできる。
 
大林宣彦監督にも言及しておくか
伊藤高志のSPICYも入れるか。

ピクシレーションはどんな効果をもたらすか、どんな効果が出るか

モルカーではどんな効果を発揮しているか。

 
 
Body2 ピクシレーションが揺らがせるもの
実写なのにアニメーションであるということ
  物語らないアニメーションP12。。実写とアニメの中間?

ノーマン・マクラレンのアニメーションの定義は?
ファント―シュVol1「カメラの対象物が何であれ同じことです」
物語らないアニメーションP23


マクラレンには実写とかアニメとか関係なかった・・・彼は技法そのものに興味を持ち続けた人。

隣人はドキュメンタリー賞にノミネートした

ドキュメンタリー作家、羽仁進はマクラレンをどう評していたか。

ピクシレーションにおいては、素材は実写と変わらない。手法の違いによって動きの操作があるだけだ。

 
 
Body3 改めて実写映画の基本、毎秒24コマの動きを考える
24コマもまた人為的に操作された動きではないか
 
羽仁進はマクラレンのピクシレーションをサイレント映画のようだと指摘した(『カメラとマイク』)

土居さん「コマ撮りをベースとする「アニメーション映画」が(ノーマン・マクラレンのマニフェストをアレンジして言うのであれば)コマの「間」で生まれるもの=独特なリズムを持つ運動を作り出すことに専念する」

 
そもそもカメラとは何をやっているのか。コマ撮りによる動きの操作と24コマの連続撮影にどれほどの違いが存在するのか。

カメラもまた、原理的にはコマ撮りを行っている。一度映して止まってを高速で繰り返している。
 
 
24コマの理由は、それが自然だからではない。
映画っぽいという曖昧な感覚・・・・「視覚心理入門」
かつては16コマだった・・・・「映画技術の側面から見た1080/24Pの必然性と将来性」
音の技術的要請で24コマになったに過ぎない

手回しカメラなら動きはかくつくこともある。。。。これは確認しようがないので入れない方がいいか

アニメーション研究出口丈人・・・中抜きの思想とサイレント映画の手回しカメラについての記述とマクラレンの影響
中抜きという用語は曖昧なので注意して使う。[アニメ用語、絵コンテ用語、映像用語、井上ジェットのカメラワーク大辞典

 
マクラレンは連続モードでの撮影も行っている・・・コマ撮りアニメーションの秘密
一定間隔で撮影するようセットする・・・最も早くて通常の24コマ、そして8分の1コマや4分の1コマもやった

普通の実写の撮影と何が違う?・・・コマ数の違いが実写とアニメーションの違いとは言えない。24コマのアニメーションも存在する。
 
 
アンドレ・マルタンの主張
 個人的なハーモニー・・・P328・・・映画の再発明
 日仏アニメーションの文化論P218.。。漫画映画とはコマ撮りの限りなく小さく狭い応用の1つにすぎない。
 ↓
 では、実写もピクシレーション(コマ撮り)の限りなく小さく狭い応用の1つにすぎない可能性はないか。

 
 
Concl ピクシレーションが暴く、実写という定義の曖昧な存在とアニメーションの包括性
生身の素材をたまたま16コマや24コマという、一定の速度で撮影したものを便宜上実写と呼んでいるに過ぎないのではないか。

全ての映像はある意味、コマ撮りであり、動きを描いているのだ。24コマすら、音の事情によって操作された動きのタイミングなのだ。

テアトル・オプティークの話・・・日仏アニメーションの文化論P48
映画に先行していたアニメーション・・・・国際アニメーションで

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 上の構成をもう少し綺麗にしたものが以下。
 
 

2021年1月から放送開始された『PUI PUIモルカー(以下モルカー)』が大人気である。

本作は、NHKで毎週火曜日の朝に放送されてているストップモーションアニメーションだ。各話2分ちょっとの短さながら、内容が濃い。モルモットを車にした「モルカー」の可愛さとどこかシニカルな視線で描かれた人間の行いのギャップが受けているのだろう。渋滞を引き起こしたり、銀行強盗をしたり、車からごみのぽい捨てをする人間たちの姿に、視聴者は「人間は愚か」との感想を漏らしている。

本作の監督を務めたのは、2018年に東京藝術大学大学院映像研究科アニメーション専攻を修了したばかりの見里朝希。卒業制作として制作した『マイ・リトル・ゴート』が国内外で高く評価された逸材だ。

本作はフェルト生地のパペットによるストップモーションアニメーション作品だが、一部生身の人間が登場するシーンがある。ご覧になった方はわかると思うが、人間もまたカクカクとした動きでコマ撮りのような動きをする。

本連載はアニメーションと実写の堺を引き直すことを目的としている。そこで今回はこの生身の人間をアニメ―トする技法について考えてみたい。このテクニックには実写とアニメーション双方の特性を含むことから両者の境界の曖昧さを示唆してくれるのではないか。
 
 

Body1実写素材をコマ撮りするアニメーション技法

ピクシレーションというアニメーション技法がある。これは生身の人間をコマ撮りする技法のことを指す。

定義を明確にしてみよう。現代美術用語辞典によれば、ピクシレーションとは「人間をコマ撮りすることでアニメーションを作る技法。アニメーションは一般的にドローイングや人形などの無生物を撮影することで運動を創造するが、ピクシレーションは人間をコマ撮りの対象とすることで、高速度撮影やコマ抜きとは違ったかたちでそれを行なう」とある。ピクシレーション | 現代美術用語辞典ver.2.0

『モルカー』の生身の人間の登場シーンは実際にひとコマずつ撮影しているのか、それとも通常の撮影映像からコマを抜いているのか、見ただけでは判別が難しい。一定の間隔で抜いているようにも見えるが、ここではとりあえずその真偽は棚上げにして論を進める。いずれにしても、通常の1秒間24コマの映像とは異なる動きを創造している点は変わりない。

アニメーションとは、広く一般にイメージされているように、絵を動かすものだけではない。例えば、『モルカー』も絵で描かれたものではなく、物理的な人形をひとコマずつ動かして撮影されている。本来のアニメーションの定義とは絵であることではなく、コマ撮りであることだった。ならば、そのコマ撮り対象が絵や人形のような非生物でなくてもアニメーションとなりうるのではないか。そしてピクシレーションという技法が生まれた。

このピクシレーションという技法を有名にしたのは、カナダの映像作家ノーマン・マクラレンだ。マクラレンは、カナダの国立映画制作庁(NFB)の初代アニメーション部門の責任者でもあった人物で、数々の実験的手法の作品を作ったことでアニメーションの歴史に名を刻む人物だ。フィルムに直接絵を描くカメラレスフィルムや、多重露光、カリグラフィ、切り絵によるアニメーションなど様々な手法を試み世界のアニメーション作家に多大な影響を与えた人物である。

そんなマクラレンのキャリアの中で、ピクシレーションで制作された『隣人』は最も有名な作品である。これは、2組の男が庭に映えた一輪の花を巡って醜い争いを繰り広げる姿を描いた作品だ。ユネスコからアニメーション技術指導のため、中国に派遣された矢先に朝鮮戦争が勃発したことがきっかけで本作の制作をしたそうだが、いつまでたっても争うことを止められない人間の愚かさをストレートに伝えている。(『フィルムセンター43号、「ノーマン・マクラレン監督 アニメーション特集 イメージに吹きこまれる生命感・その魔術」登川直樹、1977年11月9日、東京国立近代美術館フィルムセンター発行)

Neighbours, Norman McLaren, provided by the National Film Board of Canada

『隣人』がどのように制作されたのかを少し確認してみよう。上の完成作品を見れば明らかなように全編実写である。しかし、この奇妙な動きは人物をそのまま撮影・記録しただけでは生み出せないのは明白だ。屋外にコマ撮りモーターがついたカメラを持ちだし、役者に瞬間的なポーズを取らせてひとコマずつ撮影していく。本作の最も大きな見せ場となっているのは、役者が空中を浮遊しているシーンだろう。これは、役者がジャンプした瞬間をひとコマずつ撮影を繰り返している。これを演じた役者は心臓に問題をかかえており、撮影後倒れたともマクラレンは語っている。心臓のことをマクラレンは事前に知らなかったらしい。

屋外で撮影を行ったため、太陽や雲の移動、木々のざわめきなどにも悩まされたという。よく見ると背景の木々の動きがぎこちない場面や影の動きがおかしいシーンもある。

本作は基本的にひとコマずつコマ撮りをしているが、ひとコマずつの撮影ではない連続モードでの撮影も行っている。通常の映画の撮影では1秒間に24コマの回転数で撮影を行うが、マクラレンは1秒12コマや6コマ、3コマなどの連続モードの撮影も行っているそうだ。24コマで動いているように思える瞬間もあり、様々なコマ数でどのような動きが生まれるのかを一本の作品で堪能できる。(『コマ撮りアニメーションの秘密 オスカー獲得13作品の制作現場と舞台裏』オリビエ・コット著、グラフィック社 2018年7月25日発行)

『隣人』は明確に反戦的なメッセージを伝える作品だが、マクラレンのキャリアの中ではこうしたストレートにテーマやメッセージを伝える作品は珍しい。評論家の森卓也は『隣人』は最もマクラレンらしからぬ作品だと評していもいるが、本来のマクラレンは映像を生み出す手法や動きそのものに興味を持って様々な手法を考案した人物だ。(『FORUM POUR UNE AVANT-GARTE』所収、「ノーマン・マクラレンの小宇宙」森卓也著、アテネ・フランス文化センター、1972年11月9日)しかし、マクラレン自身は本作を自身のキャリアの中で最も重要な作品と位置付けてもいる。(『個人的なハーモニー』土居伸彰著、P128、フィルムアート社、2016年12月25日)

人間の愚かさを描いている点で『モルカー』と『隣人』に共通点を見出してもよいかもしれない。『モルカー』で生身の人間が素材として用いられているシーンは(7話までの時点では)例外なく人間の愚かな行為が描かれている。里見監督はもしかして人間の愚かさを描くためにピクシレーション的な手法が有効だと考えたのかもしれない。

ちなみに、ピクシレーションは大林宣彦監督の長編映画デビュー作『HOUSE ハウス』や自主映画『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』でも用いられている。

ピクシレーションは実写の素材でありながら、一般的な実写映像では実現できない奇妙な動きを作り出すことが可能になる。マクラレンはアニメーションを「絵を動かす芸術ではなく、動きを描き出す芸術である」と定義したが、動きを巧みに操作し、創造するという点で、実写の素材を用いるピクシレーションもまたまさしくアニメーションなのだ。
 
 

Body2 ピクシレーションが揺らがせるもの
ピクシレーションは実写なのにアニメ―ションだ。一見すると奇妙な物言いである。マクラレンの作品を音楽的な視点から分析した栗原詩子は著書『物語らないアニメーション ノーマン・マクラレンの不思議な世界』でピクシレーションは「実写とアニメーションの二大領域の中間にあるような」手法と書いている。(『物語らないアニメーション ノーマン・マクラレンの不思議な世界』、栗原詩子、P12、春風社、2016年2月26日発行)

中間と書かれると、まるで実写とアニメーションが分かれた世界に属していて、その間にあるものというイメージだが、果たして本当にそうだろうか。ピクシレーションという手法の発見は、むしろ、この分かれた世界に見える2つは実は共通の土台に属することを示唆するのではないか。すこし回り道をしながらこの考えてみたい。

マクラレンは、映画の道を志すきっかけとしてセルゲイ・エイゼンシュタインのサイレント映画を観たことを挙げている。グラスゴーの美術学校に通っているとき、自分の絵に何かが足りないと感じていたマクラレンはエイゼンシュタインの映画を観て、動きが足りないのだと気が付いたと語っている。元々実写映画に触発されて映画の道を志したわけだ。

また同じインタビューで、人間をアニメーションに用いることに対して質問されると、自身のスタンスとして「カメラの前の対象物がなんであれ同じこと」であると彼は語る。(『季刊ファントーシュ』Vol.1、「世界のアニメーション作家 ノーマン・マクラレンの世界」、ファントーシュ編集室刊行、1975年10月31日発行)

マクラレンにとってコマの上に描かれるものが絵であるとか、人形であるとか、人間であるとかよりも、コマとコマの間に起こることが重要だった。「アニメーションとは、コマとコマの間に横たわる見えない隙間を操作する芸術」という言葉を残したマクラレンだが、物理的にコマに映るものではない、不可視の部分にこそ、アニメーションの本質があると彼は語る。(『表象07 特集アニメーションのマルチ・ユニバース』、P68「アニメーションの定義 -ノーマン・マクラレンからの手紙」、土居伸彰訳、月曜社、2013年3月31日発行)

ドキュメンタリー映画で知られたの羽仁進は自著『カメラとマイク:現代芸術の方法』でマクラレンの『隣人』をこのように評している。

「『隣人』はユネスコの委嘱で作られた映画らしく、平和を呼び掛けているが全部コマ落しで撮影されている。ちょうどサイレント映画を今の映写機にかけると、人物全部がチョコチョコとびはねてい見える。あれと同じ効果が意識して使われて、生きた人間を撮りながら漫画映画のような効果を上げていた」(『カメラとマイク:現代芸術の方法』P112、羽仁進、中央公論社、1960年)

羽仁進は、『隣人』をサイレント映画のチョコマカした動きと似ていると言っている。チャップリンやキートンのサイレント映画の映像の一部を見たことがある人は多いと思うが、妙に素早く動いていることにすぐ気が付くだろう。あれらのサイレント映画は当然実写映画として制作されている。なぜ昔のサイレント映画があのような動きで見れるのかと言うと、かつての映画は1秒間24コマではなく16コマで撮影されていたからだ。

1秒間24コマで撮影されたものを1秒間24コマで再生すれば、早い動きにはならない。同様に1秒間16コマの映像を1秒間16コマで再生すれば早くならない。しかし、16コマ映像を24コマで再生すれば早き動きになってしまう。16コマの時代に撮影された映像を24コマで再生するからあのようなチョコマカした動きになっているのだ。

これはマクラレンが『隣人』で行った撮影とも近いものがある。『隣人』ではひとコマずつの純粋なコマ撮りの他、1秒間12コマや6コマなどの速度で撮影してもいると先に書いたが、それを1秒24コマの速度で映写すればユニークな動きとなる。

ちなみに、『隣人』はなぜかアカデミー短編ドキュメンタリー賞を受賞している。実写映画でもなく、脚本のある劇映画なのにドキュメンタリー賞とは奇妙なことだが、それだけこの技法は実写とアニメーションの境界を攪乱するものだという証左ともいえるかもしれない。

 
 
Body3 なぜ映画1秒間24コマになったのか
ここで少し回り道をする。そもそも映画はなぜ1秒間24コマで構成されているのかを振り返らせてほしい。

それは技術的、経済的な理由が大きい。

まず、サイレント映画時代に1秒間16コマという速度が選ばれた理由はなんだろうか。ジョセフ・プラトーは1829年に発表した研究論文『残像の持続』で彼は、「一秒間に起こった一つの動きを表す16枚の絵が次々と示されれば、視覚の残像効果によってそれは一体と感じられ、元の動き同様のものを近くする」と述べている。だがこれは科学的な論証があったわけではなく経験的な学説だったのではないかという説もあるようだ。(『映画技術の側面から見た1080/24Pの必然性と将来性』Noriko Kobayashi、駒沢女史大学研究紀要、2002年12月号)

16コマで十分自然な動きを人間は感じ取れるかもしれない。だが同時にチラつきは生じる。人間の目がちらつきを感じなくなるのは、1秒50コマほど必要だそうだが、それでは16コマの3倍近くもフィルムを消費してしまう。そこで16コマでもチラつきを抑えられるように1つのコマを映写する度に2,3回シャッターを開閉することで、16コマを疑似的に50コマ近くあるように見せ、チラつきを抑える映写技術が開発されたのだ。

それがなぜ24コマになったのかと言うと、音のせいである。16コマ映写では音がを同期させられなかったのだ。上述の同論文によると、アメリカの電流は60Hzであり、カメラと録音機を同期させるモーターが16コマの回転では満足な音質が得られなかったが、これを24コマで行ったところ、音質が安定したのだという。今日、映画っぽいと言われる1秒間24コマの映像は、映像そのものの良さを追求したのではなく、アメリカの電気事情と音との同期の問題から生み出された回転数だった。

映写システムは1秒間24コマになっても、やはりチラつきを抑えるために1コマにつき一度のシャッターの開閉を必要としている。チラつきがなくなる1つのコマの間にシャッタ―を挟めば、疑似的に1秒間48コマのようになる。チラつきを感じさせない50コマに近い数字だったので、これが映画の基準となった。
 
 

Body4 24コマの動きは肉眼で見る動きの記録と言えるか
1秒間24コマの映像を、我々は「映画っぽい」映像だと思う。しかし、この24コマという数字は映像の品質で選ばれたのではなく、音との同期の問題や経済的な理由で選ばれたものである。

そして、24コマの映像は我々が肉眼で見ている動きの全て正確に記録しているとは言い難い。

実写映画で撮影されたフィルムを眺めたことがある。24分の1秒で撮られた連続しているそれらのコマは隙間なく、人物の動きを記録しているかのようにう見える。しかし、それは歩くなどのゆったりとした動きを撮影した時の話だ。全力で走っている人間を撮影すれば、コマとコマの間の動きが飛んでいるように見える。そこには、コマとコマの「間」に本来存在していたはずの動きが欠落している。

マクラレンはアニメーションについてこうも語っている。「アニメーションとは、コマの間に横たわる見えない隙間を操作する芸術」だと。(『表象07 特集アニメーションのマルチ・ユニバース』、「アニメーションの定義 -ノーマン・マクラレンからの手紙」、P68、訳=土居伸彰、月曜社、2013年3月31日発行)

実写映画にも「コマとコマの間に横たわる見えない隙間」は存在する。それを意識的に操作するか、しないかでアニメーションと実写映画は分けられるのかもしれない。

「アニメーション映画は実写とは異なる。なぜなら、実写映画はカメラの前で行われる運動を記録し、それをスクリーン上で再生するが、アニメーションにおいては、記録すべてき運動は現実において存在しない」。(『個人的なハーモニー』P72、土居伸彰著、フィルムアート社、2016年12月25日発行)

アニメーション研究家の土居伸彰氏は『個人的なハーモニー』でそう記述する。アニメーションには記録すべき運動は現実にはないという点には同意するのだが、筆者は実写映画の「記録性」という点はいま一度再考されるべきであると考えている。1秒間24コマの撮影は本当に現実を記録できているのだろうか。24コマによって再生される動きは、本当に現実のものだろうか。

近年、1秒間24コマ以上のフレーム数で撮影された作品が次々と登場している。『ホビット』のHFRは1秒間48コマで上映され、より滑らかな映像を提供する。アン・リー監督の『ジェミニマン』はさらに120コマ数の作品を作り上げた。秒間のコマ数が多ければ多いほど、撮影された動きは正確になる。より肉眼で見たものを再現可能になるわけだ。しかし、それらの映像は「映画っぽくない」と評され、不人気である。

しかし、記録性という点ではコマ数が増えたほうが断然正確で良いのである。実写映画が記録性に依拠するのであれば、なぜ24コマ以上のより正確な動きはなぜ「映画っぽくない」のか。

それは、我々が24コマに慣れすぎているからというだけなのかもしれない。それはわからない。ただ一つ言えることは我々が実写映画だと思って普段見ているものは、肉眼で見る動きとは異なるものだということだ。それは、「映画っぽい」動きに加工された、創造された動きだと言い換えることができるのではないか。1秒間24コマの撮影は記録というよりも、我々の脳裏に焼き付いた「映画っぽい」動きを創造したものではないだろうか。

実写映画と我々が呼んでいるものまた創造された動きなのだとしたら、動きを創造するのがアニメーションである定義にも含まれ得るかもしれない。

ピクシレーションはひとコマを記録して動きを創造する。1コマと24コマの間にどのような差異はあるのだろうか。そこにあるのはゆるやかな動きのグラデーションであり、すべてシームレスにつながっているのではないか。だとすれば実写とアニメーションにどのような差異が存在するのだろうか。全てはシームレスにつながり、創造された動きがあるだけなのではないか。

1コマずつの創造と24コマの創造にどのような決定的な差異を見出すことができるのか。強引にこんな結論づけてみようか。「全ての映画はアニメーションであり、1秒間24コマ、あるいは16コマなど特定のコマ数の制約を設け、さらに生身の素材を中心に用いたアニメーションだけが『実写』と呼ばれる」と。

かつて「デジタルの地平で、全ての映画はアニメになる」と語った映画監督がいた。しかし、もしかしたら最初から全ての映画はアニメーションだったのかもしれないと筆者は疑い始めている。ピクシレーションという技法の発見は、そのことを暴いたのでないだろうか。

 
 
——–
 
 
以下、雑多なメモと参考にしたリンクなどです。
 
 

ピクシレーションを主体に行く

058 もうひとつのトリック、アニメーション。:映画前史~映画誕生/タイムマシン創世記:SSブログ

現在の私たちは、この映画が一種のアニメーションであることを知っています。そして、絵によるアニメーションは、1888年にフランスのエミール・レイノウが「テアトル・オプティーク」と称する出し物で最初に演じられたことは以前のブログに書きました。
 パテ・フレール社やゴーモン社の製作者たちはもちろんレイノウの「テアトル・オプティーク」を知っているのですが、この「お化けホテル」が、レイノウの絵を動かす原理を実物に応用して作られたものだということには気づかなかったのです。

 

生身の人間を素材にしていることについて

本章は、「アニメーション映画」=「コマ撮り」の可能性を再考する。実写映画における「運動の記録」 に対して、「アニメーション映画」は、「運動の創造」の芸術であることにそのアイデンティティを置い た。コマ単位でイメージを積み上げていくコマ撮りの原理によって初めて可能になったこと、それは、 作家自身が、自らの独自のリズム感によって作品世界を構成することである。
コマ撮りをベースとする「アニメーション映画」が(ノーマン・マクラレンのマニフェストをアレン ジして言うのであれば)コマの「間」で生まれるもの=独特なリズムを持つ運動を作り出すことに専念 する一方、デジタル・アニメーションは、コマの「上」にあるものの操作に重点を置くという意味にお いて、対極にある。「アニメーション映画」の実践者たちは、独特のリズムの創出に関心を持たないデ ジタル・アニメーションに対して概して批判的な傾向にあり、ノルシュテイン作品もまた、アナログ/ デジタルの二項対立のうちに、前者の代表格として位置づけられることが多い。しかし、『話の話』の ビジュアルのハイブリッド性――切り絵と実写の組み合わせや、異なるグラフィック・スタイルの共存 ――は、デジタル時代におけるコンポジットの原理と、それが可能にする実写とアニメーションとの融 合と、共通するものを多く持っている。 この共通性を理解するために必要なのは、原形質性という概念である。

個人的なハーモニー要約から

 

ピクシレーション | 現代美術用語辞典ver.2.0
人間をコマ撮りすることでアニメーションを作る技法。

ノーマン・マクラレンの代表作に『[隣人](https://www.nfb.ca/film/neighbours_voisins/)』という1952年の作品があります。ピクシレーションという人間のコマ撮りでつくられた作品です。この作品、アカデミー賞で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞しています。
ひらの ドキュメンタリーじゃないですよね?
土居 じゃないですね。間違いなくアニメーションです。当時、アニメーションといえばドローイングを使ったものだという思い込みがあるなかで実写を使っており、なおかつ冷戦を背景とした強い社会的なメッセージがこめられていたから、ドキュメンタリーとして受け止められたのですかね…。

ニメーションは現実とフィクションの間で溶けていく:ひらのりょう×土居伸彰連載第5回 | WIRED.jp

 

(219) 1月放送開始!注目のパペットアニメ『PUI PUI モルカー』と監督・見里朝希の世界 – YouTube

 

ストップモーションという手法には素材の区別に実写もアニメもない。それらの世界は緩やかにつながっている。動きの創造そのものがアニメーションであるから

では実写とはそもそも何なのか。・・・運動の記録と創造にはいかほどの違いがあるのか。そもそも24コマで記録しているのはそれが自然だからに過ぎない。それは24コマで創造しているだけでは

ではカメラとは何をする機械なのだろうか。運動を記録とコマ撮りによる創造にどれほどの差異があるのか。
初期カメラはフィルムを手回ししていた・・・偶然にもユニークな動きを創造してしまっている。
1秒24コマが人間の目に自然に映ることは映像誕生後に発見されたのでは。
初期映画は1秒16コマだった

SILENT MOVIE サイレント・ムービーについて (t-s-w-and-b.com) 手回し式カメラの記述あり
映画技術の側面から見た1080/24Pの必然性と将来性 231055554.pdf (core.ac.uk)
コマ数の記述がある。映画の3要素にアニメーションに関する記述も

lomokino・・・手回し式のカメラが売ってるらしい。買う?[(152) LomoKino 35mm Movie Maker – Film Maker Commentary –

LomoKino from Lomography on Vimeo.

動きの記録と創造とはどう違うか。そもそもカメラで動きをそっくりそのまま記録しているというのは幻想ではないのか。24コマというのは目で見える動きそのものではない。

  

 
調べること
ノーマン・マクラレンについて
カナダのアニメーション作家ノーマン・マクラレンがアプリに 51作品無料配信 | アニメ!アニメ!

髙橋克雄の遺した作品や人形、資料を公開- YouTube

伊東高志について
伊藤高志《解説》
実験映像作家 伊藤高志 インタビュー|HMV&BOOKS onlineニュース
松本俊夫について
黒坂圭太について

ストップモーションという手法の基本と歴史について

西村智弘ウェブサイト | 実験映画とアニメーション

映画の技術が成立する上で動画(アニメーション)の原理は不可欠である。静止画である写真に時間を与えたのは動画の原理であった。

映画用カメラの発展について
第1節:写真の歴史 – 作って遊ぼう! 見て学ぼう! 映画の仕組み(映画講座Part1) – Cute.Guides at 九州大学 Kyushu University

映画用カメラ – Wikipedia

映画はなぜ1秒に24コマなのか | 目の限界説は間違い

実在感、実態感に乏しい、24fpsの映像が非現実的であるからこそ、映画に引き込まれるのでしょう。

映画は24コマで観よう! トム様に応え、テレビで映画を観るための設定を4社に聞く – AV Watch

“映画らしさ”とは何か? 一石投じた『ジェミニマン』120/60/24fps上映、全部観た – PHILE WEB

なぜ映像と音声はズレるのか? | 動画法

動きの記録と創造・・・何が本質的に違うのか、または違わないのか。

Neighbours (1952 film)

The term ‘pixilation’ was created by [Grant Munro

to describe stop-motion animation of humans in his work with McLaren on __Two Bagatelles__, a pair of short pixilation films made prior to __Neighbours.__ Some mistake the film as live-action with stop-motion effects but all movement by the actors in __Neighbors__ is in fact pixilation. During one brief sequence, the two actors appear to levitate, an effect achieved by having the actors repeatedly jump upward and photographing them at the top of their trajectories.

 

アニメーション的想像力の現在:ノルシュテインから『この世界の片隅に』まで 『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』(フィルムアート社)刊行記念イベント 資料
 
マルタンが「アニメーション映画」に夢見ていたのは、コマ撮りはアニメーションどころか映画をも再発明するという こと。コマ撮りはフィルムというメディウムの原理を吟味することで、その都度、個人的に映画を再発明する。コマ撮り であることを活かした「個人的な」時間感覚に満たされた世界を作り上げることこそ、マルタンが「アニメーション映画」 に見出したことなのではないか?

アニメーションは確固たる定義を持たず、「コマ撮りを用いて作られた映像」という定義もまた、CGアニメーションの登場により無効となっている。

キム・ジュニアン 書評『個人的なハーモニー』

伊藤高志映画作品集《イルミネーション・ゴースト》

映画は静止画像が1秒24コマの速度で連続投影されることで私たちの視覚にもたらされる機械論的(メカニスト)な幻影-偽りの運動にすぎない、とベルクソンは言う。だが映画はベルクソンに以下のような返答を試みるだろう。映画が偽りの運動であることを認めるとしても、一体どこに“本物の”運動が目に見えるものとして存在するというのか?

映画を語るベルクソン : 「アンリ・ベルクソンが映画について語る」翻訳と注釈

運動は持続の厚みの中で為されるのであり,瞬間へとは断片化できない。ここから,そのコロラリーとして,運動は瞬間から 再構成できないというテーゼが帰結する。いくら瞬間から運動を再構成しようとしても,運動は連続的である限り,瞬間と瞬間の間で生じるだろう。 どれだけ瞬間を短く取っても無駄である。運動は瞬間と瞬間の間にいわば逃げ去ってゆく。にもかかわらず,映画はスナップショットを連続させ運 動を再生する点で,運動があたかも瞬間によって再構成できるかのような 錯覚を人々に与えてしまう。ベルクソンが『創造的進化』の中でシネマト グラフを批判するのは,この意味においてであった。ここでは,シネマト グラフは人に実在的運動ではなく,その錯覚を見せる装置でしかない。事 実,ベルクソンは,シネマトグラフが再生する運動は抽象的で一般的なも のに過ぎないと指弾する。
フランスの映画学者ジャン・ミトリは「われわれが観るものはフィルムの どのコマにも実際には存在していない」と言い,われわれは複数の写真の 「本質」であるような「씗平均的>イマージュimage잰moyenne잱」を見てい る,と指摘する웖웋웋웗。ドゥルーズも観客がスクリーンに知覚するのは,ミト ― 15― 映画を語るベルクソン (大石) リと同様に「平均的イマージュ」であるとし,運動は観客の意識の「直接 与件」であると言う웖웋워웗。このようにわれわれの意識への現れという側面か ら捉えるならば,シネマトグラフは運動の錯覚ではなく実在的運動を観客 に与える装置である。

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メモ終わり。

長いですね。これはそれだけ難産だったし、世の中の映画の常識をひっくり返すようなことを言わないといけなかったので、たくさん調べる必要がありました。

これから、本連載は実写映画も扱っていきたいので、本記事の後半パートは必ずどこかで書かねばならないと思っていました。ピクシレーションなんて渋い技術使っている作品が話題になってくれて助かりました。

ベルクソンの映画論についてもいろいろ調べていますが、記事には反映していません。でも、これからどこかで出てくるような気がしています。

「いくら瞬間から運動を再構成しようとしても,運動は連続的である限り,瞬間と瞬間の間で生じるだろう。どれだけ瞬間を短く取っても無駄である。運動は瞬間と瞬間の間にいわば逃げ去ってゆく。にもかかわらず,映画はスナップショットを連続させ運動を再生する点で,運動があたかも瞬間によって再構成できるかのような錯覚を人々に与えてしまう。」というこの指摘はとても重要だと思います。

アンドレ・バザンは映画を写真の記録性が根本にあると語って、それが今日の映画理論の基礎となっていますが、静止画が記録であっても、運動は絶対に記録不可能で、必ず「こぼれ落ちる」わけです。ということは、映画は運動の記録だ、という言説はある意味ファンタジーというか、「そういうことにしておこう」みたいな理論ということになると思います。だって、記録できてないから。

そして、毎秒24コマで再構成された運動を僕らは、自然な動きと思って見ているわけですけど、全然自然じゃないんですよね。映画的にカッコいい運動を「創造」しているのであって、全く自然ではない。

なので、いわゆる実写映画と呼ばれているものもまた、運動の創造なんです。創造されていて記録じゃないということは、アニメーションということなんです。