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実写版『るろうに剣心』を題材に「実写化」とは何かについて考えてみました

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 リアルサウンド映画部に、実写版『るろうに剣心』について書きました。

 『るろうに剣心』が追求する“実写ならでは”の表現とは? 時代劇の美学と異なるリアリティ|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 本来は、実写とアニメーションの連載で扱う予定で書いていた記事を、ちょっとアレンジして出しました。

 この記事のテーマは、実写ならではの表現とは何か、です。アニメーションならではの表現はよく言われますが、実写にしかできない表現とはなんだろう、それを突き止めることが実写化の成功につながるのでは、という問題を設定してみました。

 あと、本作は時代劇なのかということも考えてみました。大友監督は一般的にイメージされる時代劇をあえて目指していないことをインタビューで言っているのですが、従来の時代劇にはどんな特徴があって、この作品はそれとどう異なるのかについても分析してみました。

 
 
 以下、原稿作成時の構成案とメモ。
 
 
———————–
 
 
記事全体で何がテーマなのかはっきりさせないといけない。
漫画・アニメの実写化と時代劇と動く絵、飛躍する実写と抑制するアニメ

ーーーーーPointーーーー
歌舞伎は動く絵と言われた

時代劇とるろうに剣心の距離
るろうに剣心とアニメの距離
時代劇とアニメの距離
実写映画とるろうに剣心の距離
この4つの距離の話、、、距離というよりポジションの話か

歌舞伎→時代劇が生まれた→リアルと舞踏の間を揺れ動き、発展していった
動く絵→アニメ、漫画文化とともに日本のカルチャーの大きな部分をになってきた。

その最新の混淆物としてのるろうに剣心
 
 
ーーーーーーーーー
Memo
『るろうに剣心 最終章 The Final』メイキング映像公開 佐藤健「本当に幸せな日々でした」|Real Sound|リアルサウンド 映画部

「殺陣」という文化―チャンバラ時代劇映画を探る (中部大学学術叢書)
時代劇入門 (角川新書)
チャンバラスターと時代劇監督
時代劇伝説 : チャンバラ映画の輝き
ちゃんばら芸術史
香港電影 燃えよ!!スタントマン
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キネジュンネクスト キネマ旬報next vol. 07: 特集「るろうに剣心 京都大火編/伝説の最後編」

アニメ批評の参照も必要だ
小黒祐一郎
氷川竜介
藤津亮太
叶精二
須川亜紀子
土居伸彰
マウス・アンド・マジック
作画汗まみれ

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チャンバラ映画史―尾上松之助から座頭市まで
殺陣 現代教養文庫 永田哲朗

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日本映画戦後黄金時代 24 戦後剣戟スターの殺陣
アニメーション、折りにふれて
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ちゃんばら芸術史 大井 広介

国立映画アーカイブ
ツイ・ハークの映像世界
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ワンス・アポン・ア・タイム 天地大乱
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INTRO | 大友啓史監督インタビュー:映画「るろうに剣心」について【2/2】
ノンフィクションW 日本のアクションを変える男 谷垣健治 〜香港の現場から映画「るろうに剣心」へ〜|ドキュメンタリー/教養|WOWOWオンライン

あにめのたねの取材の話からはいるのもありか
――アクションシーンではクラヴマガ(軍式護身術)団体(クラヴマガ・ジャパン株式会社)に取材し、参考動画を撮影したそうですね。プロの動きを実際に見ていかがでしたか。
加納:銃の奪い方をふくめて、身体の動かし方や手の動作など迫力が全然違いました。変な言い方かもしれませんが、本物の体術の動きはアニメっぽいなと思ったんです。実戦で銃を奪い取る時は、相手に悟らせないように初動は最小限ですが、攻撃する際は大きなダメージを与えるためにダイナミックな動きをするのが大切だそうで、そのダイナミックな動きがアニメっぽかったんです。

(360) 殺陣・技斗 魅せるアクションのコツ ALL PLAY – YouTube

コメンタリー上映のメモ
走り方の違い
パルクール

ホルスの映像表現、P31
断片を巧みにつないで超人的な飛翔を実写で説得力を持って描く・・・仮面ライダーの手法
アニメでもそういうつなぎ方によって、絵空事のアニメに説得力を与える

るろ剣ではそれをワイヤーアクションでワンショットで撮ってしまう。宮崎駿の軽業アクションを高畑監督は評価したが、それに近い

殺陣チャンバラ映画P12 永田哲朗
歌舞伎は動く絵と表現する人がいる
映画の殺陣も歌舞伎から始まっているP13。。。。それは非写実的で非リアリズムの様式美だった
勝見庸太郎。。。伊藤大輔の脚本、立ち回りを忘れてめちゃくちゃ暴れたのが型にはまった立ち回りに飽きていた観客に受けた。P58
カメラマン鈴木博は、刀をかぶったときは遅く、切り降ろすときは速くと言う風に工夫したP82・・・アニメのタメ詰めのような発想か。
立ち回りは普通動きを早く見せるためにコマ落しをやっていた。P104
望遠レンズで撮る黒澤明はなぜ望遠を使うか。。。動きが早く映るから。P195
殺陣師・・・久世さんが黒沢映画の殺陣を作った。P198
劇画時代劇の映像化の時代。。。子連れ狼の話P257
マキノ省三と尾上松之助が脱歌舞伎の殺陣の功労者P330
戦後の立ち回りはチャンバラの動きで主人公の性格を表現するようになっていった。P333
殺陣は殺し合いのリアリズムか踊りの美か。。。またはその中間かのせめぎ合いP340
殺陣は感情か動きの美しさか。。。。P346 アニメのアクションシーンでも同じことが言えるだろう。
これからの殺陣には特撮が必要になるだろうと滝沢一氏。P359

殺陣師見参
武術化は本来動きが地味だ。最小の動きで相手をやっつけることしか考えていないから。それを派手にアレンジするのが殺陣師の仕事 P78

チャンバラ映画史 フィルムアートシアター
歌舞伎の型を導入することから始まった。P170

アニメーション折にふれて
止め画と歌舞伎の見得の類似P11
映画的な手法を徹底したのが日本のアニメーションP11
本当らしい嘘と嘘らしい本当の対比。。P140。。。るろ剣はどっちに属するか
アニメーションにリアリズムを持ち込む意味とは、、、P166。。。。本当らしい嘘なのか。。。対してるろ剣のワイヤーによる跳躍は嘘らしい本当に属するのか

いのちを吹き込む魔法
擬画化されたリアリズムP70。。。るろ剣の目指すリアリズムもそれか。。。あるいは歌舞伎や時代劇も

 
 
Intro
アニメと時代劇は似ている。
「動く絵」と聞いたら、10人中10人がアニメを連想するだろう。

しかし、この言葉をなぜか筆者は時代劇の本で出合った。

永田哲朗氏は歌舞伎を「動く絵」と呼ぶ人がいると書いている。
その理由

映画の時代劇、特に見せ場である「殺陣」は、源流をたどれば歌舞伎にたどり着く。動く絵的な要素を時代劇はたくさん持っていた。
その時代劇の最新の形として『るろうに剣心』は存在する。

ここでは、アニメと実写と時代劇と歌舞伎、そして漫画の交錯する混淆した場所に

 
 
Body1 時代劇とアニメの距離

『るろ剣』最終章、黒の剣心が意味するものとは?大友啓史監督、これまでのシリーズとの決定的な違い語る|シネマトゥデイ
100年以上前の時代が舞台ですから、時代劇といえば時代劇なんだけれども、陰影の深い、いわゆる狭い意味での“時代劇”とはちょっと違う。シリーズ当初から僕は、『るろうに剣心』シリーズはマーベル映画のような、ある種の現代性やポップさを備えたエンターテイメント映画であって、時代劇という言葉から想像されるものとは違うものを目指そうと、スタッフに話していたんですね」


時代劇という言葉から想像されるものとは

源流は歌舞伎というポイントを外さない
それは様式の世界だった。
舞踏のような様式からリアルな殺陣を追求する動きの両輪
永田氏の本からいろいろ引用

動く絵の要素が多分に含まれている。
時代劇にはためつめ的な感性がそもそもあった。
回転スピードを変えるなど
見得所作、
実際の武闘はすごく地味

アニメもタメ詰め的な演出を実は時代劇はやったりしていた。
動く絵である歌舞伎からの引用
ここは高畑さんの説が有力、、アニメーション、折に触れて

作画汗まみれから、東映時代劇からの影響を語る

春日太一さん「時代劇は異世界ファンタジー」
 
 
Body2時代劇とるろうに剣心の距離
しかし、るろうに剣心はスピード勝負で回転数をいじらない。鳥羽伏見の冒頭のアクションのような乱打戦の殺し合い
しかも、本当に当てている。

谷垣さん、大友さんのインタビューから証言を取ってくる。
様式よりも合ってない感じがリアルに見える

そもそも、明治時代の物語は時代劇なのか。。。過渡期の物語なのが特徴

 
 
Body3るろうに剣心とアニメの距離
マンガ原作、その原作はいわゆるアニメ絵だ。
アニメ絵について説明いるか。
原作者がアニメやゲームの影響の強いと言ってるのは確かだが。

超人的な動きを実写に導入。。。アニメ的飛躍の世界
仮面ライダーの箇所を引用

なぜそれをアニメでやらないか。高畑さんの引用

しかし、それをワンカットの中に収める。ワイヤーワークで

ワイヤワークは実写映画でアニメ的な飛躍をCGに頼らず現場で可能にする技術

一種の特撮技術

中間的な特撮的想像力の産物と言えるかもしれない
前回のエヴァで書いた庵野さんの言葉に通じるのではないか。

谷垣のさんの言葉
ドリフト走り。。。ルパンが元ネタ

しかし、アニメ的、時代劇的様式からは距離を置き、実写映画低記録性に依拠していると言える
大友監督の証言をどこかから

アニメからの影響もドキュメント的な部分と混淆する。その混淆している点に面白みがある作品。

追憶編の解釈
アニメが本格的な時代劇テイストだった。そのアニメに影響を受けて、時代劇っぽくなってるという複雑さ
五社英雄の人斬り

従来通りの時代劇のアニメ的な部分を使っているわけではない。
むしろ、時代劇ともアニメとも違うとも言える。
しかし、漫画原作のアニメ化もされている世界観である。
るろうに剣心は時代劇か否か、、、非常に微妙なラインを狙っている。時代劇の影響を与えたというよりも、ハイローのような現代アクション劇に多大な影響を与えている

るろ剣は時代劇か。。。時代劇とは明治維新前の話を指すのか。いなか
曖昧だが、侍の時代までを指す言葉であることが一般的。るろ剣は過渡期の時代である。
過渡期の混淆とした感じこそがるろ剣の魅力で
なので、表現意匠も混淆としている。。。もっと時代劇は様式の世界だが、時に様式的で時にそれを逸脱することで独自の魅力を生んでいる。
原作漫画も、アニメ絵で少年漫画でハードに明治維新後のドラマをやるという混淆ぶりにその魅力はある。人斬りと流浪人の自分に引き裂かれた主人公のあり方を含めて、混淆としているのがこのタイトルの魅力

春日太一の説、、、るろ剣は時代劇なのか

動く絵である歌舞伎からの引用
ここは高畑さんの説が有力

アニメと歌舞伎、ケレン味と飛躍

チャンバラとガンダム
その富野監督は、るろうに剣心を批判的。

 
 
Body3るろうに剣心とアニメの距離

ワイヤーワークの感性。。。飛躍を実写で作る方法である
一方で飛躍していない。本当に当てているし、冒頭の鳥羽伏見の戦いのカオス感。様式よりも本当の殺し合いに近づける作業をしている。ドキュメント」というキーワードも出てくる。
一方でアニメ的飛躍を持つ

仮面ライダーの比喩

漫画実写化の戦いと映像化するということ
アニメと実写はそれぞれどんなアプローチなのか
追憶編の複雑な文脈
マンガからアニメへ。アニメは五社英雄の作品を参考に飛躍しないアニメだった。そのアニメをさらに実写映画が参考にしてい映像化されている。結果としては、最も正統派の時代劇に近づいた作品になったTHE FINAL。

人々のリアリティの変化と混淆するリアリティ
アニメ・漫画的リアリティとドキュメント的リアリティの混淆物であるるろうに剣心
 
 
 
 
再構成
冒頭、CGの話をしすぎているので、もっとアニメとは運動の創造だという話にシフトさせるべき。これまでの連載の中から引用できるはず
マキノ省三と尾上松之助が脱歌舞伎の殺陣の功労者P330
戦後の立ち回りはチャンバラの動きで主人公の性格を表現するようになっていった。P333
殺陣は殺し合いのリアリズムか踊りの美か。。。またはその中間かのせめぎ合いP340
殺陣は感情か動きの美しさか。。。。P346 アニメのアクションシーンでも同じことが言えるだろう。
これからの殺陣には特撮が必要になるだろうと滝沢一氏。P359
Concl:実写のリアリティラインとアニメのリアリティラインの中間的、第3のリアリティラインへの意識が偶発的に生まれたのではないか。

最初の問いに答えた後に出てきた新たな問いとして今回は処理すべきか

 
 
———-7月29日
前段
本連載は、映画における実写とアニメーションの境界線を引き直すことを目的にしている、らしい。

冒頭から歯切れの悪い書き方だが、そもそも筆者は、今日、実写とアニメーションに明確な線を引けるのかと疑念を抱いてもいるからだ。それどころか、より厳密に追求すれば、今日どころか、ピクシレーションについて取り上げた回では、最初から両者に違いはなかったのではないかという疑念まで吐露している。

とはいえ、世間一般には、実写とアニメーションは違うと思われてきたし、違うものとして批評の世界でも扱われてきたのだ。それが今日、デジタル技術の発展で、実写にもCGによる創造性が入り込み、カメラで映していないものを現出させることが可能になり、アニメーションであっても現実に近いライティングと奥行き表現が可能となり、両者の堺は曖昧になりつつある。

映画とは、基本的に実写の映画のことだと考えられている。これだけCGが大量に使われるようになってもなお、映画とは実写映画のことなのだ。映画的な表現とは、常に実写的な表現と同義だ。

代わりにアニメーションならでは、という言い方でアニメーションの独自性は語られる。アニメならではの表現、というものがどうもあるようで、それは実写ではそうそう実現できない、可塑性だったち独自の動きの想像であったり、リアルを突破するイマジネーションであったりする。

ここには、それぞれ別方法から2つの疑問を提示できる。

1つは、実写とアニメーションの区別が困難となった時代に、「アニメーションならでは」はいまだに成り立つものなのか。アクロバティックな動き満載で、現実には存在しない煌びやかな海底世界を描く『アクアマン』は実に画面の70%がCGによるものだという。あの映画の過半数は、カメラの前に実際に存在しないもので構成されている。CGが過半数の「実写映画」は実写なのか。もうほとんどアニメーションではないか。ならば、そこには「アニメーションならでは」の表現も入ってしまっているのでは。ということは、「アニメーションならでは」はアニメーション作品のものだけではなくなっているのではないか。

もう一つは、「アニメーションならでは」を言及されることはあるのに、それに比して「実写ならでは」が言及されることは極端に少ないことだ。これは、映画といえば実写だからという固定観念による部分が大きいだろう。わざわざ「実写ならでは」などと言わなくとも、「映画ならでは」と表現すれば、それで通用していたのだ。

だが、両者が溶け合う時代に映画的=実写的という図式は、これからも通用するのだろうか。むしろ、アニメーション的な表現を大量に実写映画に持ち込める時代だからこそ、本来の実写にしかできなかった、本当の意味での「実写ならでは」の表現とは何かを突き詰めて考える必要があるのではないか。

では、「実写ならでは」とは何か。それを探るために、最も適切な題材はなんだろうか。

ドキュメンタリー映画では、実写であることが自明すぎてかえって何が「実写ならでは」なのかは前景化しにくいかもしれない。むしろ、アニメーション的なイメージと実写的なイメージがせめぎ合う作品こそ、それを探るのにふさわしい。

例えば、アニメやマンガを原作とした作品はどうだろう。作り手は常に、漫画的・アニメ的な表現と実写的な表現の違いを意識せねばならないはずで、観客にとってもそれは同様のはずだ。

今回は、近年の漫画・アニメ実写化作品の最も成功した例と言える『るろうに剣心』を題材にする。原作は漫画だが、優れたアニメ作品を先に持ち、アニメからの影響も伺える。何より原作漫画はいわゆる「アニメ絵」である。「実写ならでは」の魅力を再確認するにはうってつけだろう。

————————————————–

この連載は、実写とアニメの境界線を引き直すことを目的にしている。連載名をつけた人は少なくともそう思っていると思われる。
これまでは、アニメ作品からその境界線を考えてきたが、今回は実写映画からそれを見直してみる

アニメーションならではと人は言うが、実写映画ならではとは人は称さない。なぜなのか。
おそらく、何が実写映画なのか、実写映画の得意とするものが最も端的に表れるのは、マンガやアニメを翻案する時なのかもしれない。

本連載はこれまでアニメーションを題材にしてきたのは、アニメーション的な可塑性や創造性が実写映画の領域に拡大しているという現状がある。たとえばアクアマンは70%がCGだそうだ。それって何が実写映画なのか。

実写映画ならではをなぜ追求する必要が今までなかったのか。それは、映画イコール実写という前提だったから。だが今は違う。

どういう時に、どういう題材で、実写ならではを実感するだろうか。実写とアニメーションがあったとしたら、その境界線になるべく近い作品の方が、顕在化しやすい

例えば、『るろうに剣心』はどうだろうか。

技術発展が実写映画にもたらしたものは、アニメーション的な可塑性であり、超現実的な飛躍であり、非人間的なカメラワークとポジションによる、新しい視点とカメラ運動の獲得など多岐にわたる。
様はやれることが増えていて、本作もまたそうした恩恵を受けて、アニメーション的な想像力とビジュアルセンスが交じり合っている。

だからこそ、映画的なセンスの何たるかも逆説的に際立つのはではないか。

今日、実写映画が目指しているのはかつてディズニーが求めた擬画化されたリアリズム(いのちを吹き込む魔法P70)ではないか。

 
 
 Intro
大友啓史監督の『るろうに剣心』は、人がアニメやマンガのように超人的に飛ぶ。

原作漫画の主人公、緋村剣心の剣術「飛天御剣流」は、その名の通り、飛翔することに特徴がある。原作の主人公が持つ魅力を実写映画でも再現しようというわけだ。

一方で、このシリーズは血なまぐさい戦場や多人数入り乱れての必死の殺し合いが描かれる。そこには、アニメや漫画の整った世界とも異なるばかりか、従来の時代劇の様式美とも異なる、生の人間のぶつかり合いが強調される。とりわけ、一作目の冒頭はわかりやすい。右も左も前も後ろも必死に生き延びようと相手を殺すものだらけ。カッコよさや美しさよりも戦場のリアルが優先されたような描写だ。

アニメ・マンガ的飛躍と血なまぐさい殺し合いのリアルが奇妙に共存している。実写映画『るろうに剣心』は、一見相反する2つのリアリティラインが同居している点に特徴がある。それはどうして両立可能だったのか、それを考えることで今日のデジタル映像時代の「実写ならでは」を探ってみることにしよう。
【おまけ使うかわからず】同居できたのは、なぜか。それは、本シリーズが、漫画と原作とした実写映画であることに、強く自覚的だったからに他ならない。どういうことか。
 
 
Body1 飛躍と実写とアニメ
『るろうに剣心』の作品分析の前に、日本のアニメにおけるリアリティはいかに追求されてきたかを振り返ってみよう。
(「リアリティ」とは現実に近い、という意味では、ない。「もっともらしく」感じるという意味でここでは使っている。)

日本のアニメは、あまり動かない。キャラクターも写実的ではない、戯画的なものが多い。写実的でもない絵があまり動かないのに、なぜ「もっともらしく」見せることができるのか。

日本アニメでリアリズムを追求してきた大家、高畑勲監督は、その理由を「カット割りがうまい」からだと説明している。

「絵は「止め」でも、その一枚一枚の変化が大きくて、それを時間と共に上手に積み重ねていけば、そこにリズムが生まれ、テンポも出ます。物語も語れます。こういう映画的な手法をアニメーション映画で徹底させたのが日本でした」(『アニメーション、折にふれて』高畑勲、P10、岩波書店)

カット割りについての「映画的な手法」とは、ざっくりと言ってしまうとモンタージュの巧みさということになるだろう。日本アニメにおいては、絵コンテという役職が極めて重要になるのも、このカット割りにストロングポイントがあるからだ。

そのカット割りが迫真性やもっともらしさを生み出す例として高畑監督は、こんな例を挙げている。

アニメーションで描かれる内容は、しばしば、現実にはあり得ない超人的なものも多い。それが魅力でもあるわけだが、それを工夫なく提示してもリアリティを感じられず、面白くない。それに動きの実在感ではないやり方で描くにはどうすればいいか。例えば人間が5メートル以上の大ジャンプすることに説得力を与えるにはどうすればいいか。

「人間が一度の跳躍で5メートルとび上がるのをフルショットで「ありあり」と描けば、「マンガ」になって人は笑うか、しらけてしまうでしょう。しかし、跳躍する断片のショットを巧みにフラッシュして積み重ね、最後にカッコイイ着地でキメれば人は感覚的に納得するか、華麗なフラッシュの映像そのものを面白いと思うことができます」(『ホルスの映像表現』、高畑勲、P31)

上記の例は、『仮面ライダー』の手法であると高畑監督は言っている。ライダー役の俳優が飛ぶ瞬間で1カット、空中で回転して1カット、そして着地で1カット。生身の俳優が演じるキャラクターの超人的ジャンプに説得力を与えるためには、最低でも3カット必要であるわけだ。

アニメーションは絵空事なので、そのような法則を無視してひといきで超人的ジャンプを描くことはできる。しかし、それではリアリティを損なうので、日本アニメでは同じようにカットを割って表現して、感覚的に観る人を納得させるのだと高畑監督は語る。

こうした手法を追求することになったのは、日本アニメの制作環境に負うところが大きい。低予算で大量に生産するには、どうしても効率重視とならざるを得ない。アニメで効率重視とは、要するに描く枚数を抑えるということだが、1秒8毎の絵で動かす「3コマ打ち
の美学が発達したことと理由は共通している。

しかし、高畑監督はそこに例外があるとも認めている。超人的な運動をひといきで、強い迫真性とリアリティと面白さを持って描けるアニメーターは別であり、それができるのが宮崎駿なのだと言っている。その違いは、「演出の手によってかりそめの生を生かされている手品師」か、「眼前で力業をありありと披露してくれる軽業師」と例えている。宮崎駿がいかにアニメーターとして特別な存在だと高畑監督が感じていたかが、よくわかる話だ。

『るろうに剣心』は、実写映画にもかかわらず、この超人的な運動をモンタージュになるべく描こうと試みている。それは香港アクションに端を発する「ワイヤーワーク」によって可能となった。場面ごとにモンタージュを駆使する場面とひといきで見せようとした場面が混在しているのが本作のアクションのユニークポイントと言える

シリーズ1作目の中盤、主人公のの剣心が喧嘩屋の相楽左之助と対峙した時、左之助の武器である斬馬刀を足で抑えつけた剣心を、左之助が力任せに持ち上げる。その時、空中にふわりと浮き上がる剣心をロングショットで捉えて、欄干に見事に着地するカットをつないでいる。持ち上げるカット、空中に浮き上がるカット、そして着地のカットの3カットを、リアリティを獲得するために必要としている。

反対に、宮崎駿のアクションのごとく、ひといきで見せてやろうという意気込みを感じるアクションもある。クライマックスで剣心と左之助が2人で武田観柳の屋敷に乗り込み、大人数を相手に大立ち回りを見せ鵜シーンで、剣心が低い姿勢で円を描くような軌道で敵に迫るシーンだ。この通称「ドリフト走り」は、宮崎駿監督の『カリオストロの城』を参考にしているとアクション監督の谷垣健司が証言している。(『アクション映画バカ一代』、谷垣健司、P218、洋泉社)

ワイヤーワークは、アニメーションでしか描けないはずの、言い換えるとアニメーションならではの運動を実写映画に持ち込むことを可能にしている。『るろうに剣心』はそのワイヤーワークと、巧みなモンタージュを組み合わせることで、かなり上手く2つのリアリティラインを共存させることに成功していると言える。実写的なモンタージュによる見せ方だけに頼っていないが、開き直ってアニメ的な飛躍だけでもない、絶妙なバランス感覚に支えられて作品なのだ。

こうした画作りは、CGを使えばいくらでも可能だ(予算の問題は今は棚上げにする)。実際に昨今のハリウッド映画には、ひといきのカットで、超人的な動きを描くに作品は多くなっている。先に名前を挙げた『アクアマン』の冒頭でアトランナがアトランティスの追っ手と家の中で戦うシーンは、超人的な動きの連続をCGを駆使して長回しで見せている。(個人的な意見では、カット割った方がよりリアリティを感じられると思うが、新しい画作りを志向する挑戦の意義はもちろんある)

—————————-
日本アニメのリアリティの追求方法。。。実写的迫真性を追いかけたものと日本アニメの止めの美学と歌舞伎の関連
高畑勲監督はこの日本アニメの考えを歌舞伎の見得や殺陣と同じ考えではないかと考えた
アニメーション、折りにふれてP10、「日本のTVアニメの多くは、~動きより「決めポーズ」を大事にします。

にもかかわらず、リアリティを失わず、面白いものになるのはどうしてか。
カット割りが上手いから。
アニメーション、折りにふれてP10「止めでも一枚一枚の変化が大きくて、それを時間と共に上手に積み重ねていけば、そこにリズムも生まれ、テンポも出ます。物語も語れます。こういう映画的な手法をアニメーション映画で徹底させたのが日本でした。」

その上手さはいかに絵空事であるアニメにリアリティを生んだか
ホルスの映像表現P30 絵は一見どんなに「リアル」でも、ここでは実在感尊重のリアリズムは通用しません。むしろ何かが起ったらしい「感じ」をモンタージュで感覚的に表現主義的に異常なまでに印象づけ眩惑し、それによって「起ったこと」の非現実性を忘れさせ観客を引き込んでしまわなければならないのです。

その例として仮面ライダーのカット割りを上げる。ホルスの映像行玄P31:一度の跳躍で5メートルとび上がるのをフルショットで「ありあり」と描けば、「マンガ」になって人は笑う。しかし複数カットを断片的に積み重ねれば、人は感覚的に納得する。
これは仮面ライダーの手法

なぜアニメーションでも同じ手法を用いるか。。。。それは感覚的に人を納得させるためだと

このような飛躍を、モンタージュに頼らずできるアニメーターを軽業師と言って、例えば宮崎駿がそうだと高畑勲監督は語る。

『るろうに剣心』シリーズは、実写映画でフルショットで人物が超人的な飛躍をする。そのことを人は笑いません。むしろ、そういう演出があるのだと納得してみている。

これがいかにして可能になるのか。むろんワイヤーワークだ。
ワイヤーワークは何を可能にするか。。。香港アクションは実写映画でマンガ・アニメ的飛躍を可能にしようと発展してきた側面があると言えるか。
具体例
一方で、カットを割らずに飛躍を見せるるろ剣。。。実写的ではない。。。それを可能にするワイヤーワーク
アクション映画バカ一代P218:ドリフト走り。。元ネタはカリオストロの城
そもそも『るろうに剣心』がなぜ超人的な飛躍を見せるのか。。。。これが漫画原作の設定であもあるから。リアル志向でありながら、同時に漫画的飛躍がなければいけなかった。

その飛躍を極めて映画的、実写的な演出と画面作りで見せていくことを追求してきたのが日本アニメ。それは、実写映画的なモンタージュの引用だったはずだが、『るろうに剣心』はそこをあえてマンガ的・アニメ的な飛躍をそのまま見せることで、眩惑的なものを生み出している。

それでも本作がリアリティを失わずにいられる理由は何か。それは反時代劇的なスタイルにある。

Body2へ

 
 
Body2 時代劇のファンタジーとリアル
Body2 時代劇のファンタジーとリアル

ここでもう一つの観点から、本シリーズのリアリティを検討してみたい。日本固有の映画ジャンルであり、本シリーズにも深く関わりのある「時代劇」の視点から『るろうに剣心』の作風について検討する。

まず、『るろうに剣心』は時代劇なのか、という議論がある。大友監督は度々、本シリーズについて、時代劇という言葉から連想されるものとは異なった作品にしたかったという趣旨の発言をしている。

「『るろうに剣心』はその点、時代劇的でもなくチャンバラでもなく刀を使ったボクシング、殴り合いだと思って撮っている」(『創』2012年7月号、特集「テレビから映画へ」、P75)

この「殴り合い」という言葉が示すものは何かをまず考えた方がいいだろう。従来のチャンバラとは異なるものであると大友監督が考えているのは、この一文だけで明白だが、何がどう異なるのか。これは、本シリーズのアクション監督を担う谷垣健司氏の証言を参考にして紐解いてみよう。

谷垣氏は、大友監督はアクションシーンを、複数台のカメラを使い、長回しで取ることを好むと言う。一連のアクションシークエンスを切れ目なく演じてもらうことで、現実的な呼吸がそこに生まれることを重視する大友監督のこのやり方に、香港アクション出身の谷垣氏は、当初は「気がかり」だったそうだ。

「アクションは通常できないような動きをカットを割ってモンタージュを重ねることによってファンタジーとして成立させる」という教育を受けたきた自分としては、最初それが気がかりではあった」(『アクション映画バカ一代』谷垣健司、洋泉社、P222)

基本的には、大友組もマスターで撮影して、重要なパートをさらにピックアップして撮影することもあり、モンタージュを生かすための撮影を行っている。ただ、生っぽさを志向するという点に大友監督に独自性がある。

この生っぽさをいかに生み出すか、谷垣氏は2種類の殺陣を例にとりこう説明している

殺陣にも2種類あると自分では思っていて、それは『ドラゴン・キングダム』のジャッキーVSジェット・リーに観られるような「息もピッタリ」な殺陣。もう熟練されたプラの芸を楽しませてもらうというかね。もうひとつは「息の合わない、生っぽい」殺陣。今回は、完全に後者を狙ったわけだ。(『アクション映画バカ一代』谷垣健司、洋泉社、P228)

ここでジャッキー・チェンとジェット・リーが例として提示されているが、彼らのような熟練の専門家による格闘シーンは、ある意味、舞踏のようなもので、相手の動きに合わせて動きが決まっている。それに対して、『るろうに剣心』では、相手がこう動いたら、こう反応するということが決められていないということ。そのちぐはぐさが、むしろ殺し合いのリアリティを高めている。

時代劇のチャンバラシーンも基本的には、舞踏のように相手との呼吸を合わせて行われるのが伝統だ。

そもそも、時代劇の源流は、型を重視する歌舞伎にある。日本の映画創成期は、カットを割ることもなく、そのまま舞台の引き写したものが多かった。その際、素材に選ばれたものに歌舞伎が多かったのだ。

戦闘シーンのような激しい動きを、歌舞伎では「立ち回り」、略して「タテ」を呼ぶ。歌舞伎のタテとはどのようなものか、『殺陣 チャンバラ映画史』の永田哲朗氏はこう説明している。

タテは、見得を極度に生かして、ほとんど連続的に美しい静止態を見せる。よく大見得を切るなどというが、「見得」は演技感情の最高潮に達したとき、一瞬静止の形をとり、からだ全体、とくに眼に力を入れて睨み、その形をより強く観客に印象づける手法をいう。(『殺陣 チャンバラ映画史』永田哲朗、現代教養文庫、P12)

このように美しい状態を見せることを様式美としている歌舞伎は、「動く絵」と表現する人もいると永田氏は同著で書いている。動く絵といえば、アニメーションだが、このように見得を切る表現は動く絵である日本のアニメにも脈々と受け継がれている。

そのような見得の様式から始まった、日本映画の時代劇も黎明期には、様式が重んじられた。尾上松之助や沢村四郎五郎などの歌舞伎出身のスターが活躍した時代がこれにあたる。

その後、徐々に歌舞伎調のスローなテンポの動きでは満足できず、より「映画的」にリアルを追求する動きが起きる。

勝美は、もともと現代もののスターだったが、この作品では動いているうちに殺陣師のつけた手順を忘れて、手当たり次第にそこいらにある物を取っては投げるという滅茶苦茶な立回りをやってのけた。
ところが、これが従来のスローで型にはまった立回りに見飽きた観客にはすごく新鮮なものにうつり、大受けしたのだった。(『殺陣 チャンバラ映画史』永田哲朗、現代教養文庫、P58)

こうしたリアリズムを追求する動きと舞踏としての様式を重んじる力は切磋琢磨しながら、映画独自の殺陣の型は発展していった。『時代劇入門』で春日太一は『機動戦士ガンダム』の殺陣を絶賛しているのだが、『ガンダム』の生みの親富野由悠季監督との対談で、殺陣とは「武闘ではなく舞踏」という結論を支持している。

同著で春日氏は、時代劇を異世界ファンタジーを観るように楽しむといいということも語っているのだが、要するに時代劇というのはリアリティを追求しながらも、それはリアル(現実)ではないファンタジー性の強いものなのだということを指摘している。

その点でいうと、『るろうに剣心』というシリーズは時代劇ではないと言えるかもしれない。従来の時代劇とは違うものを作ろうと大友監督は考えたのだから、当然と言えば当然だが、舞踏として息を揃えようとせずに、生っぽく動くことを追求したアクションは、舞踏としての美しさや見事さではなく、ドキュメンタリー的な迫真性を追求している。大友監督はNHKのドキュメンタリー制作からキャリアを始めた人でもある。

アクションの作り方以外でも『るろうに剣心』は従来の時代劇と一線を画す部分がある。時代劇に限らないが、アクション映画はしばしば、フィルムの回転数をいじることがある。「スピードチェンジ」とか「コマ落とし」とか、いろいろな呼ばれ方があるが、要するに1秒24コマで動きのを基本とする実写映画で、コマ数を少なくすることで実際の動きよりも早く見せる手法をさす。時代劇では模造刀とはいえ、武器を持って大人数が動き回るので、正確に動かないと怪我をする時もある。そのため、ややゆっくり動いて正確な動きを保ち、それをフィルムの回転数をはやめることで調整するということをすることがある。その理由以外でも、達人の動きのように、役者の限界を超えたスピーディな動きを作るためや、時代劇の殺陣の様式美を磨くために、その手法を用いることがある。

たとえば、阪東妻三郎のチャンバラをこんな風に工夫していたそうだ。

カメラマン鈴木博氏も、刀をふりかぶった時は遅く、斬りおろすときははやくという風に、独特のカメラ技術を編み出して阪妻の殺陣を効果的にした。(『殺陣 チャンバラ映画史』永田哲朗、現代教養文庫、P82)

これは、アニメの作画の「タメツメ」に近い考え方だ。フィルムの回転スピードを早くしてコマを落とせば、それだけスピード感が増す。動きの瞬間を抜くことで、リアルな動きではなく創造されたケレン味ある動きを作りだすという点において、時代劇とアニメには似ている部分があるのだ。(もちろん、従来の時代劇全てがフィルム回転数をいじっているわけではないが)

だが、『るろうに剣心』はこれをやっていない。役者の動きがものすごく速く見えるシーンもあるが、本当にあの速度で動いているらしい。生身の人間の運動能力に依拠して、動きの創造をカメラで極力行わないという点で、本シリーズはアニメ的な運動の創造とは異なる、実写ならではの魅力で勝負していると言える。

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ここでもう一つの観点から本シリーズのリアリティのあり方について考えたい。日本特有のジャンルであり、本作にも関わりのある時代劇のリアリティのあり方についてだ。

『るろうに剣心』はその点、時代劇的ではない殺陣の作り方をしている。・・・アンチ時代劇。。。逆に時代劇はアニメ的なリアリティにも近い部分があるともいえる・・・言えるか
大友監督は、時代劇でもチャンバラでもなく刀を使ったボクシング、殴り合いだと思って撮っている。創2012年7月号、テレビから映画へP75
[『るろ剣』最終章、黒の剣心が意味するものとは?大友啓史監督、これまでのシリーズとの決定的な違い語る|シネマトゥデイ](https://www.cinematoday.jp/news/N0124220)
100年以上前の時代が舞台ですから、時代劇といえば時代劇なんだけれども、陰影の深い、いわゆる狭い意味での“時代劇”とはちょっと違う。シリーズ当初から僕は、『るろうに剣心』シリーズはマーベル映画のような、ある種の現代性やポップさを備えたエンターテイメント映画であって、時代劇という言葉から想像されるものとは違うものを目指そうと、スタッフに話していたんですね」

時代劇の起源を明らかにしていく。どのようなファンタジー性を持ったものかも。
歌舞伎には時代物というジャンルがある。。。。江戸以前の時代を扱ったもの
活動写真とともに始まった時代劇というジャンル。。。歌舞伎役者が活躍したこともあって、歌舞伎からの翻案が多く観られた。

演出やスタイルにおいても歌舞伎からの影響を色濃く残していた。

時代劇の代名詞である殺陣も歌舞伎からきている。
※ここは簡潔でいいのできちんと説明する。。。永田哲朗の本をもう一度借りるか

動く絵としての歌舞伎から始まった時代劇
動く絵と言えばアニメーションを想起する。歌舞伎もまた動く絵であるなら同じ動くであるアニメに共通点はあるのはとうぜんと言える。

それは非リアリズムの演出であるのが基本だ。
殺陣 チャンバラ映画史P13:歌舞伎のタテはあくまでも約束事を守った様式美本位で、映画とは違うが、映画の殺陣は歌舞伎からはじまり、その型にも歌舞伎のタテがずいぶん取り入れられている。

その後、リアルを志向する殺陣と様式美を志向する殺陣とのせめぎ合いの中で時代劇のチャンバラは発展してきた。
基本的には武闘よりも舞踏と言うべきもの。。。春日太一の本から行けるだろうか。

リアルな殺し合いとは程遠い、ファンタジーの産物である
春日太一は異世界ものを楽しむ感覚で観るといいとも語る

一方、『るろうに剣心』はそうした舞踏性からある程度離れている
もともと、大友監督の出自はドキュメンタリーにある。
アクション監督の谷垣健司氏は、動きを合わせないことでリアリティを作ろうとしていた。
アクション映画バカ一代P228 息の合わない、生っぽい殺陣
ファンタジー性、様式美の時代劇とは考えを変えている。

それをドキュメントを撮っているような生身の迫真性と表現する
引用が必要

時代劇の運動の創造
殺陣 チャンバラ映画史P82:刀をふりかぶったときは遅く、斬りおろすときは速くというふうに、独特のカメラ技術を編み出して阪妻の殺陣を効果的にした。

アニメの作画のタメ詰めのような発想に近い。フィルムの回転スピードを変えれば、コマ数を減らしたり増やしたりできる。アニメも作画演出とほぼ同じ発想。

これも『るろうに剣心』はなるべく使わない。
早回しを全くやらないわけではない。人が吹っ飛ぶ速さをいじったりしているのでは。
引きのワイヤーで大げさなリアクションを作ることで大きな飛躍を生んでいる。吹っ飛び方のアニメ的、あるいは香港映画的。。。映画を進化させる職人たち日本アクション新時代、別冊映画秘宝編集部P64:引きのワイヤー

時代劇とは言えない活劇エンタメとしてある作品だ。

 
 
Body3 実写映画ならではとは
写真の独自性は、人間の介入なしに自動的に生み出されることから来る「本質的な客観性」にあると主張(この論文は写真のインデックス性をめぐる議論でもしばしば取り上げられる)。映画はそうした写真の客観性を時間のなかで完成させたものであって、映画の美学は現実を明らかにするリアリズムであるべきだとした。

映画批評の大家、アンドレ・バザンは、映画の本質を写真の客観性に求めた。カメラは、人間の介入なしに自動的に写真を生み出す。人間の手を介さない「本質的な客観性」を有しており、映画はその写真の客観性を時間の連続性の中で構成される。ゆえに、映画は、現実を映し出すリアリズムがその本質なのだとバザンは定義した。

ここでバザンが定義した「映画」とは、イコール「実写」のことに他ならない。「不純な映画」についての議論はここでは脇に置くが、バザンの定義はやはり強力で、優れた映画とは、現実をリアリズムで迫る作品であり、たとえば彼の理想の映画とは、イタリアン・ネオリアズムの作品群だったりするわけだ。

『るろうに剣心』シリーズの、斬り合う相手と息の合わない殴り合いは、そうしたカメラの目の前の現実を写し取るという、バザンの美学にどこまで近いかはわからないが、同じ方向性であることは確かだろう。

運動の操作を意識的に行うアニメーションに対して、人の手を介在することのない運動が活写されていることが、本作の「実写化」としての大きな成功要因の一つだろう。その価値は、アニメ・マンガ的なリアリティと一つの映画で近接することでより相対としてその魅力を再確認できる。

従来、映画の本質とされたものは「実写の本質」であり、今日映画を席巻するアニメーション的な可塑性ある表現とは区別されるべきであろう。しかし、それらは、現在、このシリーズのように、ゆるやかに溶け合い同時に存在している。

なにゆえ、その2つは共存できているのか、というさらなる問いがここに成立する。

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この映画には、かように少なくとも2つのリアリティラインが存在していると思われる。生の殴り合いを記録したかのようなリアリティと、アニメのように人が飛躍するリアリティだ。

ある意味、このシリーズのリアリティラインは整っていないと言えるかもしれない。

押井守のリアリズムのラインの水準の話。。ユリイカP76を参照
例としてアニメのるろうに剣心はTV本編とOVAの追憶編ではリアリティラインが異なる。追憶編は飛躍しない。実写映画の水準にかなり近いリアリティラインだ。

漫画・アニメの実写映画化は、かならずこのリアリティラインについて腐心しなくてはならない。それこそ、アニメ制作と同水準で、ここに頭を悩ませる必要がある。

ただ、実写のレイヤーのリアリティラインにしただけでは、おそらくファンの不評を買ったにちがいない。一方で、生身の人間で飛躍ばかりさせるリアリティラインだけで勝負しても高い評価につながらなかったのではないか。両者がなぜか共存できていることに本作の成功の秘密があると筆者は考える。

大友監督は、単純に漫画・アニメ的なリアリティラインをそのままなぞる選択はしなかった。ここに実写的リアリティをぶつけることを選んでいる。

本作のどこが実写的なリアリティなのかは、すでに説明した通りだ。実写ならでは生の役者の肉体の躍動を捨てなかった。

そのようにぶつける戦略が、今後の映画における「実写ならでは」を浮き彫りにさせている。写真原論をもとにする映画の記録性というアンドレ・バザンが主張したことと同じことだ。その眼前のものを記録すること、ここに運動を創造するアニメーションとの違いであり、記録の迫真性は創造された運動とは異なる輝きを帯びるのだ。

アニメ的な飛躍する運動を、本作がCGよりも現場のワイヤーワークなどで実現することにも大きな意味があったのかもしれない。本物の肉体を機械にたよるとはいえ跳躍させることは、やはり役者への肉体の信頼に他ならないし、そこにも記録の残滓が残っているからだ。

そのような記録の残滓こそ、実写映画ではなくてはできないことなのだ。アニメーションなれではの可塑性が、実写映画を侵食する中、その最前線ともいえる、漫画・アニメの実写化企画で、堂々と「実写ならでは」の魅力を見失なわかったのが、『るろうに剣心』を稀有な成功へと導いたのはないだろうか。

創造ではない、偶発も交えた躍動。。。それをカメラに収めること。実写映画はそれをこそ活かしてこそなのではないか。アニメーション全盛の時代に、実写映画が生き残るには、より強く実写ならではにこだわるべきかもしれない。「映画的」という言葉の依拠せずに、自らのストロングポイントをよりはっきり自覚するためにも、実写とは何かを、映画とは何かから切り離し再考すべき時にきているのではないだろうか。

そして、その先には新しい「映画的なもの」が生まれるはずだ。
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前提として、その融合が成立する、観客の感性の変化
渡邊さんの議論を参照できるか。。。ユリイカP62

異なる複数のリアリズムの併存とバランス感覚
アニメ・まんが的リアリズム。。。ユリイカP74

操作可能なアニメーションのリアリズム。。。ユリイカP76
TVアニメ版の『るろうに剣心』はOVA版とTV版でリアリズムのレイヤーが異なる。

実写映画ではそうはいかないはずでもありながら、そこになんとかか座七

映画における、新しいアニメ的な瞬間。。。
アニメ的な瞬間、アニメ的なものとは何か。。。。これを考えないといけない

アニメとは運動の記録でなく、運動の創造という基本に立ち返る

確かに『るろうに剣心』には創造された運動の瞬間がある。

それがあるから、アクションにも感情が乗せられているようにもっと強く感じる?←なんで?こうは言い切れないのでは


その2つが共存できているのはなぜなのか。マンガ実写映画の成功の秘密がここにありそう

一方で、アニメーションの創造の運動ではない、生身の記録にこだわる姿勢も忘れていないのが『るろうに剣心』を特別なものにしているのでは。

それはなんだ。撮影中の偶発的なアイデアと発想か。

話の展開のさせ方もマンガにできても実写にできないことを意識している。

今、マンガやアニメを実写かするとはなんなのかを導けるだろうか。

従来の時代劇のファンタジー性を否定し、アニメ・マンガ的なファンタジー性と殺し合いのドキュメント性を融合させる試みだった。
アニメの想像力と運動の在り方と、記録をベースにした実写映画の在り方の中間的なものを目指したのがるろうに剣心』なのではないか。結果として、それはアニメーション的飛躍のカタルシスに負けないほどに、記録的な従来の実写映画の強さも健在であると示したように思う。生の肉体の躍動感は、創造された動きに負けない力強さを帯びているのだと。

実写映画は、アニメの可塑性をどんどん獲得している。最後に残る実写映画らしさとは、生の肉体の躍動が生み出す何かではないか。
創造ではない、偶発も交えた躍動。。。それをカメラに収めること。実写映画はそれをこそ活かしてこそなのではないか。
 
 
 
 
記事掲載用に仕立て直し
時代劇とるろうに剣心の距離
時代劇の殺陣とるろうに剣心の生々しいアクションの比較

Intro
るろうに剣心放送情報

実写化とは何かを考える上で重要な作品だ。
実写という言葉
マンガ原作だからこそ「実写ならでは」の魅力が浮き彫りになる作品と言えるのでは
 
 

Body1時代劇と『るろうに剣心』の距離
ここでもう一つの観点から、本シリーズのリアリティを考えてみたい。日本固有の映画ジャンルであり、本シリーズにも深く関わりのある「時代劇」の視点から『るろうに剣心』の作風について検討する。
まず、『るろうに剣心』は時代劇なのか、という議論がある。大友監督は度々、本シリーズについて、時代劇という言葉から連想されるものとは異なった作品にしたかったという趣旨の発言をしている。
『るろうに剣心』はその点、時代劇的でもなくチャンバラでもなく刀を使ったボクシング、殴り合いだと思って撮っている。(※5)
この「殴り合い」という言葉が示すものは何だろう。従来のチャンバラ時代劇とは異なるものであると大友監督が考えているのは、この一文だけで明白だが、何がどう異なるのか。本シリーズのアクション監督を担う谷垣健司氏の証言を参考にしてひも解いてみよう。
谷垣氏は2種類の殺陣を例にとり、『るろうに剣心』シリーズのアクションの方向性を以下のように説明している。
殺陣にも2種類あると自分では思っていて、それは『ドラゴン・キングダム』のジャッキーVSジェット・リーに観られるような「息もピッタリ」な殺陣。もう熟練されたプロの芸を楽しませてもらうというかね。もうひとつは「息の合わない、生っぽい」殺陣。今回は、完全に後者を狙ったわけだ。(※6)
ここでジャッキー・チェンとジェット・リーが例として提示されているが、彼らのような熟練の専門家による格闘シーンは、ある意味、舞踏のようなもので、息を合わせて動きが決まっている。それに対して、『るろうに剣心』では、約束通りに動かない時もあり。そのちぐはぐさが、かえって戦いのリアリティを高めることを志向した。それを大友監督は、ボクシングのような、相手を本当に殴り倒すような真剣勝負に例えたのだろう。
ひるがえって、大友監督が目指さなかった従来のチャンバラ時代劇は、基本的に息を合わせるタイプだ。
そもそも、時代劇の源流は、型を重視する歌舞伎にある。日本の映画創成期は、カットを割ることもなく、そのまま舞台の引き写したものが多かったが、その際、題材に選ばれたものに歌舞伎が多かったのだ。
戦闘シーンのような激しい動きを、歌舞伎では「立ち回り」、略して「タテ」を呼ぶ。これが「殺陣」の語源だ。歌舞伎のタテとはどのようなものか、『殺陣 チャンバラ映画史』の永田哲朗氏はこう説明している。
タテは、見得を極度に生かして、ほとんど連続的に美しい静止態を見せる。よく大見得を切るなどというが、「見得」は演技感情の最高潮に達したとき、一瞬静止の形をとり、からだ全体、とくに眼に力を入れて睨み、その形をより強く観客に印象づける手法をいう。(※7)
余談だが、このように美しい状態を見せることを様式美としている歌舞伎を「動く絵」と表現する人もいると永田氏は同著で書いている。動く絵といえば、アニメーションだが、このように見得を切る表現は、止め絵の美しさを重視する日本のアニメにも脈々と受け継がれている。
時代劇の殺陣は、そのような見得を基本とする歌舞伎の様式からはじまった。その後、歌舞伎の型にとらわれない独自の表現が様々な角度から模索され、独自の美学が形成されていった。
殺陣の歴史も長く、ここでその全てを説明することは難しいが、主に歌舞伎から生じた見せるための美という側面と、映像であるがゆえのリアルとのせめぎ合いの中で、その美学が磨かれていったと言っていいだろう。
殺陣とはどうあるべきかは、監督によっても、殺陣師によってもそれぞれ異なり、一概にこうだと言えない部分があるが、たんなる本当の殺し合いとは異なるものだということは言える。殺陣師の林邦史朗氏は、本物の武術は動きが地味で誰が見ても面白いものではないから、殺陣師は「その凄さを十分に納得できるように、派手な動きにアレンジする」のが仕事と自著で語っている。(※8) つまり、どんなリアリズムでいくにせよ、「見せる」ことを意識するという点で、武闘よりも舞踏に近い側面があると言えるだろう。
その点でいうと、『るろうに剣心』というシリーズは、やはり一般的な時代劇とは異なる。従来の時代劇とは違うものを作ろうと大友監督は考えたのだから、当然と言えば当然だが、舞踏として息を揃えようとせずに、不揃いに生っぽい動きで本当の殴り合いのように見せるという意識は、谷垣氏の言葉を借りると「今目の前で起こっていることを大切にする、という方針でやっていったのが逆に『作り物っぽさ』を排除できていい結果」を生んだと言えるだろう。(※9)
「今、目の前で起こっていることを大切にする」というのは、ドキュメンタリー作家のような言葉だ。実際に大友監督は、NHKでドキュメンタリー制作からキャリアをスタートさせ、時代考証を含めて現実に近い手触りのリアリズムで勝負する作品を生み出してきた作家だ。
大友監督は、「『龍馬伝』的なリアルな土壌にマンガ的なキャラクターを入れ込んでいって、それをマンガ的なタッチではなく描く」(※10)と、このシリーズについて語っている。非常に複雑な試みだ。2つのリアリティラインをはじめから相手にして、どのような塩梅で裁くのかを、入念に考えていたのだろう。この、カメラの目の前で起こっていることを大切にする姿勢こそが、「実写ならでは」の部分と言えるだろう。
 
 

Body2時代劇の運動の創造と『るろうに剣心』の違い
『るろうに剣心』のアクションは、速い。これも原作マンガの設定を踏襲するものだが、この速さを生身の肉体でできる範囲で行ったのも本シリーズの大きな特徴と言える。
時代劇に限らず、アクション映画はしばしば、映像のコマの回転数をいじって速度を上げることがある。いわゆる「早回し」というもので、本来1秒24コマのところを、1秒22コマや21コマにすると、その分、実際の動きより速く見せることができる。
時代劇では様式美が重んじられる。速く動けばそれだけ型がくずれやすいので、少しゆっくり動いてきっちりと型を守ったうえで、フィルムのスピードを速めてリアルに近づける。後は、模造刀とはいえ武器なので、速く動き過ぎて相手に当たってしまい怪我をさせたらまずいという理由もある。
たとえば、阪東妻三郎のチャンバラをこんな風に工夫していたそうだ。
カメラマン鈴木博氏も、刀をふりかぶった時は遅く、斬りおろすときははやくという風に、独特のカメラ技術を編み出して阪妻の殺陣を効果的にした。(※11)
これは、アニメの作画の「タメツメ」に近い考え方だ。アニメでも素早く振り下ろすアクションでは、間のコマ数を飛ばして動きの緩急をつけることがある。コマを操作して運動をいじるというのは、アニメーションの定義そのものと言える手法で、時代劇にはアニメに似ている部分はそもそもあったのだ。(もちろん、従来の時代劇全てがフィルム回転数をいじっているわけではないが)
だが、『るろうに剣心』はこれを基本的にやっていないそうだ。役者の動きがものすごく速く見えるシーンもあるが、本当にあの速度で動いているらしい。剣心を演じる佐藤健が屋根を全力疾走するシーンも、本当にワイヤーなしで走っている。

時代劇に詳しい映画評論家の春日太一氏は、殺陣で重要なのは「静・動・間」だと『時代劇入門』に記している。動の間に静を入れることで緩急をつけて、強く、速く、美しく見せることが大切で、その魅力がわかりやすく伝わる作品として、『機動戦士ガンダム』を例に挙げている。(※12) 日本アニメは止め絵が重要と上述したが、その止め絵の美学とチャンバラの美学は共通するところがあることを示す好例だ。
『るろうに剣心』は対照的に、合戦シーンでは止まらずに動き続ける。走りながら剣を叩き下ろすアクションが満載で、スピード重視で展開していくが、実際の殺し合いの場では、間はすなわち死を意味するので、動き続けて戦うのだという発想だと思われる。そういう必死しさを、コマの操作することなく、生々しく見せることが「ボクシングの殴り合い」に通じているのだ。
 
 

Body3「実写ならでは」とはカメラの目の前を大事にすること
映画批評家の大家、アンドレ・バザンは、映画の本質を写真の客観性に求めた。カメラは、人間の介入なしに自動的に写真を生み出す。人間の手を介さない「本質的な客観性」を有しており、映画はその写真の客観性を時間の連続性の中で構成される。ゆえに、映画は、現実を映し出すリアリズムがその本質なのだとバザンは主張した。
これは、「カメラの目の前で起こっていること」が重要だと言い換えられるだろう。カメラが写し取る現実を提示できる。そこに実写の独自性がある。マンガを実写化した『るろうに剣心』は、意外にもここを大事にしているのだ。
一方で、アニメ・マンガ的なリアリティラインを、ワイヤーワークなどを活用することによって導入してもいる。「実写ならでは」と「アニメーションならでは」が隣り合っている。とはいえ、そのアニメーション的飛躍すら、本シリーズはカメラの前で作り出しているのだ。
だからこそ、『るろうに剣心』は、「実写化」に成功していると言われるのだろう。このシリーズには、「実写ならでは」が、作り手の自覚を伴って、きちんと存在しているのだ。

 
 
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 メモ、終わり。
 
 本来の原稿から、だいぶ絞ってスリムにしてあります。色々あって随分前に書いたものを、どこにも出せずに放置していたものを、仕立て直したもので。

 原稿のポイントは、時代劇とアニメは共通点があって、『るろうに剣心』はそれを意識的に避けてる、というとこですかね。ボクシングの殴り合い、という言葉が出てきますが、様式的でない戦闘描写を目指したという点が、実写化としての成功要因ではないかなと思います。

 構成案とメモを振り返ると、かなり紆余曲折してますね。割と書くのが大変だったんで、お蔵入りにならずにすんでよかった。

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