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シー・チェン『鶏の墳丘』をどういう姿勢で観るべきか

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 中国のアニメーション作家、シー・チェン監督の長編『鶏の墳丘』を試写で見させてもらった。これで観るのは二度目。一度目は昨年のイメージフォーラムでのレイトショーでの鑑賞だった。

 率直にいって一度目の鑑賞よりも二度目の鑑賞の方が面白く感じた。おそらく、目が慣れてきたからだ。言い換えると、多くの人が日常的に観ている映像作品とは似ても似つかない作品であるということでもある。

 いわゆる実験映画とか、アヴァンギャルド映画とか、そう呼ばれるタイプの作品だと思うのだが、こういう作品は論理的に解説し難い。というより、言葉による解釈という制約から開放させることを目的にしている側面を持っているのが、これらのジャンルの作品なので、文章で紹介するということ自体が大変だ。

 この手の作品はとっつきにくいと感じる人が多いと思うので、どういう姿勢で観ると楽しめるのか、個人的な考えを書いてみようと思う。
 

【ストーリー】
ロボットは自分たちを人間と思い込み、日々、戦争をしていた——。
時は過ぎ、好奇心旺盛なニワトリの幼虫は、ロボットアーマーを装着して、世界を探検する。「自分は何者かのコピーなのではないか?」と葛藤しながら。
戦争するロボットたち、「物語」を媒介するクラゲ型装置、画家ロボットとモデルの少女、捕虜の顔に穴を開けて見世物にする管理者たち、そして「穴」と呼ばれるこの世界における神のごとき存在——。
謎に包まれた世界の真実が徐々に明らかとなる。
【告知】長編アニメーション『鶏の墳丘』(原題:Chiken Of The Mound)上映 | tampen.jpより

 
 

心理的ないし文化的な説明をいっさい受け入れないこと

 アヴァンギャルド映画を鑑賞する時のポイントは、「物語は何か」とか、「あのシーンのあの描写は~のメタファーなんだ」とか考えること自体があまりよろしくないのだと思う。

 世界の映画史で最も有名な実験映画・前衛映画はルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』かなと思うのだが、ブニュエルはこの映画についてこういうことを言っているらしい。

合理的、心理的ないし文化的な説明を成り立たせるような発想もイメージもいっさい受け入れぬこと。われわれに衝撃を与えるイメージのみをうけいれ、その理由について詮索しないこと」
3月 | 2011 | 今月の1冊|神戸映画資料館

 ブニュエルは、むしろ何の説明も受け付けない純粋な映像イメージを作ろうとしていたということだろう。言葉で解釈されたら負け、くらいの感じなんだと思われる。

 ブニュエルはむしろ、なんの説明もつかないイメージを作ろうと頑張っているわけだ。むしろ、解釈されたら負けくらいの勢いがここにはある。シュルレアリスムのダリとの共同作業で作った映画だが、シュルレアリスムは人の無意識的な領域、言葉の外のイメージに触れることで、現実認識を転覆させるみたいなことが目的であったとすれば、言葉の意味から遠ざかることが重要なわけだ。

 
 

ダンスを観るように観るのが正解か

 『鶏の墳丘』もそういう類の作品として、映像の持つイメージ喚起力を言葉に変換せずに享受することがいいのではないかと思う。ただし、人は条件反射的に映像作品を観ると、ストーリーはなんだろうとか、これはどういう意味なんだろうとか、考え始めてしまう。

 でも、これはよく考えてみると奇妙なことではないか。映画はビジュアルの表現なので、必ずしも言葉に還元する必要はないはずなのに。映像であるということは、必ずしもナラティブな要素がなくても成立するはずで、そういう物語性の逆を言って、映画表現の領域を拡大させるのが実験映画や前衛映画の狙いと言える。

 実際、映画を観る時、条件反射的に物語を探してしまうのはなぜなんだろう。例えば、ダンスパフォーマンスにナラティブな要素を求めて観る人は多くないとは思う。ダンスはもっと純粋にリズムと運動の世界だと自然にみなが認識しているような気がする。映像もそういう姿勢で観られるのではないか。

 実験映画の世界でもダンスと映画を結びつけた人がいた。マヤ・デレンは、カンヌの実験映画部門で初めて受賞した女性監督なのだが、『カメラのための振付の研究』という2分くらいの短編実験映画を製作している。

 マヤ・デレンは、映画作家であると同時に振付師、舞踏家でもあり色々な表現活動をしていたのだけど、最近見つけた論文で、この作品について掘り下げていて、非常に興味深い。気になるところをいくつか引用してみる。

 ブラニガンは、デレンの映画制作の戦略を「垂直性:物語の進行という義務の外野に存在する瞬間、イメージ、アイデア、動きの質を探究すること」・「非人格化:映像の中の人物を映画の特権であった物語から解放し、純粋な身体運動を与えること」、「ジェスチャーの様式化:物語映画に不可欠のジェスチャーを、垂直性・非人格化の作用を経て様式化すること」にまとめ、これらがデレン映画の形式であるとした。
 
 1920年代にはハリウッドを中心とした商業映画において様々な映画文法が確立されていたが、それらは映画の主要素である物語性・演劇性を表出させるためのものであった。そのような商業映画の規範に叛意を示し、シュールレアリスム運動の影響から新しい映画表現を生み出そうとしたのが1920年代ころから作られるようになった実験映画である。おしなべて実験映画の作家たちに共通することは、商業映画の主流である物語性という規律を崩し、映画のリアリズムに揺さぶりをかけようとしていることである。
 
 言語では表現不可能な抽象的な内的イメージに対して詩の限界を感じていたデレンにとって映画は理想の表現媒体であった。また、前衛映画作家ジョナス・メカス(Jonas Mekas, 1922-2019)は「マヤが映画の中でやったことは凝縮された状態や強烈さ、それに完璧さを作り上げることで、映画を詩のようにすることでした」¹²と述懐しており、詩が創作の中心概念であったことがわかる。ケラーはダンスも映画同様「詩的な形式」であり、デレンの創造理念に寄り添うものであったとしている。デレンが映画とダンスによる新しい映画表現を創ることは、必然であったといえるだろう。
ダンスとカメラによるコラボレーションの嚆矢 ─ マヤ・デレン『カメラのための振付の研究(A Study in Choreography for Camera, 1945)』作品研究 ─

 『鶏の墳丘』の編集タイミングは割と独特で、全体的に変わったリズムを刻んでいる。予告映像からもそれは多少伺えると思う。

 音の入れ方、切り方も独特だ。この「リズム感」を掴めれば、この映画は面白く観れると思う。それに気が付いたのは二度目の鑑賞時だった。最初の鑑賞時には事前情報もそんなに多くないので、どうしてもいつものクセで物語や意味を探してしまうのだが、もっとダンスを観るようなアプローチで臨むと良いということに、二度目の鑑賞では気が付けた。

 そういう風に観ると、この作品を「難解」と評する必要は無くなってくる。というか、「難解か、わかりやすいか」という物差しから開放される。この映画を鑑賞することは、映画鑑賞の「新しい生理」を獲得することにつながると思う。

 
 

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