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『オッペンハイマー』は娯楽としての免罪符だったか。ノーランの「関心領域」はどこにあったのか

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 クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』がようやく日本でも公開された。結局、ユニバーサル作品をいつも手掛ける東宝東和がなぜ配給せず、ビターズ・エンド配給になったのかはいまだに発表されてないが、とりあえず公開されてよかったと思う。観ないことには何も言えないので。

 そして、予想通りというか危惧した通りと言うべきか、日本国内での反応は、アカデミー賞7部門受賞他、賞レースでも強さを見せ大ヒットも記録したアメリカとはやはり異なっている。実際、僕自身もどう評価すべきか、物差しの持ち方は難しいと思っている。

 この映画は、イギリス人のクリストファー・ノーラン監督が原爆を落とした国であるアメリカで制作した。これは画面の外側の情報ではあるが、必ず頭をよぎってしまうことだ。

 それに、アメリカにおける原爆表象の歴史的事実を踏まえれば、上記のことは忘れて観た方がいいとも思ってない。

 アメリカの大学で原爆について教えている宮本ゆきさんの『なぜ原爆が悪ではないのか アメリカの核意識』には原爆をポップなアイコンとして表象してきたアメリカ文化の歴史について、いろいろなことが書かれているので興味ある方は参考にしてほしい。「核のセクシュアライゼーション」(P49)などは「バーベンハイマー」現象を考えるうえでも役立つと思う。
 
 

アメリカは核の威力よりも共産主義を恐れた

 まず、『オッペンハイマー』の描写のついて、良かった点をあげておく。

大戦末期の日本は敗戦濃厚で戦争終結のために原爆を落とす必要はなかったことに言及していた点。それから、オッペンハイマーが科学者として核兵器の開発に苦悩していたことが描かれていた点も良かった。そして、核兵器の恐怖は終わった過去ではなく今に続くものであるということが提示されている点は良かった。実際、核兵器はあれから世界中に拡散しているのだから。

 また、シンプルにアメリカが核開発にいたった動機を、アメリカの目線で体験できることは、「他者を知る」という点で重要なことだ。ナチスドイツも核開発を始めていたことで先んじなければ世界を危機にさらすという理屈で始まったことが描かれているが、核兵器というものを「点」ではなく、歴史の「線」で捉え、その経緯を見せたことは重要だ(だが、原爆の悲劇は「点」ではなく、放射能汚染、被爆被害はずっと続くものだという、別の「線」を示す姿勢はこの映画には欠けていた)。

 そして、当時アメリカが恐怖したものは、核兵器の壊滅的な威力よりも、ソビエトであり共産主義だったということがよくわかる内容になっているのも重要。日本人からすると、恐怖する優先順位がおかしいと思えるわけだが、事実、当時のアメリカはそうだったのだ。そして、共産主義に対する恐怖は赤狩りとなって国内を混乱させ、核の開発競争にも拍車がかかってしまったという点を描いているのも重要だ。
 
 

日本の観客は描かれなかった部分を想像で補完できる

 ここからは、日本で『オッペンハイマー』を鑑賞することについて考えてみたい。

 映画では、広島と長崎の被害について、「縞柄の服を着ていて縞状のやけどを負った」などの写真をスライドで見るシーンがあるが、その写真は示されないし、被害はオッペンハイマーの主観的幻覚で描写されるに留まる。これが国内での最も大きな批判のポイントと言っていいだろう。

 長崎放送のニュースで、『オッペンハイマー』公開当日の地元の映画館の様子を伝えていた。そこである青年の感想が印象的だった。「悲惨な映像がないことがかえってとっても印象深く感じた」と青年は言う。

 これは注目に値する感想だと思う。というのも、日本人は、特に広島と長崎の方々は、原爆の被害を映画で見せられずとも、それをよく知っているからだ。知っているから、抑制された部分は想像で補完可能なのだ。むしろ、この映画の欠けた部分を最も想像で補える観客は日本人と言っていいのではないか。

 もちろん、どこの国の観客もその隠された残酷さを想像しようとするだろう。しかし、どこまでリアルに想像できるのか。実際にどこまで伝わるのかはちょっとわからない。

 隠されたものを一番強く想像可能なのが日本人であるというのは、なんとも皮肉なことのように思える。
 
 

『アメリカン・フィクション』が描く娯楽としての免罪符

 一応、最初にこの映画の良い点を列挙したが、手放しで「アメリカは反省したのだ」と喜べるものとは思っていない。

 これは映画への批判ではないかもしれない。この映画の受容される環境への批判と言うべきものかもしれない。

 この映画は「娯楽としての免罪符」になっていないか、それを検討する必要があると思っている。

 今年のアカデミー賞作品賞候補の一つに『アメリカン・フィクション』という作品があった。これはジェフリー・ライト演じるインテリの売れない黒人小説家が、いかにもステレオタイプな黒人、犯罪と貧困にまみれた男性の物語を、ジョークと皮肉のつもりで書いたら「社会の真実を描いている」と高く評価されてしまうという物語だ。

 この作品で印象的な台詞が出てくる。「白人たちが求めているのは現実じゃない、免罪符だ」。

 社会は多様性を認め、マイノリティたちの声に耳を傾けるべきだという風潮になった。それは素晴らしいことだが、結局中産階級以上の白人は、それを娯楽として消費しているにすぎないのではないか。適度に反省できて「進歩的でアップデート」した気分にさせてくれるような作品を消費したいだけなのではないか。『アメリカン・フィクション』はそういう問題提起をしている。

 アメリカは日本に原爆を落とす必要なんてなかった。『オッペンハイマー』はそう描いたが、この映画を見に行ったアメリカ人たちの中には、『アメリカン・フィクション』が提示したような「娯楽としての免罪符」を求める人はいなかっただろうか。

 僕はこう思ってしまうのを止められないでいる。「もし、広島と長崎の惨状を直接見せる描写があったら、娯楽としての免罪符としてはtoo muchだろうな」と。

 『オッペンハイマー』の作り手がこうしたことに無自覚であるかどうかはわからない。というより、割と気づいていそうな気もする。というのも、この映画はそれに対するセルフ突っ込みのようなシーンが終盤出てくるからだ。

 赤狩りで追求されたオッペンハイマーが後年になって何か表彰されるシーンが終盤にある。そこにアインシュタイン(トム・コンティ)の言葉が重なる。「彼らは君を許すだろうがそれは君のためじゃない、彼ら自身のためだ」と。その後、エミリー・ブラント演じるオッペンハイマーの妻キティは、ある男との握手を断固拒否する。

 これまでの価値観を見直し「アップデート」したいがために、悲惨な黒人の物語を評価する白人たちの態度と、どこか似通っていないだろうか。『オッペンハイマー』はその点を声高に批判するような姿勢をとっていないが、人間にはそういう側面があると描いているとは言える。

 もう一つ、『アメリカン・フィクション』に引きつけていうなら、それが娯楽としての免罪符にしかならないとしても、この消費社会においては、免罪符として機能しなくては何も伝えることができないということも言えるかもしれない。だから、それが欺瞞とわかった上で免罪符として流通させるという態度もあり得る。『アメリカン・フィクション』の結末はまさにそういう感じだった。
 
 

ノーランの「関心領域」

 もう一つ、アカデミー賞候補作から補助線を引くなら、ジョナサン・グレイザー監督の『関心領域』だろう。(今年のオスカー候補作はこうして他作品と比較しあったり、共通点を見つけたくなるラインナップだった)

 この作品は、アウシュビッツ強制収容所の隣に暮らすドイツ人将校の家族の日常を描く作品だ。すぐ隣の施設でとんでもない虐殺行為が行われているが、家族の関心はこの裕福な生活を守ることのみ。そして、映画のカメラはそんな家族だけを写し続け、収容所の被害は一切写らない。ただ時折、遠くから悲鳴とか銃声とかは聞こえてくる。背景には、煙突から煙が出ているのも見える。

 この一家の「関心領域」は自分たちの豊かな生活だけで、隣の虐殺行為にすら関心が及んでいないそのグロテスクさを浮かび上がらせる作品だ。

 「関心領域」の範囲や方向性は人によって異なる。『オッペンハイマー』の作り手たちの「関心領域」はどこにあっただろうか。この映画にも被害者は写らない。被害者を写さないという点で『関心領域』と『オッペンハイマー』は共通しているが、制作態度はかなり異なるように思える。被害者を写さないことで加害側のグロテスクさを浮かび上がらせた『関心領域』に対して、『オッペンハイマー』は開発者の主観を描くことを選んだ。

 ノーランが広島と長崎の人々について全く関心を払っていないとは思わない。しかし、それよりも優先したことがあるのは事実だろう。

 しかし、この世界の森羅万象すべてに「関心領域」を拡げることが人間に可能だとは思えない。そして、たった一本の映画が世界全ての「関心領域」を扱えるわけもない。『オッペンハイマー』という作品は、核をめぐる日本人の「関心領域」と、他の国々の「関心領域」のズレを知ることができる作品と言えるかもしれない。

 それがズレているのは当然のことだ。そのズレを前提として、日本人はどう原爆を伝えていくのかを考えなくてはならないということなんだろう。

 僕が一番この映画で印象的だったのは、先にも言及したエミリー・ブラントが握手を拒否するシーンだ。オッペンハイマーは自分を陥れた男と握手をするが妻のキティは断固拒否。この引き裂かれた対応の違いは、日本のこの映画に対する態度のようだ。被害者を全く見せないこの映画を絶対認めない人もいるだろうし、向こうの立場をある程度理解した上で評価する人もいる。どちらの立場も倫理的にはあり得る。

 いずれにしても、自分たちの主張をしていくために、原爆に対する認識のズレを知る機会は貴重だし、知った上でどう日本人は世界に原爆を伝えていくのかを考えるべきなのだろう。
 

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