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アメリカのサイバー法の権威、ローレンス・レッシグによるソーシャル・ネットワークのレビュー

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ハーバード大学法学部教授であり、アメリカのサイバー法の権威とも云われるローレンス・レッシグのソーシャル・ネットワークに関する素晴らしいレビューの日本語訳をアップします。

翻訳にあたりレッシグ本人の許可を得ています。

オリジナルの英語記事は、The New Repulicに10月1日に掲載されたものです。

http://www.tnr.com/article/books-and-arts/78081/sorkin-zuckerberg-the-social-network

ソーキンVSザッカーバーグ

 

映画ソーシャルネットワークは素晴らしい娯楽映画だ。だがそこに込められたメッセージはある種の悪意をはらんでいる。

ローレンス・レッシグ

2004年、ハーバード大学に通う一人の学生が新しいSNSについてのアイデアを「得た」(そう、これは曖昧な言い方だ)。重要なポイントは、彼はそれを組み上げたということだ。彼は数人の非常に優秀な仲間と共に、全ての若者が愛するであろうソーシャルスペースを立ち上げた。彼はそのソーシャルスペースを彼の周囲の若者に使えるように設計し、そのシステムが常に安定して機能的に働くようにものすごい労力を費やした。それからその学生はそのソーシャルスペースを他の学校、他のコミュニティ、そして全ての人が利用できるように拡げていった。今日、全世界で5億人以上のユーザーがこのコミュニティに参加している。これは人類史上最速で成長したネットワークだ。その学生は今ではビリオネアの何倍ものビリオネアで、世界で最も若いビリオネアとして知られるようになった。

2009年、アーロン・ソーキン(TVドラマ、スポーツ・ナイトやホワイトハウスで知られる脚本家、プロデューサー)は、新しいソーシャルネットワークについての脚本を書くアイデアを「得た」(そう、さっきと同じ言葉だ)。ここでの重要な点は、彼はそれを造ったということだ。彼は普通の人々(ハーバードの学生たち)がしゃべるセリフを、かのバートランド・ラッセルやジョージ・バーナード・ショーのウィットに富んだ流麗なものに仕上げた。(私はハーバード教授だ。信用していい、ここの学生はそんな風にはしゃべらない。)このスクリプトは監督デビッド・フィンチャーによって知的で、美しく、抗いがたい魅力を持つ映画に仕上がった。あなたはこの映画を見に行くだろう。いや、見に行くべきだ。この映画のビジュアルとリズム、そしてストーリーの完成度は、映画の歴史の中においても高い地位を獲得しているだろう。

しかし、この映画はフェイスブックの物語としては、重大な欠点がある。私がこの映画を見た時、そして何が欠けているのかを熟考した時、このストーリーがいかに語られたかということの背景に、軽薄な自画自賛か何かそれ以上のものがこの映画にあることに気づいた。1790年に新しいアメリカ共和国についてのコメディの戯曲を書いたことで国王ジョージ三世から罪に問われた道化師について想像してみてほしい。そのコメディは新たな共和制を古い人間の視点から描いている。物語は有名な人物 -大きな領地を持った(といってもイングランドほど巨大な領地でも何でもない)貴族や貴族になりたい人々- が登場し面白く脚色されている。その戯曲のメッセージはこういうものだ。「恐れる必要はない。行く理由なんて無い。新世界は最高に愚かで、最悪に堕落している。」

新世界に対する評価が全て上記のようなものではない。アレクシス・ド・トクヴィルは古い世界に対して、向こう側の方がこちらの古い世界
よりも多くのものがあると云った。しかし、ソーキンはトクヴィルではない。実際、彼は単に彼が描こうとした物語の本当の秘密のソースに達する手がかりを持っていなかったというだけだ。そして彼の思い違いの悪影響はかなり入り組んだものになっている。

この映画に全体の枠組みを与えているのは二つの訴訟だ。一つはキャメロンとテイラー・ウィンクルボスの双子の兄弟によるものだ。彼らはフェイスブックを立ち上げるために、自分たちがザッカーバーグを雇ったのだと考えている。もう一つはザッカーバーグの「友達の一人」でありパートナーであるエドゥアルド・サベリンによるものだ。彼はフェイスブックの初代CFOであり、シリコンバレーのベンチャーキャピタリストによってその座を追われることになる。この二つの訴訟は映画全体を通じて、ギリシャ演劇におけるコーラスとして機能している。その他全ては裁かれるという彼らの主張は崇高な理念とは云えない。実際、この映画の登場人物の中で真に尊敬に値する人物は弁護士だけだ。ザッカーバーグに嘲笑され、侮辱された時の彼らの対応は実に真摯で、ザッカーバーグのそれよりも良いものだった。 (ザ・ワイヤーのオマーがユーモアによって弁護士を遮ったシーンを憶えている人。そうしたモノはこの映画にはない。) ザッカーバーグが罪に問われているにもかかわらず、人を喰ったような態度を見せても弁護士たちは毅然とした態度で彼に接する。ここは幼稚園で、彼らは教師だ。我々に子供の遊戯を見る時のようにウィンクやニヤケ笑いをさせようという意図なのだろう。

このソーキンの世界、要するにハリウッドのことだが、弁護士たちは全ての争いをコントロールしようとする。こうした枠組みは知っている。しかし、私がこの映画を法学部の教授として観た時、あるいはシリコンバレーに出現した新しい世界を理解するためにベストを尽くす一個人として観た時、気恥ずかしさを覚えたのは弁護士たちに対してだ。ハーバード学生の傷心(俺らのアイデアを盗まれた!)を裁くために連邦裁判が動くということが、いかに馬鹿げているとかいうことを、ソーキンは完全に見落としている。我々はこの映画を見ただけでは、この訴訟劇にそもそも法的に正当な根拠があるのかどうかわわからない。ソーキンは正直に数多くの作り話が作中にあることを認めているが、このストーリーは、この21世紀最も成功したビジネスが恥ずべきものであり、あの子供たちが6千5百万ドルを巻き上げることを、法が認めたのだと云う。ザッカーバーグは契約違反を犯したのか?多分。しかし、その損害は6千5百万ドルなどという大金ではなく、せいぜい650ドルちょっとといったところだろう。では彼は企業秘密を盗んだのか?答えは完全にノーだ。それでは彼はなにか「知的財産」を盗んだりしたのか?これもない。フェイスブックのコードはザッカーバーグが作ったものであり、ソーシャルネットワークというアイデアは特許でも何でもない。あの双子に6千5百万ドルを与えるのは公平とは言えず、このような裁定は非効率かつでたらめで、恐怖すら感じるほどの法システムの乱用だ。このシステムはイノベーションとクリエイティビティにかけられる税金だ。本当の元凶はその税金そのものであり、それに苦しめられるイノベーターが真の悪人ではないはずだ。

ザッカーバーグの前パートナーが起こす訴訟は、より強烈かつ繊細で悲しいものだ。しかしここでも真の元凶は名指されない。ソーキンはナップスター共同開発者の独学者ショーン・パーカーを悪役に据えた。(著作権産業を否定した者は血をみるのが常だ) 私は彼を直接知っている。映画の中の彼は彼ではない。そして最も汚らわしい登場人物たちは(もしソーキンがこの部分を正確に描いたのだとしても)フェイスブックの弁護士たちであり、彼らはみすぼらしくフィットしたスーツに身を包み、彼にまだ正当な権利があるように思い込ませ、不当なサインを迫った。仮にそれが実際に起こったことだとしても、これは明らかに非倫理的だ。愚かにも彼らを信じてしまったサベリンもバカだったが、ここでのバカバカしさは、エリート然とした連中を信用するとバカを見るということだ。コカインと20代の裸での乱痴気騒ぎといったようなもののために、この点が見落とされてしまっている。

しかし、この映画ソーシャルネットワークの最もイラつかせる点は、現代アメリカの法の愚かさではなく、フェイスブックの物語の背後にある真のマジックに言及することにすらしくじっている点だ。映画が完成した後行われたインタビューで、ソーキンは自身がインターネットに対して無知であると豪語している。彼の無知さが映画の内容にも表れている。それはあたかも核爆弾に関する映画が、核分裂によって起こる爆発が、ダイナマイトのそれとは決定的に違うということを描かないようなものだ。その代わり、我々は一つの大きな爆発(時価総額250億ドル。これはとんでもないダイナマイトだ)を見、その中のイノベーションが世界を変化させる様に共鳴することだろう。

ザッカーバーグの物語の中で重要なのは、彼が天才だということではない。彼は確かに天才だが、天才は他にも数多くいる。彼が社会的に体裁の悪い天才少年だということは全く重要ではない。大抵、天才とはそういうものだ。そして、彼が不断の努力によって素晴らしい製品を開発したことや、それを多くの人が愛するだろうことを見抜いた先見の銘にあるのでもない。アメリカの起業主義の歴史は、単に歴史であり、それぞれの時代のそれに見合ったテクノロジーと共に語られる。

ザッカーバークという天才を巡る物語で重要な点は、このフェイスブックがスタートしてから6年で、5億人もの人々に受け入れられた、しかもだれに許可も認可も取ることもなく(真に重要な点はここだ)、ということだ。本当のストーリーは発明そのものに関してではなく、そのインヴェンションを歌わせるプラットフォームに関してだ。ザッカーバーグはそのプラットフォームを発明していない。彼はそれを組み立てるハッカーであり、彼は賞賛を受けるべきだが、それと同じくらい賞賛されるべきこの物語の真のヒーローはクレジットすれされていない。ソーキンはそのことに気付いていない。

比較のため、マサチューセッツの別の起業家コンビを例にとろう。トム・ファーストとトム・スコットだ。二人は89年にブラウン大学を卒業した後、ナンタケット海峡上でボートを使ったデリバリーサービスを始めた。事業をスタートしてから迎えた最初の冬、彼らはジュースを発明した。人々はそのジュースを好きになった。ファーストとスコットは徐々にこれはビジネスチャンスかもしれないと気づき始めた。ナンタケットネクターはそうして誕生した。二人はそのジュースの流通獲得のための長くつらい戦いを始めた。オーシャン・スプレーが彼らの会社を買収し、その後キャドベリー・シュウェップス社が買収した。

それぞれの段階で、顧客に欲しい商品を届ける過程で、二人のトムは他人の認可を必要とした。彼らは工場を持つために製造業者から認可が必要だったし、流通業者のネットワークにいれてもらうのに彼らの認可を求めねばならなかった。さらに店舗からの認可も実際にカスタマーに彼らの商品を届けるために必要であった。最初の原初的アイデアを思いついて実際に顧客にそれを届けるまでの間はつらく長い道のりであった。彼らはそれに耐え、成功を収めた。しかし、多くの人が同じような挑戦をし、失敗を重ねている。合理的な理由がある場合もあればそうでない場合もある。

ザッカーバーグはそのような抵抗にはあっていない。彼は千ドル以下で、彼のアイデアをインターネット上に実践してみせた。そのサービスを始めるに当たって、彼はプロバイダに認可を求める必要もなかった。ハーバードの学生にそのサービスを提供するための認可も学校側に求める必要も無かった。イェール、プリンストン、スタンフォードでも同様だし、その他全ての彼が招待したコミュニティに対しても同じことが言える。なぜならインターネットのプラットフォームがオープンで自由だからだ。今日の言葉で言えば、それがニュートラル(中立的な)ネットワークであるからであり、それが10億のザッカーバーク予備軍たちに新しい開発に取り組む機会を与えてくれるものであるからだ。そしてその製品が市場に達するためには仲間たちの存在も重要であったが、このプラットフォームの上では、実現可能性を証明するためのコストは劇的に下がった。最早、あなたは自身のアイデアをインターネットでデべロップするためにザッカーバーグのようにテクノロジーの天才である必要はない。世界中のウェブサイトが最上のアイデアを補完するためにハイクオリティのプログラミングをどこからでも運んでくれる。このプラットフォームは民主的なイノベーションを可能にする。-インターネットというプラットフォーム上に出現したフェイスブックというプラットフォーム上でそれは可能になる。例えばフェイスブックの共同ファウンダー、クリス・ヒュージがオバマ大統領誕生のために最も重要なデジタル運動を組織し、映画の中のけちな悪役であるショーン・パーカーは非営利の社会活動をサポートするための最も重要なツール、Causesを組織したというような。

この映画の悲劇は、実際にこの映画を観る全ての人がこのポイントを見逃すだろうということだ。映画を観終わり外に出ようとする全ての人がこのインターネットの天才を理解するだろう。しかし、ほとんど全ての人がここでは真の天才を観ることはない。そして我々が二つの驚嘆すべきもの -ザッカーバーグとインターネット- が作り上げた製品を賞賛する時、為政者たちは、古い世界の既得権益者と共にこの素晴らしい成功が起こる条件を排除しようと企てるだろう。それゆえこの映画は悲劇なのだ。ネットの中立性が不名誉に傷つけられ、軽々しく手放されるとき、-それが政権によって守られると約束されていようとも- 明日のザッカーバーグたちが手に出来るチャンスは減っていくだろう。もしそうなったら、我々は成功が認可に依存する世界へと戻らなければならないだろう。認可の他、特権階級、インサイダーたちに成功が依存した世界だ。それは次の素晴らしいアイデアを開発していこうという魂がより少ない世界だ。

(ナイーブに、疑いも無く)私はいつもこの点が映画作家たちにとって自明のものであってほしいと願ってきた。イノベーションの分野が愚かな判決によって映画が受けてきた以上に苦しめられることのないように。大勢の監督は、彼らのクリエイティビティが訴訟起こし屋によって損なわれないように怯えながら気をつけてきた。私はずっと、彼ら映画作家がインターネットにおけるクリエイティビティの倫理観を理解してほしいと思ってきた。そこではクリエイターは直接オーディエンスに語りかけることができ、オーディエンスがステージに立ち、問いかけ返すことができる場所だ。彼らはそこから何かを得るだろう。そしてもし、彼らがその意義を理解し、その理解を映画を通じて示すチャンスがれば。確かに、私はこの映画を準備不足だとレビューの最初で非難したが、ソーキンのドラマ、ザ・ホワイトハウスのマニアである私は、全てのハリウッドのストーリーテラーの中で、ソーキンが最も理解していそうだと思っていたのに。

彼はわかっていなかった。彼の映画はその理解を示さなかった。この映画には観る価値がある。しかし、この映画は、イノベーションのための、我々の歴史の中で最も重要な社会的、経済的プラットフォームへの理解を見せなかった。

ザッカーバーグは我々の時代の正当なヒーローだ。私は自分の子供たちにも彼を賞賛して欲しいと思う。彼の名誉のため、ソーキンは彼に真の本質の部分を表すようなくだりを彼に与えた。双子の訴訟への応答の中で、彼はこう尋ねた。「本当の良い椅子を作る男が、過去に椅子を作った男に支払い義務があるのか?」そして、フェイスブックのオーナーシップを譲渡したパートナーに対しては、「お前はこの会社のトップで、お前がダメなビジネスを自分の会社で展開したという理由で、お前はオレを非難するのか?」ザッカーバーグをよく知る友人たちはこの洞察は常識であると言う。ザッカーバーグの側近は、この映画によってせっかくのブランドに傷がつくことを恐れているだろう。彼はそれら側近の言うことはあまり真に受けるべきではないだろう。私がティーンエイジャーと20代でいっぱいになった映画館で周囲を見渡したとき、正しいのが誰かを疑うものはなかった。ただ、それがいささか変で不恰好で悲しい存在だったとしても。この新世界を判断するのは彼ら若い世代だ。もしそうなら、我々はこの新世界を繁栄させ続けることができるだろう。

ローレンス・レッシグはハーバード大学法学部の教授であり、エドモンド・J・サフラファウンデーション、センターオブエシックスのディレクターです。

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