ネット上では、ずいぶん話題になったので、ご存知の方も多いと思いますが、去る8/21(日)にお台場で、フジテレビ抗議デモがありました。このデモを何と呼ぶべきか悩んだんですが、このまとめwikiのタイトルにしておきます)そして、これの取材に行ってきました。その時のツイートはTogetterにまとめられてますんで、そちらとtwilogの21日の分をご覧いただくと当日の状況がわかると思います。
プロのジャーナリストでも何でもない僕が、何でわざわざこのデモの取材に行ったかというと、この問題は日本の放送局のコンテンツ制作能力も含めて、産業全体のあり方やインターネットの生かし方など、いろんなことを考える契機になると思ったからです。あと肯定するにせよ、批判するにせよ、直接デモも見ないでものを云うのもリアリティに欠けるしな、との思いもありました。見ても見てなくても誰にでも意見を云う権利は勿論ありますけど、なるべく見た方がいいだろうと思うので。
デモの取材した上で僕の考えをまとめると、
- 2系統のデモがあって、両者は大分趣旨が異なるということ
- 公平・中立な報道や客観的な情報を求める人ががたくさんいるが、それは幻想ではないか、ということ
- やはりTV局のビジネスモデルと行政のコンテンツ政策のまずさの帰結なのではないかな、ということ
デモそのものの詳細なリポートは、当日のツイートを見てもらった方がいいし、ネット上に動画も溢れてますんで、ここでは繰り返さないでおきます。
2つのデモの違いとデモの源泉
まずこの日行われた2つのデモは、主催者も違えば、趣旨もずいぶん異なります。13:30から始まったデモは、2chやニコ動を中心に特定の団体に属さない人たちの有志によるデモ。対して2回目のデモは、頑張れ日本!全国行動委員会のデモ。主催者同士で電話連絡はしたが、連携はしていないとのこと。1回目のデモはあくまでフジテレビの偏向を問題視するという名目での開催で(こちらの動画の8分くらいから趣旨を説明してます)、主催の現地の人さんは政治的な意図はないと明言しています。(この動画の2分30秒くらいから)
2回目のデモは国を売るメディアを糾弾するという緊急国民行動タイトルになっていて、この動画の3分くらいのところから述べてますが、日本を日本で無くすための工作をフジテレビと電通が先兵となってやっていることに対する抗議というのが趣旨のようです。外国人参政権の問題や、日本合衆国を作ろうとしている動きがその背景にあるという発言もあるので、明確に政治意図のあるデモですね。乗っ取りの意思は無い、と述べていますが、一回目のデモの実行委員の中にもチャンネル桜がデモ第二弾という言い方をしていることに違和感を感じている方もやはりいたようで、参加者の中からも疑問の声も上がってます(フジテレビデモに対する考察まとめ、8.21フジテレビ抗議デモに参加して改めて思ったこと)。
一回目のネット住民の有志によるデモはきちんと組織だっていて、警備20人、医療班5人を揃えるなど、素人が組織したにしては、けっこう充実した体制だと思います。デモとしてはかなりよかったんではないでしょうか。反対に二回目のデモの方は、お台場敷地内に入り込み、罵声をあびせる人がいたり、韓国は我が国より民度が低いとか、有毒とまで云ってたり(この動画の11分20秒くらいから)、差別表現も目立ち、フジの警備員に詰め寄るなどの行動も見られました。(警備体制・医療チームが編成されていたかどうかまで調べがつかなかったので、ソース知ってる人いたら教えてください)
普通に考えると組織で運営してる方がデモ慣れしているんだと思いますが、一般有志のデモの方が組織だってしっかりやってるというのは面白いというか、変な現象ですね。日の丸旗の数も顕著に違いました。がんばれ日本主催のデモの方が日の丸の数が圧倒的に多い。シュプレヒコールにも両者の違いは現れていて、一回目のデモはあくまでフジTVに偏向を批判する内容のコールが多いのに対し、がんばれ日本のデモは、韓国の洗脳工作云々などのコールや売国フジは解体などが多いという印象。主張が違うデモが同じ日に行われたのは、端からみる側としては違いがわかりにくいので、やはり別々の日にやった方がよかったんじゃないかな。(先のビデオの最後の方で桜主催の水島さんは誤解を与えたことに対して謝罪はしています)
歴史認識や外交問題はこのブログのテーマではないので、がんばれ日本のデモはメディアやネット情報のあり方についてを議論するにはちょっと違うと考えますので、こっからは割愛します。ここからの「デモ」の記述はあくまで一般有志主催のデモを指すと考えてください。
やはり一つ思ってしまうのは、デモの主催の方の発言では趣旨はフジの偏向報道を叩く、というものであるならば、そのネタが韓流に偏っているのはなぜなのかという疑問。デモのコールにも被災地ボランティアの私的利用を批判するものや、プラカードで故・松田選手の通夜で笑っていたものを批判するものなど、別のネタも全くなかったわけではないですけど、韓流のネタばかりかき集めたのは、なぜなんでしょう。古いネタかもしれないけど、ホリエモンや村上ファンドの時も相当ヒドかったし、足利事件なんて実際に冤罪による被害が日本人である菅谷さんにでてるわけで、サザエさんの花沢さんの部屋のポスターやキムチ鍋が全世代で一位よりよっぽど重大でしょう。そうなるとやっぱりフジだけにデモするのはおかしい、という疑問が湧く。
公共の電波を独占して自分たちに都合の良いビジネスを展開するのは間違っているという主張は同意しますが、東浩紀さんも指摘するようにそれをフジTVだけの問題ではないわけですから。どうもこのデモは本音と建前が乖離しているように僕には感じられます。外国人株主保有率の問題なら(実際にプラカードもありましたが)日テレもアウトだろ、という話になるわけでしょうし、ステルスマーケティングという手法は、どの放送局でも常套手段であって、フジ特有の問題ではない。結局デモの動機の源泉は嫌韓感情に尽きるのではないでしょうか。
本当の意味で公共的な情報ってどんなものなんだろう。
Togetterの紹介文にありますが、境治さん(@sakaiosamu)のこのまとめにつけたタイトルには客観姿勢とあったのを、外すようにお願いしました。境さんのまとめなんで口出すべきかどうか迷いましたが、僕自身客観的とは考えてはいなかったのもありますし、、タイトルは全印象の相当な部分を担うものでもあるし、あえてお願いさせていただきました。それとタイトルに「客観」と入っていると、ツイートの内容やデモそのものより、僕の視点が客観的かどうかの議論に話がそれちゃうかもしれないと思ったので。実際、コメント欄を見ると僕の視点が客観かどうかに拘る方もいらっしゃるようです。
しかし、客観やら公平やら中立ということにすごく拘る方が多いのだな、改めて思いました。デモの(建前かもしれないが)趣旨もそこにありますし、あのまとめに対するコメント見てもそうですし。僕の立場はそもそも客観的な情報なんて、存在しないというもの。あらゆる情報は、人を介して伝わる以上、何らかの立ち位置とフィルターを通して発せられたものです。文章だろうと写真だろうと映像だろうと、未編集のダダ漏れライブ配信だろうとそれはかわりません。(余談ですけど、映像の主観性については、以前書いたこちらのエントリーを参照してください)東浩紀さんのこのツイートは非常に共感します。
この客観性に対する誤解や幻想については、一般の方だけでなく、TVを制作している業界人にもかなりあって、映画監督の想田和弘氏は、著書「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書) 」で次のように語ってます。
実際、ドキュメンタリー=客観的真実という誤解は、広く一般の観客のみならず、作り手にも深く根付いているので始末に悪い。特にTV局の制作現場では、未だに「客観的真実」という言葉を無批判に使うプロデューサーやディレクターを見かける。僕などは、「この人たちは自分がつくる番組が客観的真実を描き得ると本気で思っているのだなあ」とビックリさせられる。(P113)
同じ本で想田監督は、客観的真実について次のようにも書かれています。
例えば、「想田和弘という人間の客観的真実」を描くために、ドキュメンタリー作家は何を撮ればいいのか?まず「客観的真実」というからには、「想田和弘のすべて」ということだろうから、最低限24時間、365日、カメラを回すことが必要だろう。しかもカメラを何台も同時に回してあらゆるアングルから。それでも、僕が生まれてからカメラを回し始めるまでの人生は既に撮れない。あるいは、僕を生んだ両親やそのまた両親、先祖代々に何億年も遡って、「想田和弘ができるまで」を撮るわけにはいかない。また、僕の身体のひとつひとつの細胞の中で起きていることは撮れない。しかし、それらを撮らずして、「客観的真実を描いた」などと宣言するのは、片腹痛い。(P96)
仮に客観的な情報が存在するとして、それを公共の電波を有するTV局が全てやらねばならないとなると、全てのTV局が横並びに報道になってしまう。それってホントに「公共的」なんでしょうか。(この方のTogetterも参考になります)公平・中立という概念も世界がシンプルに2極化した時代なら双方の意見をバランス良く報じよう、というのもできるかもしれないですが、今の世の中はそんなに単純ではないでしょう。ということは、そもそも公平さや中立な情報を求めることは、合理的なのか?という疑問も湧きます。
結局ビジネスモデルの問題に集約されるんじゃないか
情報がマスメディアからしか発信できなかった時代には、新聞やTVに極端な偏向があった場合、それは非常にまずいことだったのですが、インターネットが普及して様々なところから情報で取れる時代に、TV局だけは広く浅く公平に情報を出せ、というのはもはや酷じゃないか、と思います。
テレビ局も生き残りをかけて新しいビジネスモデルを模索している中でフジは「韓流押し」というポジションを選択した、そういうことだと僕は解釈してます。十分な制作費を算出できずに中途半端な出来のドラマを放送するより、手頃な値段で権利を購入できる韓流ドラマの方が費用対効果が高いということでしょう。
国内ではネットに押され視聴率が低下、かといって海外に売ろうと思っても権利がごちゃごちゃしてて売れない。日経BOではこういう風な記事もありますね。
「日本は反対に、大局的な利益、国家としての利益よりも、企業レベルの知的財産権保護ばかりを気にして、契約条件は厳しいし、コンテンツ使用料も高い。日本のドラマ1本買う金で韓国ドラマが3本買える。日本は優れたコンテンツを持っていても戦略的に生かし切れていない」(これらの記事も参考になるかと。反韓流のデモの様子を、シンガポールでみて思うこと フジテレビ&韓流問題の周辺にある課題に関する雑感)
輸出もできず、国内市場ではネットに押される、だから今まで通りの予算の確保は難しい。じゃあ、どうするかっていうとそこそこ数字取れる安いコンテンツ買ってくるしかないわけです。そうすると一番手近なコンテンツはやっぱり韓流になると。
僕はフジにデモするより、国に対して行政がより上質なコンテンツを作るような政策を打つなり、放送法改正を含めた法整備するなりという要求をした方が合理的だと思います。公正な競争原理が無いせいでコンテンツの質が劣化しているということなら、電波オークションも含めて電波法の改正やら放送法の改正やらも検討されていくということになるんでしょう。
今回のデモを受けてフジテレビが編成を変えてくるかどうかはわかりませんが、もし変えてきたとしても一時的に韓流コンテンツが減っても、日本の放送局のコンテンツ政策能力があがるわけでもないので、TVにはさらに悪化したコンテンツばっかりになるでしょう。そうやって日本のコンテンツがダメになっていってる間に、韓国のコンテンツはガンガン世界で戦ってさらに洗練されていって世界市場でどんどんプレゼンスを高めていく。そんな風にどんどん追い抜かれてく方が僕は悔しいです。