最近は、原発に対するアンチテーゼ的な映画やドキュメンタリーが上映される機会が増えてきました。
それらの映画って、311以前はすごいマイナーだったんですが、鎌中ひとみ監督あたりはいろんなメディアに露出するようになってきましたね。映画以外でも飯田徹也さんなんかは、一貫して訴えてきたことが311以降は衆目のものになってきました。まだ311から一年経ってないのに、なんか僕らが原発を安全だと信じていた時の記憶はもう霧の彼方に消えてしまった感もあります。でもほんの数ヶ月前までは多くの人が原発の危険性とか信じてなかったし、関心も無かったんですよね。
でも、311以前原発がどういう風に扱われていたか、僕らがどんな風に思ってたか、そういう事を考える機会も必要でしょう。今回の東京大学情報学環主催の記録映画アーカイブ・プロジェクトの一環で行われた上映会、「原子力と安全神話ー原発PR映画を見る」という催しはその事を考えるとても良い機会でした。いわゆるプロバガンダ映画という奴ですが、最近は原発反対派の主張を聞く機会はたくさんあっても推進派の考えを聞く機会は減ってきている。せいぜい原発止めると経済ヤバくなる、という論調があるくらいで。でもそういう推進派が何を考え何を表現してきたかを知る事はとても重要なことでしょう。こういう映像のアーカイブは非常に重要な意味を持ってると思います。
どの作品もいろいろ考えさせられるのですが、全体の感想としては、やはり原子力推進は地震、津波に関しての認識が甘さがあったのは間違いない、ということです。二本目の映画では日本にはM8.6以上の地震は来ない、とほぼ断言してるし、それ以上の地震を想定していないのは明らか。地震と常にセットで語られるはずの津波に関する言及は皆無だし、今回の原発事故がある種の人災である、というのをより強く印象づけられます。これを企画したのは、日本政府の機関で原発反対派ではないですからね。三本目の鳥の視点から見る原発というのも、鳥の視点で見るという企画そのものの意味を考えてしまいます。なぜ原発を鳥の視点で見るのか。安全なら間近で地に足のついた視点で見たいものです。鳥のように上空から見れば風光明媚な原発周辺の風景。でもそこに地に足つけて見える原発は果たしてどういうものかをPR映画は決して描こうとはしない。何が描かれて、何が描かれていないのかを考えないといけないのですが、映画というのは、やはりそこに描かれた世界に観客を引きずり込む力がすごく強い。新聞などの活字媒体よりも描かれていない部分に想像力を働かせるのが非常に難しい。相当な訓練をしないと見抜けるものでもありません。だから、映像作りにはある程度の倫理観を持って臨むべきだと思います。
映像の持つ力と怖さについて改めて実感する良い機会となりました。