大晦日なので、ご多分にもれず今年を振り返るエントリーを書いてみます。
今年は何と言っても震災の年だった。震災に始まり震災に終わったかのような1年だった。きっと2011年の記憶は一生忘れない。正直3月11日以前はあまり憶えていない。3/11以前は本当に2011年だったんだろうか。
暦の上では間違いなく2011年だったんだろうが、心の中では3/11以前と以後を一緒の年にカウントできない。
昨年末12月27日に帰国して、今夏にはまたLAに戻るつもりでしたが今もまた日本にいる。3/11以前は確かに日本に「帰国」した、という感覚でいたけど、それ以降はどこか別の国に住んでしまっているようにも感じている。でもここは確かに日本らしい。みんな日本語を話すし、電車もバスも時間通りに来ている。そして何より日本的な村社会の綻びに自分も含めて右往左往している姿を見て、日本は相変わらず変わっていないようにも見える。おそらく変わったのは日本ではなく、僕の目の方なんだろう。
あの時、ソーシャルメディアは何を僕らに見せたのか
3月11日当日は池袋にいて、夜は友人宅に泊めてもらった。内容ははっきり憶えてないが友人の不謹慎な発言(たしかネットが今止まったら面白いことになるとかそんな感じ)に怒って、向こうからもキレられた。あの日はiPhoneを片手にとにかく情報を追いかけ続けて、自分でも有益と思う情報は発信し続けていた。あんなに寝付けなかった夜は久しぶりだった。次の日に昨日と同じ日本の姿があるのか不安で仕方なかった。
そのiPhone上のソーシャルメディアでは、情報だけでなくみんながみんなを助けようとする善意も一緒に流れていた。あれは本当に感動した。3/11以前には日本はゆっくりと衰退に向かうだけの国になってしまったのかと半ば諦めていた僕に、この未曾有の災害は、不謹慎ながらも日本にはまだ希望があるのだと思わせた。村上龍さんがNY Timesに寄稿したあの文章と同じことを感じてた。「This country has everything. You can find whatever you want here. The only thing you can’t find is hope. 〜 But for all we’ve lost, hope is in fact one thing we Japanese have regained.」
ソーシャルメディアは有益な情報だけじゃなく、僕や村上さんが感じた希望も一緒に運んでいた。あの絶望的な災害の状況の中、ソーシャルメディアが日本の希望を可視化してくれていた。
けどそれは違った。3月12日に原発事故が起こり、ある人は日本滅亡危機を喧伝し、別の人は心配いらない、安全だと不安がる人たちを半ば見下し気味に云い始めた。ソーシャルメディアは日本は一つでも何でもなく、元々分断されていたことを可視化してしまった。原発を巡り「科学的根拠」を示して安全だ、危険だと延々と言い合う人々。どの情報を信じればよいのか突然自分で決めなくてはいけなくなった僕らは、自分にとって「都合の良い」情報だけを信じるようになってしまった。
日本では元々情報の流通に関してマスメディアの力が大きかった。今まではマスメディアの流す情報を妄信していても僕らは生活するのに困らなかったのに、メディアを全く信用できない状態になってしまった。みんなとにかく何かすがりつけるモノ、妄信できるモノを探しているように思えた。Twitter上にはカルトに近い情報を流す人もいるが、それを信じてしまう人が大量に出てきた。マスメディア批判してネットの情報だけが真実と妄信する人も多かった。妄信の対象がマスメディアからそれぞれのモノ変わっただけ。日本は確かに変わっていなかった。
それでもソーシャルメディア上には、自分で考え行動できる人たちが生まれ始めている。まだ微かな胎動とは云え、その一縷の希望もまたソーシャルメディアは可視化してくれていることも間違いない。
僕が好きな映画の主題に「人間は追いつめられた時にこそ本性を表す」というものがある。3/11に追いつめられた日本人が本性かどうか僕にはまだわからない。けど一縷の希望を捨ててない。この国はまだやれるはずだと。だから僕も日本に留まることにした。
忘却を防ぐために僕らに何ができるのか
3/11は人類史上、最も多く記録された自然災害だろう。今でもYouTubeやFlickrでが瓦礫の山と化した町や恐ろしい津波の動画や写真を見る事ができる。
今回の災害は映像の力を改めて再確認させた。
これらの動画や写真はこれからもずっとそこにアーカイブされ、繰り返し僕らにあの時の恐怖を思い出させるのだろう。
否、案外僕らはカンタンに忘れるかもしれない。何しろ現代は流れる情報が多すぎる、これからもっと加速度的に増えていく。それでなくても日本人は忘れっぽい。喉元すぎれば熱さを忘れてしまうのは日本人の得意技の一つ。津波の恐怖も原発事故の恐怖も情報という津波に流されてしまうんじゃないか。
三陸地方に建てられた石碑は、津波の恐怖を警告し、それより下に家を建てるべきじゃないという教訓を後世に伝えるために建てられた。でも僕らはいともカンタンにその事を忘れた。当時、その石碑を建てた人たちは、日本が近代化という波に飲まれてしまうことを予見できずに教訓を伝えることに失敗した。
僕らも同じ轍を踏むだろうか。地震の恐怖、津波の恐怖、原発。。。世界には人知を超えた何かがあり、全てを想定しきることは不可能だということを身を持って知った僕らは、そのことをやはり風化させてしまうだろうか。
そうさせないためには何が必要だろうか。
311まるごとアーカイブス @311archives という運動がる。10月に岩手県遠野市でシンポジウムがあったのだが、僕もそれに1オーディエンスとして参加してきた。そのシンポで会場からこんな発言があった。アーカイブスとして残していくだけでなく、この体験や記憶をいかに文化として引き継ぐのかが大事なんじゃないのか、と。
そういえば僕は、僕が生まれていない時に起きた悲劇を知っている。原爆の悲劇を知っている、ホロコーストの悲劇も知っている、中世ヨーロッパの魔女狩りの悲劇もネイティブアメリカンの悲劇もなぜか知っている。そんな直接体験したわけでもない、この目で見てきたわけでもないことをなぜ僕は共有していて、そこから何かを学んだりしているのか。
それは被爆国たる日本やユダヤ人、自分たちの歴史の過ちを自己反省する欧州人やアメリカ人が、文学・伝承・芝居、または映画を通じて文化として後世に残そうと努力した証しなんだろうと思う。
そうやって洗練された物語は、どんなリアルな記録映像よりも雄弁に何かを語り、それを観る人たちに何かを教えるだろう。
本当に意味で「残す」というのはそういうことなんだと思う。動画や写真をYouTubeやFlickrに残すだけで、残したって云えるんだろうか。
その本当の意味での残すという作業にこそ映像メディアの役割があるのだと思う。