失われた文明へのリスペクトを十分に持ちながら、この映画はそれだけに留まらない。
2部作合わせて4時間36分の台湾の超大作映画『セデック・バレ』は、20世紀初頭の日本統治時代の地元原住民の最大級の武装蜂起「霧社事件」を描いた作品。セデック族のマヘボ社の頭目モーナ・ルダオは勇猛果敢で恐れられる頭目であったが、日本軍に土地を占領されること30年、十分に日本軍の強さを理解していた彼は、自ら日本軍に歯向かう事はしなかった。しかし社の若者を中心に統治への不満は溜まる。そんな社のまとめ役として双方の間に立ち続けるルダオもまた民族の存続と誇り、どちらを守るべきなのか苦悩していた。ある日、日本人警官の横暴により、セデック族の若者たちの怒りが爆発。ルダオもまた長らく押さえ込んできた怒りと民族への誇りを燃やし、遂に武装蜂起へといたる。運動会場を襲撃し、武器を奪い、深い山の中で徹底したゲリラ戦を仕掛けるセデック族の男達の壮絶な戦い。死んだら虹の橋の向こうで会おうを合い言葉に次々と倒れていく男達。女達の嘆きをよそに。。。
この映画は、民族の誇りと美しさを存分に描きながらも、それでもなおそれらを人間の業として描いている。その力強く、誠実で、成熟した眼差しに圧倒される。
この映画は失われた文明を描く作品だが、例えばインディアンと白人の交流を描いた「ダンス・ウィズ・ウルブズ」や侍と白人の交流と誇りをかけた戦いを描いた「ラスト・サムライ」とは違い、失われた文明を過度に現代の感覚で見直して、美しく描こうとはしていない。
監督のインタビューから、そうした姿勢をなるべく抑制しようとする姿勢が見て取れます。
『セデック・バレ』ウェイ・ダーション監督インタビュー – レポート
━━━━霧社事件のことを詳しく知る中で、どんな想いを膨らませていったのですか?
衝撃を覚えたり、激しい抵抗に対して血が沸き上がるような想いもありましたが、細かい部分を知るにつれ、単なるヒーロー物語では済ませられないと思いました。事件を境にして10年前や10年後のことを加味して考え、事件の背景や本質、政治や経済問題、社会制度的な問題も調べました。また、事件から生き残った子孫たちを訪ねてインタビューを行い、一つの角度でこの物語を捉えることができないと気付いたのです。<中略>
昔の事件を見たときに、その当時の人々たちの考え方や気持ちにたって物事を見ることが大事です。(原住民族たちは)教育を受けておらず、世界がどれぐらい大きいか分からない。その部落にしか通じない信仰を持ち、その部落こそが世界と思っている人が、このような衝突にぶつかったらどうしますか?この前提は非常に大事です。もし世界が(もっと大きいと)分かっていれば、物事が起きたときに自分で考えられましたし、解決できたと思います。
部族の誇りにかけて、男たちは武装蜂起を決意するのですが、対照的に女たちはそうした男たちの行為を嘆き悲しみます。第一部のラストカットは戦場となった運動会場に多くの死体が転がる中に叫ぶように泣く女性を写して終わります。ラスト・サムライでは誇りをかけた一斉蜂起を美徳として描いていましたが、この映画は、その誇りに悲しまされた人々がいることも忘れていない。
日本軍と原住民との関わり方も変なバイアスがかかっていないように感じます。日本はたしかに占領統治の中で酷い行いもしたが、良い影響も与えていたことをちゃんと押さえている。
「大和民族が100年も前に失った武士道を台湾で見るとは」と感嘆する日本軍少将のセリフもあるが、この物語には日本人になじみやすい感性がおおく含まれています。
侵略にはどうしても暴虐がつきもの。占領したのが日本軍であろうとなかろうと、こうした問題は起きたのだろうと、製作陣の冷静な視点も感じさせます。
ベネチア国際映画祭での上映ではこの傑作を2時間半にまとめさせれての上映でつらい思い出だそうです。
2011年のヴェネチア国際映画祭でワールドプレミアを迎えたのですが、4時間半のフルバージョンもまだ編集途中という状況で、映画祭側から2時間半に編集するよう求められたんです。via: 『セデック・バレ』魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督インタビュー:一番最初から撮りたかったのはこの映画でした映画と。
かつて芸術性を重んじる映画祭として有名だった同映画祭の最近の変質はなんだかなあ、と思っていますし、この作品が2時間半とはかなり乱暴だなと思います。本当にもったいない。
しかし、日本ではフルバージョンを見ることができます。これは本当に幸せなことです。
民族の誇りを描き、それでもなおあの蜂起は蛮行であったと描く。個別の事情を超えて人の歴史はこうなのだ、ということをこの映画は描いたのです。
すごい、本当にすごい傑作です。
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