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映像は事実を記録するとともにウソをつきます

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独り言です。別にフジテレビの某番組について書くわけじゃないです。まだ事実かどうかもわからないし。(自粛ということは事実だったって考えるのが妥当なんですかね)書こうと思ったきっかけはそれですけど。きっかけはフジテレビ。

映像という表現媒体は、カメラの前に映っているものをそのまま切り取って提示する、と思われていることから事実を提示するのに最も適した表現方法である、と思っていらっしゃる方が割と多くいらっしゃるように思います。

しかしながら、多くの人がそう思っているからこそ、実は巧みに嘘をつきやすい表現方法でもあります。
映像の演出テクニックは、ぶっちゃけいかに上手く嘘をつくかを発展させてきたと言っていい。端的にわかりやすいのはCG技術でしょうか。あれはそこに存在しないものを生み出したり、ぱっと見わからないように修正したりする技術です。ようするにないモノをあるように見せるための技術。

CGまで行かなくても映像で嘘をつくのは以外と簡単。代表的な例は編集。映像編集の基本はカットとカットをつないでつないでいくこと。編集のことを「切る」と業界では言いますが、それはたくさんある映像素材を切り落として厳選するということです。

編集の代表的なテクニックに「モンタージュ」がありますが、これは異なる2つの映像をつないで、それらに映っていない何かを連想させ表現する手法。
映像の例をすぐに持ってこれればいいのですが、以下のリンクの男性の写真がわかりやすいでしょうかね。
編集 01 編集とは何か | EDIUS.jp(エディウス.jp)

男の写真は全く同じものですが、間に挿入される写真が違うだけで、男の感情は全く別物として表現されます。これがモンタージュですね。
ここで使用された男は、実際にはどちらの感情を持っていたんでしょうか。もしかしたら、2つもと違って全く別のことを考えていたかもしれません。
モンタージュは映像と映像のつなぎだけに適用されるものではなく、映像と音の組み合わせによっても成立します。

豊かな映像表現には欠かせないテクニックですが、これは使い方を誤れば感情のねつ造も可能なテクニックです。

さらに言うなら、カメラとは単一方向にしか向けることのできないもので、右側を撮影しているということは、左側を撮影しないということです。何かの一方向を見せる=他の方向を見せない、これがカメラの基本です。何かを写そうとすると、別の何かを写さない決断が必要になります。撮影した段階で実際の現場にある情報のいくつかはこぼれ落ちています。

そうして撮影した素材をさらに編集段階で切っていくので、事実はもっとそぎ落とされていく。そうやって映像は基本的に作られます。時系列も並び替えたりします。その方がわかりやすく伝えやすい場合もありますし。

映像は目の前の事象をありのままに記録しますが、さまざまなテクニックの発達もありウソをつくのが容易になってきているのです。なぜそんな技術を発達させてきたのかというと、だらだらとありのままを加工しないで垂れ流す映像は人を疲れさせるだけだからです。もうひとつの理由はカメラは一方向の事象しか写さないから、もし多角的に事象を捉えて提示したいなら、編集するしかないからです。
1カットの映像でもし突然逆方向にカメラを向け始めたら、きっと映ると不都合なものがこれから始まるところだったんだな、とか思ってみたりとかされちゃうかもしれませんねえ。

映像はそんな感じで、突き詰めると、とても嘘のつきやすい表現方法です。意図的にテクニックを用いてつく嘘もあれば、結果として意図せざる嘘になってしまう時もあります。

映画評論家の佐藤忠男氏は、映像の嘘には3種類あると自らの論文「視聴覚教育の問題」で述べています。論文そのものをネットからは見つけてこれなかったのでそれを引用している別の著書から引用します。こちらは玉川大学の山口榮一氏の著書「視聴覚メディアと教育」から。

映画評論家の佐藤忠男は「視聴覚教育の問題」という論文のなかで、映像の教室での使用について上記のような視点から次のように述べています。それは、記録映画は間違っていないという前提で教室の教師は教材としているが、これには嘘が隠されていることがあるという点に目をむけなければならない、ということです。
この嘘にはいくつかあって、ひとつは「最初からだますつもりでつく嘘」、もうひとつは「間違いを間違いと知らずに結果としてつく嘘」、そして、最後に事実をさらに事実らしくみせるために使う「やらせ」という嘘です。
 たとえば、14、15歳の少年たちを満州に送って開拓させることを宣伝する満豪開拓義勇軍の映画がありました。その映画で、沃野に爽快にクワをいれれいる少年たちの映像は叙情的でもありましたが、しかし、そのクワを入れている土地は沃野ではなく、中国人を追い払った土地であることは隠されていました。これは、不利なことは意図的に隠し、見せないという点において、第1の種類の嘘だということになります。それに対しての第2の嘘は、映像の作り手が映像をつくることに対してだけ専門家であって、それ以外のことには素人である場合に起こるものだ、と言います。たとえば、戦時中の記録映画で、映像自体は事実です。しかし、自分の視点から強引な解釈を行うことによって、結果として軍国主義の宣伝となってしまった場合が、第2の嘘を引き起こします。第3の「やらせ」という嘘は、映像の作り手が、もっと真実らしく見せるために行うものであり、それによって説得性は高まるものの、それが事実そのものではない、ということを伝えない点にあります。
こうして彼は視聴覚教育を推し進めるためには、「第一は、嘘のない作品を作る努力をすること、第二に、映像の嘘を見破る眼を養うこと、第三に、嘘を単に否定的なものととらえるのでなく、創造的なフィクションの問題として理解しうる見方を養うこと」の必要性を述べています。

(太字は僕が足してます)

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昨今問題になっている某局の某ほこ×たて番組で今疑惑を持たれているのは3番目の「やらせ」で、もし事実なら「終わってんな」という感想しかありませんけど、あとの2つの嘘は表現の本質にもかかわる話です。第1は意図的に見せないことによる嘘。ただ見せないことによる嘘はカメラや編集の性質を考えるとやむを得ず起こったり、意図せずして起こってしまう時もあります。

第2の嘘についても、人はできるだけ様々なことを学んダ上で表現活動を行うのが良いに決まっていますが、複雑な現在社会であらゆる多様性を網羅できる人間もいませんから、自然と起こってしまう嘘と言えるかもしれません。

佐藤氏の挙げる視聴覚教育の3つの柱(太字で示した部分)が重要なのは今日のメディアリテラシー教育が重要、という言説と同じベクトルですが、第三の嘘を創造的なフィクションとして捉える、という点は僕はこのように解釈します。
映像作品は、劇映画やドラマだけでなく、ドキュメンタリーやニュース、バラエティなど様々なタイプがありますが、すべて事象の断片的切り取りであることは共通しています。ですのでここでいうフィクションとはジャンルとしての劇作品ではなく、事象の再構成であるあらゆる映像作品についてあてはまるものと考えてます。
ドキュメンタリーであれば、なぜその方向からからの切り口で何を見せて、何を見せていないかを想像して、どういう立ち位置の作り手が立っていたのかを考え、そのポジションを理解すること、ですかね。ニュースなども同じ。

意図的な嘘(演出)も意図せざる嘘(無知や未熟さ、または思想的立ち位置)も内包してしまうのが映像というメディアなんですよね。そもそも映像とはそういうものだ、という前提で映像メディアに触れなければいけないと僕は思ってます。
映像リテラシー教育ってホント日本ではやりませんしね。これだけイメージが氾濫している世の中になったのだから、読み書き計算能力レベルで必須能力じゃないかと個人的には思いますが。

まあ、「やらせ」は論外ですけど。
【追記】
ほこxたて、当面自粛だそうです。
フジテレビ、「ほこ×たて」の放送取りやめ 当面は自粛 – ライブドアニュース

映像の嘘問題に関しては、この森達也さんの本はなかなか考えさせられます。

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ついでにこれもなんとなく貼っておこうか。映像の嘘を踏まえた上で見ると興味深い作品です。

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