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映画「凶悪」レビュー、ジャーナリズムと私的制裁の境界線

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主要3キャスト(山田孝之、ピエール瀧、リリー・フランキー)の芝居が話題となっている本作。本作のテーマはジャーナリズムとは何か、ということになるだろうが、原作と映画で大きく違う点がある。それは主人公の藤井の家族関係の描写。このアレンジによってこの作品はストレートにジャーナリストの矜持を描くものではなく、極めて現代的な情報によって人を裁くこととはどういうことなのかを問いかける作品になっている。

ある日、週刊誌の編集部に死刑囚から一通の手紙が届く。記者藤井はその死刑囚に面会し、自分がかかわった、明るみにでていない3件の殺人事件と事件の首謀者である黒幕について聞かされる。編集長の制止にもかかわらず一人でこの事件を取材し続ける藤井はやがて死刑囚の証言が事実である確証をつきとめ、記事にする。記事を受けて、警察がうごき黒幕である先生は逮捕された。これが本筋のストーリー。
一方で藤井自信の家庭のイザコザが対置される。この夫人の家庭のエピソードは映画のオリジナル。これをわざわざ子供のいない藤井一家は実の母と奥さんの3人くらし。母親はアルツハイマーを患っており、妻は藤井の母の看護に疲れ果てている。老人ホームに入れようという妻の提案を藤井はずっと先延ばしにしていた。やがて母の症状はひどくなり、妻に手を上げるようにすらなる。それでも藤井は実の母を施設に入れるのは、肉親を見捨てるような気がして気がすすまない。事件を追う過程で保険金目当てに年老いた実の父を先生に売る一家も出てくる。藤井はそんな家族の一員を見捨てざるを得ない悲惨な家族をも見てしまっている。
藤井は事件の真相に近づいていくが、それと時を同じくして家庭の問題も深刻化し続ける。母を殴るようになってしまった妻は夫に「あなたはいつも重要な問題から逃げている。あなたは(真相を追いかけることが)さぞ楽しかったでしょう」と言い放つ。
藤井はこれがジャーナリストの魂ゆえの行動だと主張する。どちらが正しいかは映画を見る観客にはわからない。あるいは両方正しいのかもしれない。社会悪を断罪することは楽しい。その感覚はもしかしたら、ネットで不祥事を制裁する者たちにもある感覚ではないか。このジャーナリストの魂とやらは、そうした感覚と果たして何が違うのか。

先生を見事有罪に追い込んだ藤井だが、全ての事件が明らかになったわけではない。映画のラスト、藤井は先生に面会に行き、彼にまだほかにも知られていない事件があるはず、まだ取材を続けると伝えた。これに対する先生の答えが面白い。
「あんたがそう言うならそうなんじゃない?」と。

さらに先生は最後に藤井に対してこう言う。「俺を一番殺したがっているのは被害者でも須藤(告発した死刑囚)でもない。あんただよ」と。

直接被害にあったわけでもない藤井が先生の死刑を誰よりも強く望む。そんなことがあるのだろうか。もしあるとすれば、それはなぜなのだろう。

私的制裁が今、ネットでは問題になっている。ネットで話題になった社会悪に対して個人を特定し、社会的制裁を与える行為の問題を多くの論者が憂いている。
インターネットと「私刑化」する社会(藤代 裕之) – 個人 – Yahoo!ニュース

ネットで私的制裁を加えようとやっきになる人々の多くもまた、直接の被害者ではない第三者だ。彼らはなぜ悪事を働いた(彼らが叩く事件の中にはどうでもいいようなものも多く存在するが)者たちに制裁したがるのか。それはジャーナリズムの矜持のようなものなのか、それとも「楽しいから」なのか。

プロとアマの境界線が急速に揺らぐ2013年にこの映画を公開するにあたり、硬派にジャーナリズムの在り方をうたう原作に対して、絶妙なアレンジを加えたと思う。
このアレンジによって生じる主人公の両義性は今考えるに値するテーマだ。

メインの3人の芝居は大変素晴らしい。特にリリー・フランキーはその悪びれない体裁で悪事を平然と行うさまで強烈な印象を残す。今年の助演男優賞絡みの賞を総なめするんじゃなかろうか。

原作本はこちら。映画よりも事件の背景や詳細がよくわかる内容で大変読み応えあります。

凶悪―ある死刑囚の告発―
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