とあるデパートの催事場で障害者施設の人たちが手作りで作った工芸品を売っていた。客を呼びこむための館内放送でこうアナウンスをしていた。
「障害のある方たちが、一生懸命作ったものばかりですので、ぜひお買い求めください」
なんだか、上から目線だなと感じた。一生懸命作っているのは本当なのだろうが。ただ、通常消費者は、商品を購入する際、一生懸命作ったかどうかよりもそれが良いものかどうかで購入を判断するだろう。上記のアナウンスにはその視点が欠けているように思えたのだ。障害者の作ったものだから、大したものではないけど、一生懸命作ったものだから、買ってください、というような。
ドキュメンタリー映画「DOGLEGS」は上のアナウンスに違和感を感じる人は多いに楽しめる作品だろう。逆に障害者が一生懸命に作ったんだから買ってあげようとか思う人は目を背けたくなる作品かもしれない。
本作は、25年の歴史を持つ障害者プロレス団体「ドッグレッグス」のドキュメンタリーだ。同団体はかつて「無敵のハンディキャップ」という題名のドキュメンタリー映画が作られており(天願大介監督)映画化はこれで2度目である。今回の内容は、旗揚げ以来の看板選手であるサンボ慎太郎の引退をかけた試合を中心に障害者プロレスに関わる様々な人間模様を追いかけたものになっている。慎太郎と共にドッグレッグスを立ち上げた健常者のアンチテーゼ北島(北島行徳)、女装癖がありアルコール中毒かつほぼ前身に麻痺がある愛人(ラマン)と健常者であるその妻・ミセス愛人(ラマン)、そして二人の間の子供の遥という大賀家の面々。さらに大賀家で愛人(ラマン)の介護をする鬱病の中嶋有木氏など個性的な面々が続々と登場する。障害者プロレスは障害者同士の戦いだけでなく健常者対障害者のカードもある。体格の面で明らかにハンデがある障害者と健常者の戦いは一方的なものになりがちだ。健常者が障害者を一方的に攻め立てる凄惨な展開になることもある。常識的に考えれば勝てるわけないのである。しかし、それでもサンボ慎太郎はリングで健常者と20年間対峙し続けてきた。
「障害者の一生懸命な姿」を見せたいからではない。人生は挑戦することに意義があるなどというキレイゴトでも言い表せない。リングの上に彼は人生をかけているのだ。
どうじょうの、はくしゅは、いらない
「・・・・・・・ぼくは、うたがへたなのも、しばいがへたなのも、じぶんでは、わかっては、いるのですね。でも、おきゃくさんは、はくしゅをくれます。なにか、どうじょうの、はくしゅみたいで、いやなのですね」(文藝春秋刊「無敵のハンディキャップ」北島行徳著 P16より)
サンボ慎太郎こと、矢野慎太郎は19歳の時、障害者と健常者が交流する目的のボランティアグループの劇団でミュージカルに出演していた。上の発言はその時のものだ。そのミュージカルを見た北島行徳は、ミュージカルのお客さんが養護施設の職員などの関係者ばかりであることに疑問を感じていた。障害にもめげずに清く、正しく、美しく生きている障害者たち。そんな世間のイメージは逆に障害者に対する理解を狭めているのではと考えていた北島は、慎太郎が他の障害者とボランティアの女子大生を巡って取っ組み合う様を見て、障害者プロレスというアイデアを思いつく。女の奪い合い(しかも彼女にその気は全く無いどころか、しつこい二人に嫌気がさしていなくなってしまった)という、妙に人間臭いきっかけで障害プロレスは始まった。
記念すべき1回目の興行の観客数はわずか5人。ゴングは鍋でリングは床に絨毯を敷いただけの簡素なもの。それが最盛期には300人の会場を満員にするまでの人気を博すようになる。
ドッグレッグスは後味の悪い面白さを見せる
障害者が体を人前にさらし、命懸けで闘う。それは、障害者について思考停止状態になっている健常者たちにとって、理解し難い衝撃を与えるはずだ。(「無敵のハンディキャップ」P43より)
ドッグレッグスの試合は、時に観客がしかめ面や悲鳴を上げるような展開になることもある。設立当初は他のボランティア団体から「障害者を見世物にするな」と大きな非難を浴びたりもしている。実際に観客からも「見てはいけないものを見てしまった」という感想を聞かされたこともあるようだ。そんな観客に北島は「それは後味の悪い面白さ」なんだと言う。
「清く、正しく、美しい」ものは後味が良いであろう。しかし、そんなイメージは世の中に溢れかえっている。その時は感動するかもしれないが、次の日には別の清く正しく美しいものに取って代わられ、綺麗サッパリ忘れてしまうのではないか。だがドッグレッグスは後味が悪い。だからいつまでも頭にこびりついて忘れられない。そこから障害者への本当の関心が生まれる。
健常者対障害者の試合というアイデアもそれを突き詰めたものだ。
健常者レスラーが障害者レスラーをいたぶるところを見せつけ、何でそんなことをするのかと、観客を怒らせるのが目的だ。そして、その上で逆に問いかける。
ならば、お前たちはどうなのだと。
現実に傷ついている障害者に対して、お前たちは今まで何をしてきたのだ。ただの傍観者ではなかったのか。目の前で障害者が殴られているからと言って、傍観者にとやかく言う権利はないはずだ。日頃しているように、黙って障害者が苦しむのも見届けるのだ。(「無敵のハンディキャップ」P97より)
一見するととても悪趣味な考えともとれる。しかし、本当に健常者と障害者の間に溝のない、バリアフリーな社会があるとすれば、健常者と障害者が戦っても問題はないはずだ。しかし、健常者と障害者は違うのだ。にもかかわらず建前では平等をうたう。その矛盾に苦しめられてきた障害者を目の当たりにする機会は、多くの健常者にはないし、その現実は多くの「善人」にとって見たくない現実だろう。健常者対障害者の戦いはそういう現実をまざまざと浮き彫りにするものだ。
20年間本気でぶつかり合うことができる信頼関係
サンボ慎太郎とアンチテーゼ北島はこれまで何度も戦っている。サンボは一度もアンチテーゼに勝てたことはない。初めて戦った時も一方的にやられた。そして勝った方が引退できるというルールで臨んだ最後の戦いでもサンボは、一方的に敗北した。健常者であるアンチテーゼ北島が障害者であるサンボ慎太郎に馬乗りになりながら顔面パンチを浴びせる姿は見ていて気持ちのいいものではない。これがリングの上でなければいじめにしか見えないだろう。しかし、北島も決して楽しい思いばかりでそれをやっているわけではない。初対戦の時の思いを著書の中でこのように述懐している。
さすがに胸が痛んできた。しかし、ここで力を抜いてしまえば、もとのもくあみだ。こんな思いをするのは覚悟の上ではないか。
障害者と健常者は違うという現実から、目を背けてはならない。綺麗な言葉や優しい態度で、障害者との関係をごまかしてはならない。それを教えてくれたのは慎太郎だった。将来への不安の重さに耐えきれず、ボランティアセンターの暗い和室で、うずくまり震えていた慎太郎の姿が脳裏に浮かぶ。思えばあの光景に遭遇し、慎太郎の悩みから逃げないで向き合おうと心に決めた時から、こうして闘うことは決まっていたのかもしれない。(「無敵のハンディキャップ」P115より)
そんな思いでアンチテーゼ北島はサンボ慎太郎を叩きのめしてきた。サンボ慎太郎も毎度簡単にはギブアップせず限界ギリギリまで戦い続けてきた。この2人はそんなことを20年も続けてきたのだ。どれだけの深い信頼があればそれはできることなのだろう。本気で戦わなければ、本気の信頼は生まれないのだ。本気で信頼しているから、本気でボコボコにできるのである。
目を背けたくても背けられらなくなる
この映画には多くの人にとって見たくないものが映っている。しかし、ひとたび劇場の暗闇の中でこの映画が始まってしまえば、あなたは目を背けたくても背けることができなくなるだろう。彼らの「本気」の姿にあなたの目は必ず釘付けになるからだ。
清く、正しく、美しく– 障害者に対してそんな固定観念を持っている人にこそ、この映画を見て欲しい。見終わった頃にはあなたの価値観は大きく変わっていることだろう。
そして映画を見て、価値観を揺さぶられた人は、4/23(土)の北沢タウンホールで開催されるドッグレッグスの興行に行ってみてはいかがだろうか。
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