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『サウルの息子』ソフトフォーカスの向こうに広がる地獄

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映画は四角いフレームによる表現だ。そのフレーム自体はとても狭いものだが、優れた映画はフレームの外と奥に無限に世界が広がっていることを観客に想像させる。素人はついつい狭いフレームの中を作りこめばOKと勘違いしてしまうが、観客の想像力を刺激して世界の広がりを想像させるテクニックが映画の演出なのだ。映画はその狭い画面に映っているものが全てではない。観客が想像する、フレームより広く深い世界もその映画の一部なのだ。

2016年のアカデミー外国語映画賞の本命と言われる「サウルの息子」は全編にわたって、このフレームの狭さを活かして世界の広がりと奥行きを観客に想像させる。しかしそれは大変に恐ろしい想像である。人によっては途中で想像することを放棄してしまいたくなるかもしれない。

本作の主人公サウルは、アウシュビッツ収容所でゾンダーコマンド(ナチスによって選ばれた、収容所で死体処理などの任務にあたる部隊のこと)として従事している。ある日、ガス室で死体処理をしている時にサウルは、自分の息子を発見してしまう。ユダヤ教では火葬は禁忌とされる。息子を正しく弔ってやるために、サウルは収容所内を奔走しラビ(ユダヤ教の聖職者)を探し、土葬してやろうとする。同時に収容所内ではユダヤ人たちが生き残りをかけた脱走計画が進められている。皆が生き延びるために命がけで戦おうとするなか、サウルは一人死者を弔おうと収容所をさまよう。

ソフトフォーカスの向こうに広がる惨劇

本作は全編に渡ってカメラは主人公サウルのクローズアップを捉え続ける。画面に大写しになるのはほとんどがサウルの背中か顔である。(ちなみに本作は今では珍しい1:1.33のスタンダードサイズの画角を採用している)サウルの肩越しにアウシュビッツの収容所内が映っているのだが、そこにカメラのフォーカス(ピント)があたることはほとんどない。ガス室の中に大量の死体が転がっているのがぼんやりと見える。ぼんやりとしか見えないので、かえってその凄惨さが頭の中で広がる。
遠くで銃声が鳴り響くが、その音の出元がカメラに映されることはないし、サウルもその程度では表情ひとつ変えない。それがこの収容所の日常なのだろう。脱走計画の一環で武装蜂起が始まるとあちこちで戦闘が起こり、次々と収容所のユダヤ人が殺されていくが、それもソフトフォーカスの「背景」としてしか提示されない。しかし、映画を見ながら一体どれほどの血が流れているのかを想像せずにいられない。うすぼんやりとした背景のなかで人影がバタバタと倒れていく。その悲惨な状況の中、サウルは一人ラビを探し続ける。その様子をカメラは彼の真後ろから追いかける。

プレスシートのディレクターズ・ノートでネメシュ・ラースロー監督はこう語る。

最初から最後まで主人公を追いながら、彼が直接見聞きする周囲しか見せないことで、人間の認識域により近い、範囲を限定した有機的な映画空間を創造しようとした。
(中略)
殺戮の場所や出来事は断片的に見せることで観客に想像力を働かせる余地を残した。したがって、我々が旅する地獄は、すべてが見えるわけではなく、観客の心の中に部分的に再現されるだけである。(公式プレスシートより)

そう、本作で観客はアウシュビッツの地獄を見るのではない。自らの心の中にそれを作ってしまうのだ。とても恐ろしい体験である。

生き延びる戦いの最中、死者を弔うことの尊厳

本作は、死体処理を行う男が、死体を弔うことを通じて人間の尊厳を問う作品だ。しかし、その作業に主人公が没頭している最中、周囲では生き残りをかけた脱走計画が進んでいる。これもまた人間の尊厳をかけた戦いでもあろう。サウルの行動は、周囲に迷惑をかけている部分もある。ここは本作を見る観客一人々々が葛藤し考えるポイントだろう。

監督はサウルの行動についてこう語る。

主人公は死の儀式と死の工場、祭礼と機関、祈りと騒音を区別しようとします。そこに何の希望もなくなったとき、地獄の深奥から心の声がサウルにこう言うのです。”有意義で人間的な、昔からの神聖な行為を成し遂げるのだ。人間のコミュニティと宗教の始まりからある、死者の体を敬うという行為を成し遂げるために、お前は生きのびねばならない”と。(公式プレスシートより)

正直この映画は見るのが苦しい。だがこれも人間の歴史の一側面である。アウシュビッツ収容所内を追体験させるという、誰もが遠慮願いたい体験をさせてしまう映画だが、大変優れた映画であることは間違いない。