エヴァンゲリオンのテレビシリーズで、真っ白な画面にシンジ君が浮いてて、これが自由だ的なことを言われるシークエンスがある。何もないセカイにシンジ君は何をしたらいいのか不安を覚えている。そこに「不自由をやろうと」ゲンドウの声が入り、地面ができてシンジ君は安心する。しかし、地面ができたことでシンジ君は地面を歩かなければならなくなる。地面を歩く自由は、空に浮いている自由とバーターなわけだ。
ラース・フォン・トリアーのダンサー・イン・ザ・ダークは目の不自由な女性が妄想し、歌い踊るわけだども、彼女は目が見えないから無限の想像力発揮している。目の見えない不自由さが彼女に想像の自由を与えているとも言える。
世界は広くて、たくさんのものに溢れている。それに自由にアクセスできるのは幸せなことだ。しかし、例えばコーヒーを全く飲んだことがない人がコーヒーの味を想像したとしたら、無限の選択肢があるけど、コーヒーの味を知ってしまった後には無限の想像力は働かなくなるだろう。
映画「ルーム」はそういう感覚を追体験できる作品だった。男に誘拐され監禁されたジョイ(ブリー・ラーソン)が監禁部屋の納屋で子どもを授かる。その子は5歳まで納屋の中だけで育ち外の世界は一切知らない。納屋の外界への接点は、天井にある小さな天窓だけ。テレビはあるが、全て現実ではないと思っている。ジャック(ジェイコブ・トレンブレイ)は小さな納屋で想像力を無限に働かせる。卵の殻で蛇を作り、ネズミは友だち、洗面器やタンスに挨拶し、小さな部屋で追いかけっこをする日々。5年もの間小さな納屋に監禁されるのはさぞ地獄のような体験だろうと観客は想像するが、その地獄でジャックは笑顔を絶やさない。ある日ジョイが納屋の外にも世界が広がっていることを教えられ、脱出を試みる二人。脱出は成功する。しかしジャックもジョイも簡単には幸せにはなれない。マスコミに追いかけられ、精神的にも追いつめられる。監禁から解放された後、ジャックはほとんど笑顔を見せることがない。
本作の優れたポイントは、監禁部屋=地獄、外の世界=楽園という単純な図式に落とし込んでいないところ。むしろ精神的には外の世界の方が牢獄といった感がある。広いこの世界はたくさんのものに溢れている。しかしそのことがジャックの想像力をうばっていく。
ジャックのモノローグ「世界は広い、だからみんな忙しい。薄く伸びたバターのよう」が端的にそれを物語る。
世界は広くて多くのものに溢れている。それらを受け入れなくてはならない。多くのこと知る自由と知らなければならない不自由。多くのことを知らず想像する自由、小さな監禁部屋から出られない不自由。
彼の無限の想像力を奪うのは、この世界だった。あのような美しい想像力を持って成長していくことはできないものか。あの無限の自由な想像力を発揮できたのが、監禁という理不尽な犯罪によってという皮肉に胸が苦しくなる。ジャックはきっと「普通の少年」として健やかに成長するのだろう。
見終わった後、この世の中がもっと実りのあるものになればいいと心の底から願わずにはいられなくなる凄い映画だった。