※ネタバレがあります。
普遍的な「大惨事による喪失と癒し」
「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」という小説がある。アメリカの若手の作家、ジョナサン・サフラン・フォアの長編第2作で2005年に発表されたこの小説は、2001年の9月11日の同時多発テロを題材にした作品で、9.11文学の最高峰とも言われている。2000年代のアメリカは乱暴に言ってしまえばこのテロの恐怖と憎悪と悲しみに対して、どう向き合うのかは国を挙げてのテーマであったと言える。当然文学の世界にも大きな影響を与え、多くの作家が様々なアプローチで9.11と向きあおうとしていた。
「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」はトム・ハンクスとサンドラ・ブロック共演で映画化もされているが、原作小説とは趣きが異なる。映画版では終始シリアスな雰囲気の中、父を9.11で失った少年が父のことを知ろうと、NY中を冒険する物語であるが、小説版ではそのエピソードは主要3エピソードの中の1に過ぎない。小説版ではオスカー少年の冒険と、オスカーの祖父が息子(オスカーの父)に宛てた手紙、オスカーの祖母がオスカーに宛てた手紙が章ごとに交互に挿入される形で展開する。特に重要なのが、祖父のドレスデンの空襲体験だ。祖父が本当に愛していたのは空襲で亡くなった、オスカーの祖母の姉だったのだが、愛する人を失い、途方にくれた祖父はアメリカに渡り、妹と偶然再会することになる。このドレスデンの空襲はアメリカ軍とイギリス軍によるものであり、オスカーの祖父はアメリカ軍によって愛する人を奪われたのだ。しかし、その空襲がなければ祖父は祖母と結婚することはなかったであろうし、ということはオスカーの父もオスカーもこの世に生まれてくることはなかった。悲劇はあったが、それで引き合う運命もある。そうして人生はつづいていき、親子3代にわたる手紙のやり取りを中心にして、9.11も歴史の1ページとして捉え直すことによって普遍的な「大惨事による喪失と癒し(上岡伸雄「 テロと文学 9.11後のアメリカと世界」)」を描いた作品だ。小説版はさらに広島の原爆への言及もある。
NHK出版
売り上げランキング: 148,027
2011年に日本を襲った東日本大震災もまた、日本社会に大きな影響を与えた。その衝撃を9.11と安易に比較するべきではないかもしれないが、ともに社会を生きる人々の思考を大きく変える契機になったであろう。311にどう向き合うかは、文化としても政治としても大きなテーマとなっている。
文学界だけでなく映画界にも311の影響は大きかった。即座にリアクションをし始めたのは主にドキュメンタリー作家だったが、有象無象で物見遊山の域を出ないものもあれば、現地の人々にしっかりと向き合ったものもあった。劇映画では園子温がいちはやく作品を発表していたが、その後に311に向きあおうとする劇映画は散発的にしか製作されていない。2016年にようやくシン・ゴジラが登場したが、ゴジラを311の災害と原発事故に見立てた高度な政治シミュレーション映画として高評価を獲得している。(こうした作品が出てくるのが遅すぎるとは思わない。ある程度時間が必要だろうと思う。アメリカも9.11に関する作品が多く発表されだしたのは2005年ごろからだ)
さて、前置きが長くなったが、新海誠の最新作『君の名は。』も311に対して一つの姿勢を示した作品といえる。本人は否定するかもしれない。そんな大それたテーマを大上段に構えた作品ではないと。しかし、映画は作りての無意識もどこかに刻印されるだ。あるいは観客である僕自身に刻印されているからそうしたものを読み込みたがっているのかもしれない。まあ作品はいつでも作り手と受け手の共犯関係で発展していくものなので、許して。
災害の悲劇と恩恵と
本作は、直接311を扱ってはいない。代わりに彗星の落下という災害を物語に導入している。新海誠作品には常に空への憧憬がある。災害として彗星を選択するのも作家性の現れでもあるし、他の災害よりも力を発揮しやすいだろう。
本作のプロットは高校生の少年と少女が夢の中で入れ替わるという物語で前半はラブコメディのようなタッチで進行するが、三葉が実は3年前の彗星落下で消滅した街の出身であることはわかると物語の雰囲気が一変する。事前の宣伝では巧妙に隠されているが、この後半部分こそが本作のメインテーマとなる部分だ。
彗星落下によって街がまるごとひとつ消滅し、住民の大半は死亡している。主人公の瀧はその事実を三葉に会いにゆこうとしてようやく知ることになる。そして三葉がすでに死んでしまっていることも。本作のプロットのユニークな点は夢の中で入れ替わる二人の時間軸がズレている点にある。瀧の時間軸を現在とすると、三葉はその3年前で、夢で入れ替わることによって二人は別々の時間軸を体験していることになる。
この時間の流れとつながりが本作にとって重要なポイントだ。3年の短いスパンの時間だけでなく、より大きな時間の流れについても言及される。三葉の町に彗星が落ちるのは、これが初めてではない。1000年前にもこの土地には彗星が落下しており、その跡には湖ができている。その湖を中心し栄えたのが三葉の町なのだ。
大昔の災害への言及とそれによって栄えた町という点を持ち込むことによって、本作は単なる少年少女の青春恋愛モノ以上の何かに仕上がっている。
『君の名は。』小説版はよりわかりやすくその点に言及している。以下引用してみる。
時が経ち、湖の周囲にはやがてまた集落が出来る。湖は魚をもたらし、隕鉄は富をもたらす。集落は栄える。それから永い時が経ち、また彗星がやってくる。ふたたび星が落ち、ふたたび人が死ぬ。
この列島に人が棲みついてから二度、それは繰り返された。
人はそれを記憶に留めようとする。なんとか後の世に伝えようとする。文字よりも長く残る方法で。彗星を龍として。彗星を紐として。割れる彗星を、舞いのしぐさに。
組紐が結ぶ、人と時間
「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」では、アメリカが被害を追った事件(9.11)と加害者となった事件(ドレスデン空襲、原爆)を親子3代の運命で繋げることによって普遍性を獲得したが、『君の名は。』では災害の悲劇と恩恵を結ぶことによって普遍性を得ている。
この「結び」という概念の比喩表現として、三葉がおばあちゃんに習って作っている組紐がある。
「糸を繋げることもムスビ、人を繋げることもムスビ、時間が流れることもムスビ、ぜんぶ、同じ言葉を使う。それは神さまの呼び名であり、神さまの力や。ワシらの作る組紐も、神さまの技、時間の流れそのものを顕しとる」と三葉のおばあちゃんのセリフにもあるが、組紐が時間のつながり、人のつながりなどあらゆるつながりを示すアイテムとして非常に効果的に用いられている。
こうして災害も少年少女の恋物語も、大きな時間の流れのなかに捉え直すことによって、本作もまた普遍的な「大惨事による喪失と癒し」の物語になり得ている。
町がまるごとひとつ消滅する。人も町もそのうち忘れ去られてゆく。瀧もまた三葉の名前を忘れてゆく。(君の名は。というタイトルは名前を問う呼びかけだ)しかし、忘れていてもどこかで大きな歴史の流れのなかで、何かとつながっている。この映画のラストに起こる奇跡の出会いには、ハッピーエンドの「お約束」以上の説得力がある。本作が描くのは喪失と癒しのもならず、人生の素敵な可能性をも提示している。本当に素晴らしい作品だ。
『君の名は。』については以下の記事も書いています。
KADOKAWA/メディアファクトリー (2016-06-18)
売り上げランキング: 2