今年のオスカーのメッセージ
今年のオスカーは、受賞作発表時のトラブルで一悶着あって、2つの作品がクローズアップされることになった。大本命と目されていながら作品賞と間違えて発表されてしまった「ラ・ラ・ランド」と、実際に作品賞を獲得した「ムーンライト」だ。
アカデミー賞は、優れた作品を作った栄誉を称えるためのものでもあるが、何よりも作品の大きな宣伝の場でもある。ビジネス的に考えると、あんな風に発表時にトラブルが起こって、2つの作品名がクローズアップされると、どっちも見比べてみたくなる人情が働くような気がする。今年のオスカー中継は、米国では視聴率は最低だったようだが、騒動によるパブ記事はかえって増えたかもしれない。
まあ、ああいう発表のされてしまうと、どうしてもどっちが真にオスカーにふさわしいか、自分の中でも決めたくなるよね。同じように思った人も少なくないだろうから、両作品の興行収入アップに貢献してるかもしれない。それぞれの配給会社は喜んだんじゃないでしょうか。
さて、「ムーンライト」がオスカーを獲得したことの意味を考えてみたい。意味というか、アカデミー賞が必要としたメッセージというべきか。
そもそも映画における賞レースはなんなのか、というのがまずある。点数を競うスポーツのような優劣をはっきり決められるものでは、そもそもない。それでも、栄誉やモチベーションのためにこうした賞は必要とされる。質の高い作品を発見し、紹介するという役割もあるだろう。
アカデミー賞は、アメリカの映画産業従事者で構成される、映画芸術科学アカデミーの会員の投票によって決まる。この団体は、「映画における芸術と科学の発展を図るため」に設立され、当初は映画会社と労働者の間に立ち、労働協議のようなことも行っていた。映画界をどのように発展させていくかを主導する団体なので、質の高い作品を選ぶだけが仕事ではなく、映画業界をどう発展させていくかを考えるのも重要な役割である。
2012年には、この会員の人種構成比が、94パーセントが白人だという報道があった。そもそもその人種構成比でこれからの社会の中で映画業界が健全に発展できるのかという危惧を抱いたアカデミーは、現在非白人の会員を増やそうと努力している。
賞そのものも、業界の健全な発展のためというアカデミーの役割を、必然的に一部担っている。なので、そもそも作品の質以外の部分もある程度重視されるのがアカデミー賞だと思った方がいい。
まあ、ノミネートされている時点で、作品の質は担保されていると思っていい。作品賞にノミネートされた作品は、どれもハイレベルなところでの質を競い合っている状態なので、あとはその年にどの作品に風が吹くのか、ということだ。
で、今年は「ムーンライト」に風が吹いたわけだ。それは昨年の「白すぎるオスカー」騒動が影響していないといえば嘘になるだろう。本作と競った「ラ・ラ・ランド」が受賞していたら、またひと騒動あったかもしれない。あれは白人中心のキャストだったし、ハリウッドがもっと白人ばかりだった時代を懐かしむような要素もある。さらに黒人が生んだジャズの伝統を、白人が守ろうとする物語でもあった。
上記のような文脈で、「ラ・ラ・ランド」を見ると面白く感じなくなるので、名作ミュージカルへのオマージュと夢追い人のサクセスストーリーと恋と素直に見て方が楽しめる作品ではあるし、あれを評価したアカデミー会員たちもそういう文脈で観たのだろう。しかし、今アカデミーが必要としたメッセージではなかった。
「ムーンライト」は、主要キャストが全て黒人で構成されている。白人キャストはモブとしてか登場しない。ここまで徹底的に黒人だけで構成される作品も実は珍しい。
その黒人ばかりが登場する「ムーンライト」の持つメッセージが何か。それはシンプルに多様性への願いであり、愛である。決して差別への怒りではない。
黒人コミュニティの中で差別される同性愛の少年の物語
本作は、シャロンという男性の少年時代、高校生時代、青年時代の3つの年代のエピソードで語られる。シャロンはドラッグ中毒の母親と2人暮し、自身の性的アイデンティティに悩みを抱えており、他の黒人少年からいじめを受けている。ある日、いじめから逃れて廃屋に隠れていたところ、フアンという男性と出会い、以来、彼との交流を心の支えにするようになる。家にも学校にも、自分の居場所が持てないシャロンにとって、初めて安らげる場所がフアンの家だった。
シャロンは高校生になっても、相変わらずいじめられている。黒人の男性としては線の細いシャロンだが、強い男がモテるというような風潮のある、黒人男性コミュニティの中では、シャロンのような存在は、たとえ同性愛者でなかったとしても、生きづらさを感じるだろう。
この構造は、本作を特異なものにしている。本作は黒人が差別され続けた歴史や現状を描くものではない。黒人コミュニティの中で一人の少年が受ける差別を描いている。人種、性的志向、その他いろいろな要素で人は違いを見つけては攻撃する。ブルーハーツの歌詞ではないが、「弱いものたちが夕暮れ、さらに弱いものを叩く」ような状況がこの映画にはある。
アカデミーが感銘を受けたのもこのポイントだったのだろう。本作は、被害者/加害者の単純な二項図式に落とし込まずに、より深い視点で人間の業や不寛容な部分に目を向けている。
しかしそれでもなお愛の物語
しかし、それも本作の物語の背景であって、本筋ではない。そうした人間に向ける厳しい眼差しを背景に、本作が描くのはシンプルな愛だ。
シャロンは同級生のケビンに思いを寄せているが、その思いの成就が本作のメインプロットとなる。高校生時代、そしてある事件をきっかけに刑務所を経て、ドラッグディーラーになり、体つきもいかつくなる青年時代を通して、シャロンのケビンへの密やかな愛慕を繊細に語る。
この映画は厳しい社会の現実も含んでいるが、それを拳を振り上げて叫ぶような作品ではない。もっと静かに愛や思いやりといったような、美しい感情を静かに愛でる作品として作られている。そんな慎ましさを黒人男性の苦悩とともに描いたというのが貴重だ。そこには男は男らしく、といったようなジェンダーの規範にも疑問を投げかける姿勢もある。人種、性的志向、ジェンダー、本作は様々な視点でステレオタイプな理解を打破し、シャロンという個人を真摯に見つめ続ける。
この姿勢こそ、寛容な社会を目指すために最も大切なものではないか。大切なのは個を見つめることだ。
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「淵に立つ」の深田晃司監督による「ムーンライト」試写会のトークショーの模様はこちら。
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