どんな映画にも、いいところもあれば悪いところもあって、しかも同じ料金なわけだから、基本的にはレビューを書く時にはけなすのではなく、1800円の価値を2時間で持ち帰るにはどこに注目すればいいのかを書くようにしている。
世間的に面白くないと言われる作品でも、視点を変えれば面白く見えたりすることもある。
でも今回はちょっと例外的に批判的な文章を書くことにする。この作品の批判から大事な事が言えそうな気がするので。主に漫画やアニメなどの2次元作品を実写にする際に大事なこと、ひいては原作もの/オリジナル作品両方にとって大事なことが。
漫画の実写化に伴う困難は何かというと、やはりリアリティの問題だろう。というか映画全般、リアリティを欠いて優れた作品はないだろうけども。
ただ、漫画の実写化の場合、漫画という2次元で成立しているリアリティを、生身の俳優と現実のロケを使って再現する必要があるので、そこに困難さが伴う。
ここでいうリアリティは、みてくれの写実っぽさの度合いのことではなく、迫真性や臨在感を感じさせるかどうかという意味だ。世界がそこに存在していると、観客に納得させる何かのことを指す。
例えば、「無限の住人」の場合、不死身の男は現実にはいないが、それがいると納得させる説得力があるかどうか等、それが迫真性や現実味ということになる。
結論から言うと、「無限の住人」はリアリティに欠ける。なぜか。
リアリティのレベル調整の失敗
リアリティとはなんなのか、リアリティにおける監督の仕事とはなんなのか、押井守はアニメーションのリアリズムについて以下のように語った言葉がわかりやすいので引用する。
アニメーションのリアリズムっていうのは、2階の窓から人が落ちると、人型の穴が空いて、そこから落ちたやつが出てくるリアリズムもあれば、次のカットで全身包帯で出てくる程度のリアリズムもあれば、ホントに血が飛び散っちゃうリアリズムもある。だから、どのレベルのリアリズムに固定するのかが演出家の仕事なわけ。
そういう意味で言えば、『パトレイバー』は、TVシリーズと映画では抽象の階梯度が違うんだよ。それはなかなか理解されない。劇場版の方はキャラクターが2階から落っこちて骨折する世界になってる。TVシリーズやビデオの方は、温泉旅館の窓から投げ出されても、次のカットで、びしょ濡れになって上がってくればOKな世界にしてある。そんな風に、アニメーションのリアリズムってのは操作可能なんだ。(小黒祐一郎取材・構成「押井守のアニメスタイル」)
太字は筆者が強調した部分だが、これはなにもアニメーションの仕事に限った話ではなく、実写映画でも同じだ。「無限の住人」が良くないのは、このリアリティの固定化に失敗している点だ。
冒頭の血なまぐさい殺陣は、本物の殺し合いの迫力を持たせて本格的な時代劇の雰囲気がある。実写にしたことで、生身の迫力を活かす方向で、リアリティを調整していくのかと思えば、原作漫画の「ガワ」をそのまま意識しているような描写もあってチグハグだ。例えば栗山千明が演じる百琳は原作通りに金髪なのだが、通常の時代劇なら金髪はあり得ない。
殺陣の描写で言うと、血なまぐさい本物志向のはずなのに、戸田恵梨香演じる乙橘槇絵は、人間にはありえない大ジャンプもする。(ワイヤーアクションだと思うが、あまり上手じゃないので、ジャンプというよりフワッと浮いてるみたいになってしまってる)
他にもこうしたリアリティのレベルの調整がチグハグなところが目につく。だから迫真性が生まれないし、なによりキャラクターが血の通った人間に見えてこないので共感もしづらい。記号的なシーンの連続で悲しんだり、怒ったりしているだけにみえてきてしまい、ドラマにならない。
こうしたリアリティの調整は、なにも漫画原作だけに必要なものでは決してない。オリジナルの映画でもこれは等しく重要なことだ。ただ、漫画原作の場合は、一度原作が固定したリアリティのレベルが存在するため、どのレベルに調整すべきかと、実写と2次元の表現方法の違いを吟味しながら再検討する必要があるので、オリジナル作品よりも難しい面はあるのだけど。
作品の核=血を抜き出せていない
リアリティのレベル調整にも関わる話だが、本作は脚本もチグハグだ。漫画原作の場合、長い連載から、2時間の枠に収めないといけないので、エピソードの取捨選択と改変、それに何を追加してまとめるかが重要になる。
僕は原作を未読なので、その意味では先入観なくこの映画を観られる立場にあるが、映画を観てわからないことだらけだった。
戸田恵梨香の槇絵はなぜ天津を命を張って守っているのかよくわからない。このキャラ一番の見せ場はどこでもあるし、彼女の行動原理に天津があるように見える。しかし、肝心の理由は描かれないので、なんとなく命を張っているキャラになっている。
多分、原作でも命を張っているのだろうし、長い連載の中で理由も描かれていたりもするんだろう。2時間の尺で取捨選択する際、作品全体と同様、各キャラも何が核なのかきちんと読み解き、それを短い時間でどう表現するのかを苦心する。
思うに槇絵というキャラの核はその天津との関係性にあるのでないだろうか。少なくとも映画からはそのように推測できる。でもそこを描かない。なので核のよくわからないキャラになってしまった。
核という点で言えば、作品全体に核はなんなのか。物語の中心は、凛の復讐劇という風に映画は設定している。凛の両親が殺されたところから物語が始まっているからだ。
しかし、いざ仇を眼の前にしたら、道中に襲ってきた連中なども入り乱れて、仇と微妙な共闘関係になる。凛は万次を狙う連中にさらわれたりするので、クライマックスの大立ち回りで話が脇道にそれてゆく。もしかして原作でもああいう展開なのかもしれないが、映画は物語のどこにフォーカスしているのか、ブレブレになっている。
「バクマン。」や「モテキ」などで漫画原作を見事に映画化した大根仁監督は、原作ものを扱う大事な点として、伊丹万作の言葉を引用して説明している。
原作ものをやるときに心がけていることは、黒澤明の脚本をよく手がけていた橋本忍が本に書いているんですが、橋本さんが師匠の伊丹万作と話しているときに「原作ものを脚本化、映像化するときの心得は?」みたいなやりとりがあるんです。原作を一匹の牛に喩えて、その牛をまずは一週間、二週間、一ヶ月、二ヶ月・・・とことん観察する。観察して急所を見つけたらそこに入っていって一撃で殺す。そうして血だけ抜いて帰ってくる。ほしいのは血だけなんだという、ちょっと大げさで物騒な喩えだとは思うけれど(笑) (ユリイカ2015年10月号P54)
伊丹万作が言う作品の「血」というのは、作品の本質ということになるだろう。本質をしっかりと見据えて、それを表現手法の違う映像に置き換えていく。表面的な皮を剥いでそれを継ぎ接ぎするのではなく、大事なのは血であると伊丹は言っている。大根仁監督や、「3月のライオン」の大友啓史監督などはこの原作の本質を捉えるのが非常に上手いと思う。
「無限の住人」はその点、どうだったどろうか。血よりも表面の皮を優先してはしないだろうか。
きちんと同じ血が流れていれば、原作にないエピソードを加えても、きちんと同じ世界観を共有したものにできるはず。逆にどんなに皮を集めて似たものを作っても中味の本質が違ってしまえば、「コレジャナイ」という印象を与えるだろう。
そして、本質が重要というのは漫画原作に限らず、オリジナルだって同じことなのだ。結局作り手はこの映画で何を描きたかったのだろう。とてもモヤモヤした状態で劇場に後にした。