リアルサウンド映画部に俳優ジム・キャリー論のようなものを書いてみました。
ジム・キャリーはアニメーションと実写の境を超える “原形質性”から考える“デジタル時代の俳優”|Real Sound|リアルサウンド 映画部
デジタルの地平で全ての映画はアニメになる、と押井守監督はかつて言いましたが、実際にそういう時代を生きる俳優として、最もアニメーションと実写映画の境を感じさせない役者の代表としてジム・キャリーを取り上げています。
この記事の狙いは、アニメーションについて語る際に用いられる理論で実写映画について語ることです。製作現場レベルにおいて、実写とアニメーションの融合は実写・アニメーションの現場双方で進行しているわけですけど、それらを語る僕らのマインドがまだまだ分かれすぎていると僕は感じているんです。このことについてはいずれ改めて語りたいと思います。
この記事では、エイゼンシュテインがディズニー映画に発見したアニメーションの特徴「原形質性」を拡張してジム・キャリーという俳優の魅力を掘り下げることに用いています。原形質性についても記事の中で説明しています。
記事の裏テーマとして、役者の芝居の評価軸を増やす、というのもあったりします。自然にそれっぽく振る舞う、心を作って人間の真に迫るということ以外にも芝居の価値を測る基準はあるはずです。ジム・キャリーは『マン・オン・ザ・ムーン』で驚くほどアンディ・カウフマンになりきった芝居を披露して、ゴールデングローブ賞を受賞したりしていますが、そうでない芝居にも素晴らしい価値があると思うんですね。
お前は馬鹿じゃねえのか、と思われそうな書いているかもしれません。でも、従来の実写映画の味方、アニメーションの味方を転覆させたいという欲望があるんですよね。僕自身が山田尚子監督に転覆させられた経験があるので。
以下メモです。
ここからメモ
Thesis候補
・原形質性とジム・キャリー、ソニック・ザ・ムービー
・顔芸役者とたかをくくられたことを原形質性から再評価する
・彼の肉体は軽やかに実写/アニメに二分法を超える。
原形質性を提唱したエイゼンシュテインは、その具体例を、「脊椎のないゴムのようにしなやかな生き物とな」る「スネーク・ダンサー」たちにも見ていたからだ(「ディズニー(抄訳)」、今井隆介訳、『表象』第7号、160ページ)。また、この原形質概念とも共通するところの多い「映画造形(ciné plastique)」という概念を提唱したフランスの美術史学者エリー・フォールも同じくダンスする身体に注目 https://realsound.jp/movie/2018/09/post-248402_2.html
アニメーション的想像力の現在:ノルシュテインから『この世界の片隅に』まで 『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』(フィルムアート社)刊行記念イベント 資料 https://genron-cafe.jp/wp/wp-content/uploads/2016/12/3ed98b1dc1c960e5406cd699df5c6143.pdf
メタファーとしての原形質性が発動しやすいデジタル時代のアニメーションにおいて実写とアニメーションが組み合わさるとき、アニメーションの方が実写よりもよりリアルに感じられる事態さえ生起する。
マンガとアニメーションとリアリズム-『個人的なハーモニー』から考え https://genron-cafe.jp/wp/wp-content/uploads/2018/04/7fe3334dd80a006f9e19af24a476c889.pdf
エイゼンシュテインが原形質性という言葉で意味しているのは、アニメーションのビ ジュアルのそのリテラルなレベルで起こっていることではない。アニメーションを観る 私たちの意識(つまり抽象性のレベル)において――すなわちエイゼンシュテインの言 う「メタファー」を知覚するレベルで――起きている変容である。
書く前に見返す作品
マン・オン・ザ・ムーン
キック・アス/ジャスティス・フォーエバー
バットマン フォーエヴァー
ジム&アンディ
マスク
エース・ベンチュラ
Thesisを改めて: 特権的な原形質的柔軟性を持つジム・キャリーの希少さとは
Point3つ
・実写とアニメの境界を超える男
『マスク』を例に、
なんの原稿だか思い出せない、だが「軟体ゴム人間」ジム・キャリーというコピーを見かけたことがある。彼の存在がこの映画を可能にしたのだという論旨だったはず。
・原形質性とは
エイゼンシュタイン、土居伸彰さん、今井隆介さんの議論を中心に、
↓ ダンスもまた原形質的な表現?
ジム・キャリーの軟体な肉体表現につなげる
本作でジム・キャリーはパントマイムダンスを披露している。それが映画最大の見せ場となっている。
パントマイムはメタファーとしての原形質的な表現と言えるか。演劇との関連性のくだり(個人的なハーモニー)から持ってくる。イワン雷帝のくだりとパントマイムをつなげられるか。
自然にそれらしく振舞うだけが芝居ではない、唯一彼にしかできないパフォーマンスの希少さはもっと高く評価されるべきなんじゃないか。
・価値の転換と多様化。。。「自然」な芝居ばかりが良い演技とされる価値観を広げることにつながるのではないか。
アニメーションの歴史の中の自然主義への批判:個人的なハーモニーからとれるか。アニメーションの映画学からもとれるのではないか。
(参考になるか?)小林七郎のカメラの目ではない、心の目で描け。https://animeanime.jp/article/2020/02/08/51470_3.html
↓
実写はカメラという写実から逃れられないが、ジムキャリーの肉体は写実の呪縛から逃れうる特権的な肉体か。
↓
唐十郎の特権的肉体論?
特権的肉体論 | 現代美術用語辞典ver.2.0 https://artscape.jp/artword/index.php/%E7%89%B9%E6%A8%A9%E7%9A%84%E8%82%89%E4%BD%93%E8%AB%96
スタニスラフスキー批判までいくのか、この記事は。
Intro
ジムキャリーは顔芸役者である。
このことを侮蔑的にとらえる人が多いのだろう。しかし、ここでその侮蔑を称賛に意味に変換してみようと思う。
ジムキャリーとソニック・ザ・ムービー、彼の本領が発揮されていた。
コミックの実写化で出演が多い彼の芝居には実写とアニメの二分法を超える鍵が隠されている。生身の肉体を持ちながら、コミックの世界を再現できる希少な俳優だ。
原形質性というキーワードで彼の芝居の魅力を紐解こうと試み、価値を転覆させてみる
Body1 原形質性とは
エイゼンシュテインの理論
アニメ映画学P66にエイゼンシュテインの言葉。それに土居さんのP68をつなげる。
今井さんの理論
アニメ映画学P21に例がある。
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土居さんのメタファーの理論につなげる
いかなる形状をもとりうるドローイングの能力(個人的なハーモニーP188)
「タコが象のように変わるがタコはタコであり、その可変性によって象を想像させる」。。。メタファーとしてに原形質性
それはビジュアルレベルの話だけではない。現実に対して新たな理解のかたちをもたらす。(個人的なハーモニーP327)
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だから、ダンスも原形質的なものを言える?
Body2 ジムキャリーの芝居を語る
ジムキャリーは人間であり、可変可能性はない。だが、メタファーとしての原形質的な彼の肉体はある。
・マスクの衝撃
なぜあの映画は成功したか。CG技術は実写とアニメの垣根を払い、原形質的なものを実写に持ち込んだ。
しかし、それだけではあの映画の説得力はなかった。軟体ゴム人間ジムキャリーの肉体があって、はじめて生まれた説得力
↓
彼の肉体は原形質的な特徴を持った稀有な能力を持っている。
ジム・キャリーのいない続編『マスク2』と比べるとわかりやすいのでは。
土居さんの理論。
メタファーとしての原形質性が発動しやすいデジタル時代のアニメーションにおいて実写とアニメーションが組み合わさるとき、アニメーションの方が実写よりもよりリアルに感じられる事態さえ生起する。https://genron-cafe.jp/wp/wp-content/uploads/2016/12/3ed98b1dc1c960e5406cd699df5c6143.pdf
↓
実写から離れてしまうリアリティをつなぎとめるために、ジムキャリーの原形質的な肉体が必要だったのでは。
・ソニック・ザ・ムービーで踊るジム・キャリー
ソニックでジムキャリーは踊る。無意味な踊り。物語とは関係なく踊る。そしてそれが映画一番の見せ場とすら言える。
ただ踊る「純粋に形式的なもの」の魅力がある。。。純粋に形式的な初期アニメーションの衝動に近い。それにエイゼンシュテインは魅了された。
踊り。。。エイゼンシュテインはディズニーの人魚の踊りに魅了された(アニメーションの映画学P12)
ディズニーのアニメーションに純粋な形式的なものをみた(アニメーションの映画学P19)
スネークダンサーを一緒に挙げているエイゼンシュテイン(アニメーションの映画学P21)
パントマイムを踊るジムキャリー。ディック・ヴァン・ダイクへのオマージュらしい。「メリー・ポピンズ」の俳優か。
https://www.youtube.com/watch?v=danKJ2xkQHA
パントマイムとは「現実の再構築」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sobim/29/3/29_3_133/_pdf
https://virtualgorillaplus.com/movie/sonic-the-movie-robotnik-dance/
アニメーションもまた現実の再構築
Body3 自然にそれらしく振舞うだけが芝居ではない
彼のようなタイプの役者はもっと高い評価を受けるべきだ。
顔芸役者などという言葉は罵倒として成立しない。肉体一つでアニメと実写の境界を超える彼の唯一無二の肉体を褒めたたえる言葉なのである。
彼のような原形質的な肉体の役者の評価は、おのずと現在のハリウッドの芝居の評価軸を変えうる。ひいては日本の役者のようなタイプの芝居にも「自然じゃない」という酷評以外の別の評価がありうるはずだ。
純粋に形式的で、大げさで型にはまった芝居にも魅力はある。
デジタル時代、コミック映画化時代の役者の資質を問えるか。
メモここまで
『ソニック・ザ・ムービー』、結構好きなんですよね。なんか世間での評価は微妙っぽいですが。ジム・キャリーのダンスが象徴してますが、無意味さが良いんですよね、この映画。政治的旗色が無色というか。
エイゼンシュテインが言う「純粋に形式的な」楽しみがこの映画にはありました。元々、アニメーションはそういうものだったとエイゼンシュテインは言っていて、長編化してゆく過程で、どんどんそうではなくなっていったという批判がアニメーション批評の歴史にはありますが。今回の映画のジム・キャリーの肉体に僕はそういうものを感じたらしい。
本作を取り上げた原稿は、これで4本目なんですが、この映画の「テーマ性の薄さ」が僕にそこまで書かせたのだと思う。
なお、ジム・キャリーという俳優については、二面性があると思っています。文字通り、人物になりきる芝居で評価されたこともある人です。『マン・オン・ザ・ムーン』のメイキングと彼のインタビューで構成されたドキュメンタリー『ジム&アンディ』も見ました。これは面白いですね。狂気ですね。何が彼をここまでさせたのか。
特権的肉体論について、もう少し掘り下げた方がいいのかどうか迷いました。でも、少しトピック外な気がしたので、「特権的肉体」という言葉だけ出しました。いつか別の機会に書けるといいな。まあ、ジム・キャリーについての記事で、スタニスラフスキー批判を盛り込むのは適切ではないでしょう。