リアルサウンドの連載第二弾です。今回は、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』を取り上げました。
劇場版『鬼滅の刃』を“列車映画”の観点から読む エモーションとモーションの連動が作品の醍醐味に|Real Sound|リアルサウンド 映画部
「列車映画」てなんや? という感じですが、映画史において列車というモチーフはとても重要だったのだ、という話から、『無限列車編』もまた、その歴史を踏まえた作りになっているのではないか、みたいなことを書いています。
列車と映画、と言えば世界最初の映画であるリュミエール兄弟の映像ですが、映画という「動く写真」のすごさを示すために、列車という題材は最高だったのです。当時、動くものとして最速で最大のものだったので。
これは映画評論家の加藤幹郎さんの言い方ですが、映画はモーション(運動)を描くことでエモーション(情動)を表現するものであるという点で、本作は映画が描いたモーションの原点である列車を舞台に、大変な濃いエモーションを描いた映画だということですね。
原作をどう映画的にアレンジしたのかもちょっと書いてみました。そのアレンジに「映画と列車」の映画史的な関係性が端的に表れているなと思っています。
この連載はアニメを映画のように語り、実写映画をアニメのように語るという趣旨なんですけど、『無限列車編』がいかに映画として優れているのか、伝わるといいなあと思います。
今日(11月19日)、ちょっとインタビュー取材に行っていたのですが、日本の映画業界では、やはりアニメというだけで評価の対象にしないとか、アニメーション作品は絶対上映しないと決めてるミニシアターなどもあるらしいです。実写とアニメーションに境界を引く必要ないと思うんですけど、なんだか「違う世界」のものだと思ってる人がまだまだいるみたいです。
なので、自分ごとで恐縮ですが、この連載でアニメ作品を映画史に引きつけて語るというのは、結構意義あることかもしれないと思ってます。実写とアニメーションの間に「謎の境界」を引いている人に届けられるような文章を書きたいですね。
以下、原稿作成時のメモです。
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なぜ無限列車編が映画に向いているエピソードなのか。
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ここを解き明かし、映画が描いてきたモーション(運動)と、エモーション(感動)関係を解く、みたいな記事になると良い。
動くことの感動と大量輸送の機械的モーションの中に織りなす人間の物語
列車の停止と煉獄の死
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モーションの停止とキャラクターの死が連なる・・・蒸気機関車は炎で動く・・・炎柱の煉獄の象徴?
冒頭のアレンジに見る、映画的アレンジの妙
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物語が始まると同時に列車は動き出す。列車の動きと物語の動きがシンクロする。
列車と映画の相性の良さの歴史的必然性と構造的な相似性について説明が必要
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鬼滅にその構造的相似性をどのように見出すかが課題
序文
映画(実写映画)の歴史は、列車の映像から始まった。
以来、初期の映画において列車は重要なモチーフであり続け、飛行機が安価な時代となっても、スクリーンを切り裂くように突き進む列車の迫力は映画を彩り続けている。列車は、映画で最も輝く乗り物と言っても過言ではない。
列車との蜜月を続けてきた映画史にまた一つ連なる作品が、日本で誕生した。現在大ヒット中の『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』である。
Intro
列車が動き出す。それに飛び乗る炭治郎たち
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そして、物語は動き出す。列車の出発と物語の出発がリンクする。
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鬼滅の刃無限列車編は最も映画化に向いたエピソードだった。それはこの導入部が示している。
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映画と列車の相性の良さは、映画史的必然だ。これまで数々の列車を舞台・題材、あるいは重要なシーンで起用した映画が作られてきた。
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ここでは、列車と映画の近さから、本作の物語構造の魅力と列車という舞台装置がどのように本作の映画的魅力を高めたか、それがスクリーンでいかに輝くのかについて解き明かす。
以下に本作の物語が列車によって表象されているのか。列車映画と呼べるほどに列車がキャラクターの行く末を暗示するから。
Body1 映画と列車の文化史
映画はどう始まったか。
リュミエールは、世界中の鉄道を撮影した
メドヴェトキンの映画列車
映画が物質中心主義の20世紀にかくも繁栄をみた理由は、その機動性と運搬性の高さにある。列車もまた大陸のうえなら世界中どこへでも出かけていった。リールからフィルムをとりだしてみると、矩形のセルが一列にびっしり並び、さながら枕木を並べて地平線へ伸びる鉄道のようである。そしてプロジェクターのうえで回転するフィルム・リールは列車の動輪を思わせる。 『映画とは何か』加藤幹郎、みすず書房、P9
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なぜ初期映画は列車を必要としたか
運動を描けるメディアであると、先行する写真に対しての優位性を証明するため
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映画とは何か(P117)・・・映画にとって、同時代を代表する最速最大の運動媒体は列車だった。動く被写体をリアリスティックに再現することで人気を博しはじめた映画にしてみれば、そうした自己の特性に見あうすぐれた運動性能を発揮する列車をとらえるのは必然だった。
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リュミエール兄弟の撮影隊は、世界各地の列車を撮影した。
映画の体験とリアリズム
映画館に入ることと列車に乗ることは、与えられた時間の流れに身を任せる点で同じであり、両者の始まり(出発)と終わり(到着)は換喩関係になるのだ。P99
ヘイルズ・ツアーズ。。。劇場列車の客車に見立てた。。。映画は観客を列車の乗客にした。今で言う4D上映みたいなものか。
世界最初の移動撮影
この運動そのものの魅力、興奮、アトラクション的感覚が満載であるこのエピソードは、映画に選ばれるのは必然ともいえる。
加藤幹郎『映画とは何か』P117
映画が被写体の再現において先行メディア(写真や絵画)と差別化をはからねばならないとき、第一に主張しうることは、映画が「運動」を再現できる最初の本格的表象メディアムだということである。
世界最初の本格的なプロットを持った映画は、大列車強盗だった。物語はつまり、感情を描く、エモーションを描くものになっていった。モーションによってエモーションを描くものとしての脱皮、発展を遂げるために列車はやはり描かれたのだ。
加藤幹郎氏は、『トンネルでのキス』を挙げて、エモーションを描いた最初期の映画と語っている。
トンネルに突入する列車内でキスするカップルを撮影したもの。
運動の快楽。。。。これについての記述が必要だ。
3DCGの物理演算で作られる蒸気機関車の正確な機械的運動。。その大きな力の迫力と、車輪の回転のクローズアップに込められる力強さ。煙をもうもうと噴き上げる雄々しさ。
Body2 車窓とスクリーンの類似性
伊之助がしきりに窓外を見ながら、すげーと言っている。・・・映画のスクリーンと車窓の類似性・・・本作で語れるだろうか。
鈴木:面白いことに、嵐電という電車はすごく映画館に似てるなって思ったんです。稲垣足穂っていう小説家が、「電車の窓から見える風景というのは、実際に存在する私たちの街の風景をAとした場合、この窓から今見えてる風景はAダッシュではないか。」と書いています。(「タッチとダッシュ」稲垣足穂)
また、映画と絡めた言葉として残されているのですが、電車が動きだしてから移動していく外の風景って、すごくペラペラしていて書き割りみたいで、まるで映画のセットのように見えると。これはもう、窓の外の風景が、実際の私たちの町の何かとは違うものであるっていう意識を感じ取っているんです。そうやって電車の本来の目的とは別に、窓があるから生まれてしまったものがあるんですよね。
嵐電という電車はすごく映画館に似ているんです。『嵐電』鈴木卓爾監督【Director’s Interview Vol.28】 :3ページ目|CINEMORE(シネモア)
列車の揺れや窓越しに見える単調な風景と、静止画像の運動から生じる快楽は互いに類似するという。(映像という神秘と快楽、長谷正人)
Body2映画と原作の違い
映画とは何か(P20)・・・映画が、その受容において漫画や小説などと大きく異なる点がある。それは映画がほかの物語媒体にくらべて、きわめて緊密な継起性をもっているという点である。映画の物語の構成単位(ショットやシーンやシークェンス)はリニアに編集され、その直線的結合ぶりはほとんど鉄道を思わせる。<中略> 映画の観客は小説や漫画の読者とはちがい、ページを読み飛ばしたり後もどりするような自由は与えられていない
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鉄道もまた乗ったら、引き返したりすることはできない。時間通りに運行する鉄道は、映画的でもある。
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映画冒頭のアレンジについて、物語の出発と列車の出発をリンクさせた。。。原作との違いをここで描写する
Body3 理想的な観客 列車の崩壊と主人公の交代がシンクロする
ヒッチコックのサイコの主人公が死ぬこと・・・・炭治郎が途中から傍観者になってしまうことをつなげて語れるか
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理想的な観客は主人公が死ぬとは考えていない。。。主人公が完全に途中から傍観者になってしまう展開も予想していない?
映画とは何か(P23)・・・一般に映画の主人公は、理想的な観客をのせて物語世界を航行すつテーマ・パークの乗り物(ライド)のようなものである。観客は主人公がゆくとろこにゆき、主人公が見たものを見る。
映画とは何か(P24)・・・ヒロインのジャネット・リーが物語半ばで惨殺されるとき、理想的な観客は文字通り一心同体のスタンドインを失い、いったいのこりの映画旅程をどうやって楽しめばいいのか途方に暮れてしまう。<中略> 理想的な観客もまたヒロインとともに浴槽に屠られる。
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物語の直線的結合性は鉄道の直進性と似ている。そして、物語の中で鉄道の直進性が破られ、脱線したとき、物語も思いがけず直進性を破られ、炭治郎が主人公の座から引きずる降ろされる。列車の直進性と物語の直進性がここでも、冒頭に続いてリンクしている。
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主人公の死が観客にとっての感情移入をする対象を失いことの恐怖でありという逆手にとって手法。
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鬼滅の刃無限列車編は、主人公が主人公の立場から引きずり降ろされて、観客と同一化する。これが、多くの人が結末をしっているにも関わらず本作が泣ける理由でもある。漫画以上に主人公が観客の立場に近いから。
最近考えているのはモーション・ピクチュア(映画)を見る観客のことです。観客はモビリティ(運動性)を味わうためにイモビリティ(非運動性)を強いられているという、そういう問題系が一つあると思っています。
映画学と映画批評の未来
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主人公、炭治郎がこれを強いられる。映画の観客そのものでは。
Body4蒸気機関という表象、炎で動く蒸気機関の終焉は炎柱・煉獄の命の周縁を引き起こす
炎で動く蒸気機関は何を表象していたか。。。むろん炎柱、煉獄そのものだ。
力強くまっすぐに突き進む蒸気機関車、、、己の信念を何があっても曲げない煉獄
その命を尽きることもまた予見されていた。蒸気機関車が脱線し、倒れてしまう。それはこれか起こる煉獄の死を予感させる
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倒れた列車と煉獄をどのような構図で描いていたか・・・原作と比較する
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そのほかの参考リンク
鬼滅の刃
鉄道が登場する映画は海外でも「名作揃い」だ | 旅・趣味 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
CineMagaziNet!
列車映画データベースMedvedkine Project
アレクサンドル・メドヴェトキン 映画列車主催
大列車強盗、動画 (349) The Great Train Robbery – YouTube
鉄道写真蒐集の欲望
アトラクション、物語、タイムマシン 初期映画におけるイメージ
映画「特急三百哩」の復元
トレイン映画〔疾走編〕|hitoshi kawamura|note
読む鉄道、観る鉄道(27) 『007 ロシアより愛をこめて』 – 庶民派時代のオリエント・エクスプレス | マイナビニュース
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メモ、終わり。
主人公が途中で変わるくだりでヒッチコックの『サイコ』の話をする予定だったんですけど、止めました。ちょっとわかりにくいなと思ったので。それと、加藤幹郎さんが本の中でサイコに言及してるのもあって、サイコを引用してしまうと加藤さんと同じすぎるなとも思ったので。他にもいくつか切ってる要素がありますね。
あと、今回は「列車と映画」、というテーマで書きましたが、そのほか「眠りと映画」というテーマも検討しました。途中で炭治郎たちが寝てしまって、夢の世界に行ってしまいますよね。夢の世界というのは、とても映画的なモチーフです、その逆に眠りは映画的じゃないんですよね。寝てる人って止まってますからね、運動がないんですよね。
なので、「眠り」という反映画を、アンディ・ウォーホルの『SLEEP(眠り)』とかを引用して、その反映画的な眠りを打ち破る作品だ、みたいなことを書こうかなとも思っていました。
ウォーホルの『SLEEP(眠り)』は6時間、寝ている男を映しているだけの作品なんですが。ある意味、映画の限界に挑戦しているような作品があるんですね。まあ、でも列車映画のほうが面白いし、映画史の深いとこまで書けるだろうと思ったので、列車にしました。
まあ、躍動感ある内容に注目した方が映画の魅力に迫れますよね。
それと、この記事を書くために、いろんな列車映画を見返しました。キートンの大列車追跡やロシアより愛をこめて、上海特急、新幹線大爆破、アンストッパブルとか。
やっぱり列車は映画で映えますね。ずっと動いてますし、迫力あるし。本当にたくさんの列車映画がありますね。
映画じゃなくてMVですけど、ミシェル・ゴンドリーが撮ったこれも好きです。ただ列車の車窓から動く風景を撮ってるだけ(音に合わせてリズムをとっていますが)なのに、めっちゃ快楽がありますよね。これが列車と映像の相性の良さだなあ。