リアルサウンド映画部の連載で、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を取り上げました。
『シン・エヴァ』ラストカットの奇妙さの正体とは 庵野秀明が追い続けた“虚構と現実”の境界|Real Sound|リアルサウンド 映画部
本連載にピッタリな題材だったと思います。実写とアニメ、両方で成功してきた庵野監督ですし、作品そのものがその境界にある別の位相を目指しているフシもありますし、作り方として実写とアニメの制作手法を混ぜていますので。
構成としては、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のラストカットにいかにいたったのか、という体裁にしました。実写映像に色々混じっているあのカットを象徴的に扱って、これまでの庵野監督の歩みと考えの変遷、実践を振り返って、実写とアニメの間にある「特撮空間」について語る、という感じです。
特撮というものは、そもそも制作技術のことを指しますが、それが偶発的に生み出していた虚構と現実の混淆する奇妙な感覚が庵野監督の目指すところなのでは、という仮説を立てました。結果、見えてきたものは実景空間とアニメ空間とも違う世界が存在する、ということでした。それを「第3空間」と読んでみましたが、これはいろんな作品を分析する時に使えるかも、という感触を得ています。
非常に長い記事になってしまいましたが、これでも詰めたんです。初稿は倍以上ありました。デジタル撮影の貢献度とかも入ってました。特撮的な空間の面白さに絞った方がわかりやすいと思ったので、結局削除しました。それはそれで大事なことなのですが、別の機会に掘り下げたいです。
以下、原稿作成時のメモと構成案です。
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虚構と現実という庵野監督の抱えるテーマと実写とアニメの境界線をクロスさせて、新しい哲学を打ち立てるようなつもりでいく必要がある。
虚構:アニメ、現実:実写 という単純な区分けを超えて、全ての映画はアニメーション(虚構)であり、現実とは虚構の上に成り立っているという話
アニメか実写か、という選択は庵野監督の虚構と現実というテーマに直結する選択であるはず。その融合的な手法で作られた『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は果たしてどういう意味があるのか。
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現実(実写)と虚構(アニメ)が等価に存在しているラストカット・・・・このラストカットを解くつもりで書く。
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**人の信じる力。。。虚構すら信じてしまう力が、人類を発展させた。それは映画やアニメを観て感動する力にも通じる**
頭の中で組み立てたくない。。。アニメと実写の現場の違いとして、撮り方、作り方よりもマインドのあり方に庵野監督はこだわっているのか
虚構も現実も等しく信じる人間だけが見られるもの。
虚構でも現実でもない、それは等しく情報である。
ラストカットは、実写でもアニメでもない、それは等しく映像である。そして動きは生身の人間もアニメキャラも等しく運動であり、等しく生命である。
Thesis
庵野秀明がどのように、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の映像表現に行きついたのか。考えと実践の変遷をたどる。
式日モノローグ
映像、特にアニメーションは個人や集団の妄想の具現化、情報の操作選別、虚構の構築で綴られている。存在をフレームで切り取る実写映像すら、現実を伴わない。いや、すでに現実が虚構に取り込まれ、価値を失っている。久しく言われる現実と虚構の逆転。すでに私にはどうでもいいことだ。
今日も私は彼女を映像に切り取る。現実の存在を自分の意思で、自分の都合で、自分の等位で切り取る行為は私を安心させるからだ。映像はこうした私の過去を虚構に変える。
時代区分ごとにまとめてみる。1から10で資料を分類
1. トップをねらえからナディア(エヴァ以前)
王立の話がアニメスタイルに
1. 演出スタイル
2. 思想・社会への考え
3. 時代背景
2. 旧エヴァTVから劇場版(90~97)
1. 演出スタイル
2. 思想・社会への考え
3. 時代背景
3. 実写映画の時代(ラブ&ポップ)(97~2005)
1. 演出スタイル
2. 思想・社会への考え
3. 時代背景
4. 実写映画の時代2(式日とキューティハニー)
5. ヱヴァンゲリオン新劇場版:序・破(2006~2009)
1. 演出スタイル
2. 思想・社会への考え
3. 時代背景
6. ヱヴァンゲリヲン:Qとその前後(2012)
1. 演出スタイル
2. 思想・社会への考え
3. 時代背景
7. シン・ゴジラ(2016)
1. 演出スタイル
2. 思想・社会への考え
3. 時代背景
8. シン・エヴァンゲリオン劇場版(2021)
1. 演出スタイル
2. 思想・社会への考え
3. 時代背景
9. AVへの接近の時代とあきらめ(番外編)
10. その他
Intro
ラストカットの融合感覚、、奇妙さの魅力
実景にアニメキャラが走り去り、引退した過去の車両が存在し、モブはCG、生身の人間も写り込んでいる。
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アニメと実写が混在している。
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現実と虚構が等しく存在している。・・・・エヴァンゲリオン・イマジナリーからハラリの「認知革命」の話へ
Body1庵野氏の歩み
時代区分ごとに
アニメでは生々しさを求め、実写では生々しさを消していく。。。。アニメから実写に、実写からアニメに「越境」する態度
Body2なぜ越境するのか。
実写では生々しさを消して、アニメでは生々しさを求めるのか。。。ないものねだり
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その間に何があるのか。別の位相の空間があるのか・・・・それが特撮?
Body3 第3の空間としての特撮空間
3番目の少年、第3村・・・・3という数字がキーワードになっているので、それに引っ掛けてもいいかも
特撮の庵野氏の証言
違和感の魅力とは。。。。
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エヴァで特撮に近づける工夫の証言
シンゴジラでのCG臭さを消す工夫の証言
巨神兵東京に現るの時の証言。。。。アニメとも実写とも違うリアリティの物差し
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ラストカットの融合には、それが込められている。我々のほとんどがその魅力に気づいていない、第三の空間のあり方を示している?
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その第3の空間のリアリティの魅力を端的に言えないとダメ。。。この連載に即した言い方を
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Intro
ラストカットの話から入る
あのカットは、なんと形容すべきだろうか。
ドローンの空撮に、今は存在しない電車が走っている。道行く人々(モブ)はCGだ。そして、シンジとマリは手描きのセル。
実写映像か、アニメか、CGか、それとも古典的な合成か。なんとも形容できない。現実に存在するものと、かつて存在したものと、現実には存在したことのないものが混然一体となっている。
あの1カットには庵野秀明の作家としての全てが詰まっている、そんな気がする。
アニメと実写、両方の世界で大きな実績を残した庵野秀明は、「現実と虚構」そのものを大きなテーマとして抱えてきた。アニメと実写を越境しながら、彼は何を得たのか、
あのラストカットに彼がどのようにたどり着いたのかを紐解いてみよう。
Body1 エヴァ以前
トップをねらえ! 特撮意識と実写監督がアニメを撮ったらという命題
――そういえば、テロップが多いですね?
「それは、今回のベースに、岡本喜八さんがアニメを撮ったら、というのがあるからです(笑)。しゃべってる人間の顔を必ず写して、キャラがあまり動かすに切り返しがやたら多い。枚数食わずにおもしろく見せるには、と考えた手法なんです。だから、レイアウトにはかなり頭使ってます。
”特撮映画”というのを凄く意識sてますね。ロケとセットをキッチリ分けて、セットには今ある物の中に小道具さんが作ったような物がポンとあるだけ。実用性、生活館のカケラも無いようなもの出すぐらいなら、この方がよっぽどいいと思います。」(『アニメV』P43、1989年7月刊行、学習研究社)
モノクロの方が嘘くさくない。(『アニメV』P42、1989年7月刊行、学習研究社)
ナディア・・・編集で薩川さんに出会った話は必要か?
原画参加作品、オネアミスの翼
庵野「観た人が「実写のようだ」と錯覚するのがベストっていう。それで「アニメじゃないみたい」と言われるのが良いわけなんですよ。
小黒「少なくとも、あの当時は?」
庵野「そうそう。あの頃、確かに「王立」の戦闘シーンとかについて「あれだったら実写でやった方がいい」っていう風に言われてですよ。言った人は悪口のつもりなんだろうけど、僕にとっては誉め言葉なんですよね。あんなのは実写では撮れないから。」(『美術手帖』、P81、「特集 アニメの画を考える」、「ロングインタビュー 庵野秀明のアニメスタイル「アニメとは情報である」」、美術出版社、2000年4月刊行)
自主製作の特撮
DAICON FILM時代の特撮自主映画「帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令」
ミニチュアワークの前でアオリのアングルで写せば生身の人間でもウルトラマンに見えてしまうという映画演出の妙味にすでに気が付いている。要するに映画演出とは、嘘を本物と思いこますものである。上手に嘘をつく技術である。
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キーワードを抽出できるだろうか。
特撮を目指す気持ちがすでに初期のころからある
アニメで実写的な演出論を導入
Body2 エヴァ旧劇
生々しさを追求した新世紀エヴァンゲリオン
脚本家に実写出身者、薩川昭夫になぜ声をかけたのか。。。実相寺昭雄に師事した人である。渚カヲルの命名者でもある、「最後にシ者」を書いた人。(『月刊シナリオ』、「インタビュー 薩川昭夫 乱歩作品の映画と「新世紀エヴァンゲリオン」について」、P72、1998年6月刊行、日本シナリオ作家協会)
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綾波レイのキャラクターの方向性を決定づけたのは薩川氏
庵野「綾波は、5話の段階で何となくできた。どういう暮らしをしてるか、とかね。」
小黒「ああ、なるほど。」
庵野「そういう地に足がつく感覚は薩川さんが作ったんです。」
小黒「ひょっとしたら、もっと現実味のない、夢少女みたいなキャラになったかも知れない。」
庵野「うん。あれは薩川さんの力ですね」(『美術手帖』、P79、「特集 アニメの画を考える」、「ロングインタビュー 庵野秀明のアニメスタイル「アニメとは情報である」」、美術出版社、2000年4月刊行)
薩川氏との出会いは『ふしぎの海のナディア』だった。当時、編集の仕事をしていた。薩川氏は、庵野をウマが合ったのだ。
薩川の功績は『エヴァンゲリオン』に実写的なドラマツルギ―を持ち込んだことにあるだろう(『ドキュメント『ラブ&ポップ』吉原有希、小学館、1998年12月20日刊行、P103)
セルアニメの限界を感じていた庵野秀明
庵野「近藤喜文と、高畑勲という二大巨頭が組んで、あれだけの時間と手間をかけて作った『おもひでぽろぽろ』が、俺にとって何にもリアリティがなかったんですね。だから、この道はダメだ、と。」
小黒「ああ、そうなんですね。」
庵野「セルアニメで細かいところを動きまで使って表現しようとしても、そしゃ、実写には敵わん。」『美術手帖』、「特集 アニメの画を考える」、「ロングインタビュー 庵野秀明のアニメスタイル「アニメとは情報である」」、美術出版社、2000年4月刊行
旧劇エヴァで実写を入れた理由
庵野「現実に在るもの。イメージで作ってない。そこに在るもの」(『美術手帖』、P87、「特集 アニメの画を考える」、「ロングインタビュー 庵野秀明のアニメスタイル「アニメとは情報である」」、美術出版社、2000年4月刊行)
「アニメ作品に実写を入れることによって、閉塞したアニメの世界を打破したい。同時に、安全な自分だけの世界に安住しているアニメ・ファンたちを、外の現実に直面させたいのです」(『ドキュメント『ラブ&ポップ』吉原有希、小学館、1998年12月20日刊行、P115)
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虚構と現実という素朴な対立関係が考えているのか。
自身の60年代の世代的なルーツを語る庵野秀明。
庵野「大島監督の60年代の作品を観ると、空想と現実の交差というのが出てきますが、そのころ子どもだった僕らは、そのころ本当に空想と現実というのが交差していたわけです。子供のころはウルトラマンというのが本当にいるんじゃないか、あるいはいるというイメージを持ってたりしたんですね、怪獣がこの街を壊してくれたら面白いだろうなとか。そういう部分で育ってるので、現実感というのが基盤にないんですね」
大島「僕らなんかもね、60年代が終わってみると、それまで現実だと思ってたももが全部崩壊して、それが崩壊していくと同時に、僕らが持っていた夢も崩壊するんですね」(『ユリイカ』2000年1月刊行、「特集大島渚2000」、P67、青土社)
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大島「アニメという全然違うところへひとつの新しい現実のようなものを作ってるんじゃないかと思って、それがすごく羨ましいというか、どうすればああいうふうになれるんだろうというのがあるんですね。」
庵野「それは、現実からの逃避が日常と化しているからできているんじゃないでしょうか(笑)。」
大島「ああ、もう日常になってるわけですね。」
庵野「常日頃から空想がベースになってますからね。アニメはもう全部作りごとの世界ですから。イメージの世界で全部構成されてるんで、その中に現実は何ひとつないんですよ。現実を置き換えたものがそこにあるだけで、それ自体は現実ではないんです。でも、芝居とか映画はそこに現実を作ることが可能だと思うんですよ。」(『ユリイカ』2000年1月刊行、「特集大島渚2000」、P68、青土社)
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実際には実写映像も虚構だ。ドキュメンタリーでさえ。
森「でもウソは僕もつきますよ。メディアを媒介と訳せば、僕の作品も含めて、事実はその媒介の主観を経過するわけだから、虚実は絶対に綯交ぜになってしまう。映像は事実だって勘違いする人がいるけれど、映像だってカメラアングルという主観で全然違います。」(『森達也の夜の映画学校』P154、現代書館、2006年4月25日刊行)
現実感という根っこ(宮崎駿との対談から)
Body3 実写の時代
「アニメって、画面を全部頭の中で描かなければいけない。だから、自分のイメージから外に出ることがない。」(『東京人」、 都市出版、2000年11月刊行、P105)
カメラが動かせないアニメという問題
庵野「アニメは、カメラを動かせないんですよ。最近はCGがあって、それなりに楽になってますけど、それも、まだCGくささというのが残りますからね。
庵野「アニメだと、どうしてもフィックス(カメラを固定して撮ること)がメインになっちゃいますね。あとは二次元的なパン(カメラを同じ位置に据えて、方向だけ動かすこと)やT・U(Track up カメラを被写体に接近移動させながら撮ること)等しかカメラは動かせないです。背動(背景動画)や回り込みは効率が悪いですね、アニメだと。」(『しどろもどろ』、P212、岡本喜八著、筑摩書房)
ラブ&ポップ・・・生々しさの断念と軽いカメラの近接性
カメラを思いっきり動かしまくった作品。
生々しさへの挑戦と断念
庵野が語った演出プランが蘇る。「これを『ゆきゆきて、神軍』のようなドキュメンタリーにしたい」
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薩川氏は、庵野秀明個人を主人公に見立てた物語で、カメラを持って女子高生の援助交際を追っていくという疑似ドキュメンタリー的手法のプロットを書き上げる。
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その方向性を断念させたのは、一本の映画だった。平野勝之監督の『由美香』の圧倒的な生々しい現実感を超えることは不可能だと思った。「『由美香』を見ましたが、僕はあそこまでできません。平野さんには勝てません。だから0稿の監督役は、自分にはできません」(『ドキュメント『ラブ&ポップ』吉原有希、小学館、1998年12月20日刊行、P140)
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生々しさを消していく方向に舵を切った。
小黒「実写の『ラブ&ポップ』を撮ったら、100%実写になったかというと、結構アニメっぽい。」
庵野「アニメやってる時は、なんとなく生臭いものを入れよう入れようと思って頑張ってたんだけど、実際に実写やると、できるだけ生臭さを無くそう無くそうとしてやるんです。」(『美術手帖』、P100、「特集 アニメの画を考える」、「ロングインタビュー 庵野秀明のアニメスタイル「アニメとは情報である」」、美術出版社、2000年4月刊行)
もうひとつの実践
デジタルカメラに機動力があるために様々なことがやれてしまうので、庵野や魔砂雪がその可能性をひとつひとつ試していく結果、いつまで経っても撮影が終わらないのだ。(『ドキュメント『ラブ&ポップ』吉原有希、小学館、1998年12月20日刊行、P175)
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NHKのプロフェッショナルでも放送された、バーチャルカメラのマルチアングルを大量に並べてアングルを検討するようなことをすでにここで実践している
偶発性の作用
ノイズが入っていたらノイズが入っていたということにしましょうよ、と。(『美術手帖』、2001年4月刊行、「映画とビデオ・アートの最前線 デジカム時代の新しい可能性」、P19
式日・・・重要な台詞があった気がする。。。線路の撮り方、地下空間の非現実感
35ミリの作品に挑戦。ここでもやはり生々しさの消失が全面に出た作品となっている。
台詞の引用が必要だ。
式日モノローグ
映像、特にアニメーションは個人や集団の妄想の具現化、情報の操作選別、虚構の構築で綴られている。存在をフレームで切り取る実写映像すら、現実を伴わない。いや、すでに現実が虚構に取り込まれ、価値を失っている。久しく言われる現実と虚構の逆転。すでに私にはどうでもいいことだ。
今日も私は彼女を映像に切り取る。現実の存在を自分の意思で、自分の都合で、自分の等位で切り取る行為は私を安心させるからだ。映像はこうした私の過去を虚構に変える。
「式日の」風景のエヴァ感が半端ない。宇部新川が舞台となっている。
キューティハニー・・・ハニメーションという手法について。。。特撮の撮り方もしている
写真をアニメの原画のように見立てるハニメーションを実践・・・ようするにピクシレーション
合成がらみのシーンはコンテを描きますけど、現場ではできるだけコンテなしでやるようにしているんです。(KWADE夢ムック 総特集庵野秀明』河出書房新社、2004年5月30日刊行、P31)
アニメは初めに絵コンテありきです。最初に設計図がないとシステム上、現実的には何も進まないんですよ。しかも、基本的には設計図通りにいってしまうので、コンテができた時にだいたいできあがりの形が見えてしまう。<中略>スタッフやキャストの力で思いもしなかったシーンになることもあります、けど、実写ほどの振り幅はないんです。(KWADE夢ムック 総特集庵野秀明』河出書房新社、2004年5月30日刊行、P33)
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絵コンテについての実相寺昭雄と円谷英二の考え方を入れる
「円谷英二(おやじ)さんは、絵コンテの使い方もすごく上手だったなあ。あくまでも絵コンテは映像化してゆくための原点でね。そこからふくらませてゆくための捨て石のようなものだった。このごろはね、アニメの撮影が実写の方にもおよんじゃって、絵コンテをが万能で、絵コンテをつくるために精力を使いはたしちゃったりするケースもあるよね。その結果どうなるかというとさ、絵コンテにしばられちゃって、それが立体化されれば事が終わりってことになる」(『ウルトラマン誕生』実相寺昭雄、ちくま文庫、P222)
絵コンテは現場での段階の変化発展の礎であって、現場の作業を絵コンテに合わせてゆくとしたら、本末転倒を通りこして滑稽なことになってしまう。(『ウルトラマン誕生』実相寺昭雄、ちくま文庫、P227)
特撮シーンは35ミリで、他はデジタルという質感の混在感
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「ないものねだり」というキーワードと、偶発性への期待
※ただ庵野秀明の言葉を引用するだけでは足りない。アクシデント性とか偶発性が映像に与える影響とは何かについて深く掘り下げる必要がある。
Body4 ヱヴァンゲリヲン新劇場版で何を試みたか
序破Qはまとめて、テーマごとに書いたほうがいい。3本のやっていることは延長戦上にあるので。
・CGとデジタルの導入
・特撮の感覚をいかに再現していくか。
・実写を経験して、絵コンテとアングルに対する考え方と実践
序:
本格的なCGの導入が始まった
鬼塚「僕たちとしては「これはCG的にどうかな?」って思うかっとでも、「特撮的にOK!」となるようなことがいっぱいありましたね。<中略>使徒を動かす時も同じですね。「吊られた着ぐるみを、ワイヤーで引っぱって動かしているように見せてほしい」とか。(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』全記録全集 株式会社カラー、2020年8月刊行、P253)
編集が実写畑の奥田浩史氏だったことも重要か。。。
デジタル撮影初導入
空気感や光が圧倒的に良くなった(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』全記録全集 株式会社カラー、2008年7月刊行、P448)
照明の考え方をアニメに導入できた(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』全記録全集 株式会社カラー、2008年7月刊行、P451)
実写の感覚でアニメを作ってみたいという想いが強いのでライティングを求めてしまう(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』全記録全集 株式会社カラー、2008年7月刊行、P452)
特撮感覚の異世界観
一番はミニチュア特撮っていうものが持っている妙な「異世界観」
実景より実景そっくりのミニチュアの方が感動できる(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』全記録全集 株式会社カラー、2008年7月刊行、P452)
↓
これがキーワードになる。アニメでも実写でもない「異世界観」としての特撮空間。。。この世界の強度。。。。実物ではない、現実には存在しているウソ、、、虚構だけど目の前にある感覚
それはCGとデジタルがその感覚に近づけてくれたのか
:破
写真や実物を参考にする度合いは増していった
中山「現実をさんこうにする手法に関しては、『カレカノ(彼氏彼女の事情)』のときもにも写真を参考にコンテを描いたりしていましたが、今回の『新劇場版』になってからさらに増えていると思います。(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』全記録全集 株式会社カラー、2020年8月刊行、P253)
制約のない実写というCGの捉え方
モデリングチェックの時にも良いアングルがあるとキープするよう言われていた。
制約がいっさいない実写として、CGを捉えているのでは
小林「ボクも同じことを思いましたね。一回実写の世界に行った庵野さんが、「やっぱり思いどおりの画にするのはアニメと違って難しいな」と思いつつアニメに戻ってきたらデジタルの世界になってて、「CGならばできる!」と気づいたんじゃないかと。((『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』全記録全集 株式会社カラー、2010年8月刊行、P272)
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しかし、制約のないことが逆に想像力を阻害している面もあった
鬼塚「僕たちの方で街の俯瞰のカットを作ってみたけれど、どうもうまくいかない。そこで「特撮の専門家の話を聞いてみましょう」ということになったんです。モニタをいっしょに見ながら、「このアングルだと、特撮に見えなくなってしまう」とか、そんな話をいろいろしました。そのときに分かったこととしては、「CGはカメラポジションを自由に決められすぎることが、逆に問題」ということです。((『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』全記録全集 株式会社カラー、2020年8月刊行、P277)
要するに実際にはあり得ないアングルだった
:Q
実写の方法論が取り入れられ始めている。演出の参照先として昔から実写はあったが、方法論自体を実写に近づけていく過程が現れ始める
ないものねだりの越境的姿勢とともに、実写的表現方法とアニメ的表現方法、そして両方の制作手法が混然としていくことになる
Body5 シンゴジラ
プリヴィズとの出会い
庵野流プリヴィズの使い方
宮城「CGや合成シーンだけだと思っていたのですが、そのうちに役者さん絡みの会議室のシーンもプリヴィズで作るという話もあり、「庵野さんの言っているプリヴィズって、全てのシーンで必要なのかも・・・・」と正直、慌てました。<中略>庵野さんのいう「プリヴィズ」とは、レイアウトを基本とした映画全体の画面設計書だったというわけです。(『ジ・アート・オブ・シンゴジラ』、P231、株式会社カラー)
プリヴィズでも偶然性を求めた庵野
宮城「庵野さんは、オペレーターが狙って撮ったカットよりも、何気なくカメラを振った瞬間に「それ!」と言って、意外かつ面白いアングルを選び出すんですよ。(『ジ・アート・オブ・シンゴジラ』、P232、株式会社カラー)
プリヴィズから得た異様なゴジラの動き
熊本「僕はプリヴィズ用のリグを作って動かしていたのですが、それはすごくラフなものでしたし、生物の骨格構造だったらこんな動きはしないというような、普通でない変なものだったんです。なので、本番のCGではリグからきちんと作り直して、制作をしてもらうはずだったのですが・・・。<中略>そうしたら、引き続き本編のCGアニメーション制作もお願いしたい、プリヴィズの動きを完全再現してくれって言われて困ったなと(笑)。
しかし現場でプリヴィズに従うわけでもない。
轟木「僕も当初はプリヴィズに入れ込んだコンテをもとに撮っていくのだと思っていました。今回の庵野の実写はコンテどおりカッチリと、要するにアニメ的な作り方でやるんだろうと。ところが、そうではなかったんです。まるで違うかっと割りで撮ったシーンがほとんどです。」(『ジ・アート・オブ・シンゴジラ』、P473、株式会社カラー)
庵野監督はこう言っている「アニメとは絵コンテの絶対性が違うんですよ。アニメと違って絵コンテにない画が次々に撮れる
特撮の特徴とは
庵野「特撮最大の特徴は「現実と虚構の間」を描けるところだと思っています。切り取られた現実の映像の中に虚構を付加して、混在させ融合させる。そこが特撮映像の持つ面白さだと感じています。全てが虚構世界で作られるアニメーションでは出来ない表現です。特撮だけが描けるんですよ、現実と虚構が融合した世界を。だから、本作も最大の主題として、そこを描こうとしています。
↓
現実と虚構の間に別の空間がある、ということ。
偶発性とドキュメンタリズム
役者の使い方の特殊性「芝居や演技プランは基本的に役者本人にお任せでした。アニメではないので先に自分のイメージを持ちたくなかったし、イメージを押し付けて芝居を固定したくなかったし
その場その場の感覚を優先している
実写スタッフの証言、アニメ的手法を取り入れようと?・・・アニメスタッフには実写の方法論を、実写スタッフにはその逆に見える
プリヴィズで偶然できたゴジラの威圧感ある動き。・・本番環境を作ったCGスタッフはその再現に苦戦した
特撮という空間について庵野秀明の所信表明
特撮空間という、実写とアニメとも異なる(あるいはその中間にある)第3の空間で多いに暴れた庵野秀明
ここで3.11という巨大な現実を目の前にしたこと。。。娯楽という虚構がそれに対する何らかの力になるということに気が付いただろうか。
Body5 シン・エヴァンゲリオン劇場版
プリヴィズと第3村
絵コンテというもの・・・偶発性を阻害する
ここに多くの証言の引用が必要になる
Awayと比較してもいいかもしれない
特撮と偶発性・・・円谷英二の偶然の効果の活かし方
絵コンテについての考え方・・・実相寺昭雄の本から
ミニチュアワークも駆使していること
↓
ミニチュアの実際にある、しかし嘘の産物であることの意味
イマジナリー・エヴァンゲリオン・・・虚構を信じる力のある人類だけが見られるものがある
↓
現実=実写、虚構=アニメという単純な図式はもはや消えているだろう。
↓
そもそも実写が現実に近いというのは本当か。現実の運動を記録できているわけではない。現実に擬態すればするほど、嘘ではないのか。
ベルクソンの議論とか持ってくるか。モルカーの自分のブログを参照するか
現実と嘘、虚構
認知の中で現実と虚構に区別はないのと同様、実写とアニメに現実感としての違いはどこまであるのか。
物語とは、信じる力とは。
認知革命の話、人はなぜ物語を信じるのか。人類の起源、宗教の誕生
↓
ラストカットで何を信じるということか
ないものねだりというキーワード
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』、膨大な素材と緻密な編集を支えたAdobe Premiere Pro
ダイコン3 | GAINAX NET
怪獣特撮映画、空想力と独自の工夫の軌跡 | nippon.com
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メモ、終わり。
完成原稿には、「巨神兵東京に現わる」についても触れています。構成して一回ラフに書いてみて、なんか足りないと思ったので、特撮空間についてもっと掘り下げてみようとしたんですね。かなり重要な証言があったなと思います。
上にも書きましたが、デジタル撮影のは割愛しました。重要なんですけど、特撮空間にテーマを絞りました。長い記事なので、テーマを複数ない方がいいと判断しました。わかにくくなるので。多分しっかり書いたら、デジタル撮影だけで、同じくらいの分量の記事にできてしまうのではないかと思います。なら、別の機会を待った方がいいかなと。
ここで提唱した「第3空間」については、『シン・ウルトラマン』あたりで続編的な原稿を書いてみたいなと思っています。それが書けるような作品だといいなあと期待しています。