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『もののけ姫』とSDGsについて書きました

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 リアルサウンド映画部に、宮崎駿監督の『もののけ姫』について書きました。

 『もののけ姫』にみる宮崎駿の自然観 “持続可能性”が謳われる今こそ重要な一作に|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 2021年現在、この映画をどんな視点で観るといいかということを意識して書きました。環境問題的な視点を中心に書いています。

 エコロジストと呼ばれることを嫌う宮崎駿監督ですが、そういう人が作ったこの作品を、昨今のSDGs的な視点ではどう見えるのかということを考えてみました。

 SDGsが謳う「持続可能性」とは、そもそも誰から見た持続可能性なのかを意識して観るといいんじゃないかと。自然を持続可能な形で経済を回すという時に、持続可能な自然とは、人間にとって都合の悪い自然も含まれるのかなど、非常に深いものが見えてくると思います。

 いつ見てもすごい作品です。
 
 
 以下、原稿作成時のメモと構成案
 
 
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もののけ姫について、今から何について書くか。

混沌に放り出す映画

自然は恐ろしい

なぜ読み解くのが難しいのか。わかりやすい悪がいないからであるが、それ以上に自然に対する捉え方の問題

里山の風景を美しく、懐かしく思う人間。。。。
だが、本来の日本の自然は狂暴である。元々人間が考える以上に自然は狂暴である。
その狂暴さを武力で制圧して、弱ったところで自分たちに都合の良い自然だけを、エコロジー思想で守ろうというのは虫の良い話であると本作は描いている。

人間中心主義的なエコロジーの観点から脱却しているので、我々人間の観客には、この映画が入り組んでいるように見える。
宮崎駿はエコロジストと呼ばれることを嫌った。

 

遍歴民の世界を描いた貴重な作品
網野善彦氏の著作に代表される最近の中世研究によって、民俗学・考古学と合流した新しい中世史の体系が明らかになっている。特筆すべきは、稲作農民に代表される平地の「定住民」とは全く別の生活圏を持つ「遍歴民(山民・海民・芸能民など)」が膨大に存在していたという史実である。
 
<書評>網野善彦著『日本論の視座―列島の社会と国家―』

 
ジブリ・アニメ(宮崎駿監督作品)の中の自然 –  LA BOHEME GALANTE  ボエム・ギャラント

男鹿 和雄

「もののけ姫」を読み解く (rim.or.jp)

ステレオタイプなエコロジー思想を打破するために作られた作品であるし、人と自然の関係はもっとえらく複雑なものだったと言うために作られている。

合成の誤謬(ごうせいのごびゅう)

人間と自然は殺し合う間柄だ。
この映画は、殺し合う間柄と手を取りあうことができるか。
殺し合いながら手を取りあう間柄になるしかない。。。

そもそも、人間と自然という二項対立的な考えの外にある映画では。
 
 
Thesis
殺し合う相手と共に生きるということ
 

Point3つ
・エコロジーと人間中心主義の外
  宮崎駿を人間の社会のために環境を守ろうというようなエコロジストと見なされることを嫌う
  人と自然は殺し合いような間柄だった。都合の良いものだけをめでて自然は美しいなどというつもりはない。
    それは今だにそうなのではないか。コロナはどこにあったのか。どこかにあったのだ。温暖化は自然感興の激変であって、それはそれで殺し合いではないか。
    シベリアの凍土が溶けると未知のウイルスが出現するかもしれない。しかしウイルス視点に立ってみれば、ようやく氷から解放されてうれしいかもしれない。そもそも嬉しいという感情があるかわからない。というか、嬉しいというような感情ベースで考えること自体、人間中心的な発想ではないか。
  自然は恐ろしいものでもあると描いてる。
  そして、どこか自然をコントロール可能だと思っている人の思い上がりを打ち砕いてやろうという想いもあるのではないか。
  しかし、その恩恵なくては生きていけないのも人間の事実。コントロール不能なものに頼らざるを得ない、人間の情けさ。エコロジー思想も基本的に自然を良い環境にコントロールしようという欲望が透けて見える。
・観客も作り手も人間であるということの限界を知る
  人間である以上、人間中心主義の外に出ることは相当に難しい。宮崎氏自身、都会に住んで人間社会の一員としてやっている。
  なので、外に出ることなどはできない。ナウシカぐらいすごい人ならできるかもしれないが、誰もナウシカになれない。
  では、どうしたらいいのか。結局、殺し合いながら共生する道を探るしかないのか
・そんなことに結論を出せるはずがない。
  映画として完結させるために出ただけの結論に力はない。放り投げているからこそ、この映画は誠実にものごとを考えている。何事も深く考えれば考えるほどに結論はでない混沌にたどり着く。

 

(c)1997 Studio Ghibli・ND

 

Intro
もののけ姫は、傲慢になりそうな時に観るといい

 
 

Body1もののけ姫は、日本史の外の物語

監督の言葉、企画書

網野善彦の思想

私たちの認識の外にも世界と歴史はあったと次げる
 
 

Body2人間の認識の外にも世界はある

宮崎駿は、エコロジストと呼ばれることを嫌う

人間は、自然を大事にするというのは、自然環境を人間の認識で捉えられる範囲で観ているにすぎず、都合の良い解釈である

結局の、それは人間中心主義の外に出ることが出来ていない。
人間と自然は殺し合うものだ。今だったそうだ。

温暖化は問題だ。人間にとって。しかし、シベリアの凍土の中に凍結されているウイルス的には解放されるかもしれないからいいことかもしれない。

SDGSなども、まだ自然をコントロールできるとの傲慢を捨てれていない

結局、今も昔も自然と人間は殺し合いが辞められない。

にもかかわらず、視線環境の恩恵なくては生きていけない

じゃあ、どうしろというのか。人間中心に物事を考えることを止めれば、辞めるほど、世界の外を知れば知るほど、どうすればいいのかの結論はでないで混沌としてくる。

双方いきる道はないのかと右往左往するしかない主人公。

映画を観る観客は人間だ。人間中心主義の外を正しく認識できるか。その外に出ることは困難だ。それは作り手である人間にとっても同じことだ。
宮崎駿とて、都会の住む人間で、その中から物事を考えるしかない。

デイダラボッチが倒れ、最後に人にとって優しそうな緑が広がる光景はどう捉えたらいいだろう。
あれは結論ではない。人間の目からはなるべくしてああなったというしかない。

人間の世界の外について考えれば、考えるほど結論などだせない。結論がないのは、深く思索した証だ。
人は自然をコントロールできるなど傲慢である。しかし、人間が生き延びるにはもはやその傲慢さも手放せない。異常気象が続くことに人は耐えられない。
だが、それが傲慢であることを忘れない方がいい。我々は傲慢にも自然をコントロールすることで生き延びようとしているという認識は捨てない方がいい。そのことを忘れかけた時、もう一度この作品を見直すべきだ。

 
 

(c)1997 Studio Ghibli・ND

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 メモ終わり

 人間中心主義からの脱却は、人間には可能なのか、というのが一つの大きな柱になっています。その難しさ、それができないことへのジレンマがストレートに出ている作品で、人間が作る以上、そこから抜け出ることはほとんど不可能なのに、正面からそれに取り組んでいることがこの作品を偉大なものにしている要因だと思います。

 人間中心主義から脱することができなくても、トライするだけでも視野が広がります。だからこの映画は観る価値があるんだと思います。大事なのは結果ではなく、過程ですから。
 
 

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