リアルサウンド映画部の連載更新です。今回は、『マトリックス』です。
『マトリックス』はなぜ“画期的”だったのか バレットタイム演出が生んだ別のリアリズム|Real Sound|リアルサウンド 映画部
実写映像によってアニメーション的想像力を駆使して、最初に成功した作品はなにかと問われると、その答えは人によって様々あると思いますが、『マトリックス』は一つの有力候補だろうと思います。この連載において、かならず取り上げないといけない作品だと思っていました。
特に、「バレットタイム」という、作品の代名詞にもなったあの映像は、何が新しくて、何がアニメーション的な想像力だったのかを突き詰めてみたいと思っていました。
バレットタイムは、知っている人もいると思いますが、映像用のカメラで撮影したのではなく、スチール写真のカメラを大量において連続して撮影したものをつなげて作られたものです(『マトリックス』の最初の映画で使われた技術で、シリーズを重ねて技術が発展し、映像用のカメラを使って作られるようになっていますが)。
この発想は、映画の原点を作ったエドワード・マイブリッジの走る馬の連続写真と同じ発想です。アニメのような不思議な映像を生み出すために、映画の原点に立ち返ったんですね。
マイブリッジについては、ウォシャウスキーズは、最もアニメチックな映像を作り上げた『スピード・レーサー』でオマージュを捧げていたりするのですが、映像の発想の原点に戻った上で、アニメーション的な想像力に至る2人の想像力は、この連載で取り上げるにふさわしいものだと思います。
そして、実写であれアニメーションであれ、映像の本質は何なのかをバレットタイムは表していると思います。『マトリックス レザレクションズ』は、それをものすごく直接的に表現するシーンがありました。
バレットタイムの他、映像のテクスチャーの話は、連載前回の神山健治&荒牧伸志監督論から続いている部分もありますね。
以下、原稿作成時のメモと構成案、資料です。
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<走り書き>
バレットタイムとは
スチール写真の連続である
要するに回り込み作画
それを実現するために、マイブリッジの馬の連続写真に立ち返り、実写でアニメの回り込み作画を実現した。
映画技術の原点に立ち返ることによって、実写でアニメの表現を可能にしたのがバレットタイム
マイブリッジとウォシャウスキー。。。スピード・レーサーの馬の壁面映像
マイブリッジをどう説明するか。。。
マイブリッジは運動を作りたかったのではなく、運動を止めて分解したかった。。。。つまり、時間を止めたかった。
連続撮影技術を考案し、運動を一連の静止画像に分解する方法を実演した写真家。
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バレット・タイムそのものでは。。。これの究極の目的は時間のコントロールにある
マトリックスとウォシャウスキーの実写とアニメの表現論の歴史
アニメは越境するP204。。。3コマはどうして印象に残るか
一作目のバレットタイムは止まっているからこそ印象に残る・・・と言えるか?
動きのメリハリと印象論
「マトリックス避け」撮影で使われたカメラの数はなんと120台!“バレットタイム”はどう撮影されたか? – フロントロウ -海外セレブ&海外カルチャー情報を発信
参考になるか
マトリックスの哲学 白夜書房
マトリックス完全分析 扶桑社
現代思想2004年1月号 特集=マトリックスの思想 青土社
マトリックス : 名作映画完全セリフ集 スクリーンプレイ出版
米シネフェックス誌が41年間の歴史に幕 – Magazine | 映像・音響、放送・通信業界の情報発信サイト INTER BEE 2021
バレットタイムのカメラ
ウォシャウスキーは、映像の原初の原理に立ち戻っている?
Webinar with Matrix Academy Award-winning Innovator John Gaeta – YouTube
レザレクションズでは、やはりテクスチャーの話はすべきか。。。神山健治&荒牧伸志の続き的な部分を書けるか。
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『レザレクションズ』で姿が変わる(身体のテクスチャー=表面)キアヌ・リーブス・・・テクスチャの変更は自由自在であるということ
国立映画アーカイブで調べること
マトリックス角川書店, 1999.10
請求記号 M 668
資料ID 210012668
マトリックス
請求記号 PAF L1 947
資料ID 217100947
刷年 1999
マトリックス リローデッド
請求記号 PAF L1 948
資料ID 217100948
刷年 2003
マトリックス レボリューションズ
請求記号 PAF L1 949
資料ID 217100949
刷年 2003
最強の映画インターネット大特集! : 秘宝特選サイト200!
請求記号 X S 465
資料ID 210023465
ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔
請求記号 PAF 1 1109
資料ID 217101109
刷年 2003
ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還
請求記号 PAF 1 1108
資料ID 217101108
刷年 2004
ロード・オブ・ザ・リング
請求記号 PAF 11 120
資料ID 217104378
刷年 2002
松竹大谷図書館で調べたこと
マトリックス・リローデッド
資料区分 映像プレス
書誌番号 00019319
分類外国映画作品
タイトル マトリックス リローデッド / マトリックスリローデッド/Matorikkusu rirodeddo
出版年(西暦) 2003-
アニマトリックス
資料区分 映像プレス
書誌番号 00019304
分類 アニメーション作品
タイトル アニマトリックス / アニマトリックス/Animatorikkusu
出版年(西暦) 2003-
スピード・レーサー
資料区分 映像プレス
書誌番号 00020283
分類 外国映画作品
タイトル スピード・レーサー / スピードレーサー/Supido resa
出版年(西暦) 2008-
生身の人間によって演じられる作品で、その舞台が仮想空間であり、現実と異なる世界だと納得させるために、どんな描写が必要だったのか
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これがバレットタイムの必要性か
映像が運動を表現するのは、実際には物理的な運動が存在しないにも関わらず、刺激対象(実写映画やアニメーション作品においては「コマ」)が瞬間的に出現したり消失したりすることによって物理的な運動を近くしてしまうといういわゆる「仮現運動(apparemt movement)」に基づくものと述べられるのが一般的である。
アニメーション作品におけるリアリティ水準と「不気味の谷」畠山真一
アニメーション論試論その一 ロトスコープとリアル 深川一之 『映画学』Vol13、映画学研究会、1999年
次のような考えは現在でも大勢であるように思われる。現実の光景を再現することが(実写)映画の原理であり、架空の光景をつくりだすことがアニメーションの原理である。ゆえに、アニメーションと映画は、互いにまったく別の意味を担った媒体である。しかし、現在、そうした形でアニメーションと映画の違いを強調することは、双方を閉じられた領域に囲い込み、不自由を強いることにしかならないように思われる。(P114)
ロトスコープを初めて目にした人々がその動きを「リアル」であるのと同時に「神秘的」であると感じているという点である。(P115)
イメージを本物と間違えるというよりも、観客は映写された動きという新しい幻想(illusion)を通してその変化に驚いた。軽々しく信じるのとはほど遠いが、幻想それ自体の信じられないような特性が、見る者に言葉を失わせた。(P115)
デジタル危機によって生みだされたバーチャル映像が、被写体なしで、完全に写真を模倣し得るなら、写真映像の再現能力そのものに疑念が差し挟まれることになる。そのとき、写真映像は再現性を支える規範としての地位を失うだろう。それは、すでに現実のことであるかもしれないのだ。(P118)
現在、多くの映像が、その場において優勢な、ひとつのコードに閉じ込められているのではないかという考えである。(P120)
マトリックスはそのコードを破っていると言えるか。。。バレットタイムは破っている。あるいはワイヤーアクションも。
バレットタイムの時間の二重化。。。
科学者の網膜
身体から抽出された運動と、機械的に計測された時間との関係である。彼の主張を先取りするなら、幾何学的連続写真によって身体はもはや「再現=表象の理論」ではなく「機械の論理」に従属することになったという。これはどういうことだろうか。
この指摘は、マイブリッジとマレーの連続写真の比較によって説明される。マイブリッジの試みは、「複数の」カメラを並べて馬の足並みを撮影しようとするものであり、運動を捉えるうえで、あくまでその被写体を優先し、それが何であるのかを再現=表象することが重視された。この意味において、映像技術はいまだオリジナルの身体とその外見に従属していると考えることができる。その一方で、マレーの連続写真は、被写体の動きを「単一の」カメラによって、「等間隔の時間で」撮影しようとするものであった。ルンデモがここに決定的な変化を指摘するのは、被写体の外見を再現することよりも、その分析のための尺度となる時間を精密に計測することが重視されているためである。こうしてマイブリッジの場合とは逆転して、今度は被写体となる身体のほうが、映像技術に従属するようになるというわけである。(P103)
マノヴィッチの議論・・・アニメーションから生まれた映画は、アニメーションを周辺に追いやったが、最終的にはアニメーションのある特殊なケースになったのである」(P105)
伝統的な絵画表象にとってスキャンダルを起こした彼の連続写真は、運動の連続性を「武骨なまでに」分解し、写真を経験上の本当らしさ、すなわち「現実効果」から解き放つ。「機械の生み出す高速によって、人間の視覚能力を超えた知覚ユニット」を作り出したそれらのイメージを「再び継ぎ目なく束ねることは、観察者には許されていない」のである。(P136)・・・「」内はジョナサン・クレーリー 知覚の宙吊り―注意、スペクタクル、近代文化
昨今の映像メディアを「静止と運動」という観点から再考したアイヴィン・ロサークは、この撮影手法を詳細に分析している。『マトリックス』の主人公ネロ(ネオ)の撮影のためには、百二十台ものカメラが用意され、それぞれの静止画をつなぎ合わせた映像は結果として、スローモーションの効果にも似た印象を観客にもたらす。ロサークはまた、「マイブリッジ効果」と呼ばれたこの技術を実際に彼の連続写真と比較し、両者の共通点として、客観的かつ数値化可能な真実を提示しようとする科学的な側面と、運動の解体から生じるサーカスのようなアトラクション的な側面が併存していることを指摘している。(P282)
記事の全体的な構想
レザレクションズの革新性のなさと3部作(特に1作目)の反復性はなぜか。
まず「マトリックス」で実現したことのおさらいと映画史的な意味合い
続く「リローデッド」と「レボリューション」で推し進めたこと
スピード・レーサーの試み
その後、なぜ試みは続いていないのか。
クラウド・アトラス・・・トム・ハンクスがいろんな役をいろんなメイクで演じている
ジュピター・・・
センス8
ゲーム的リアリズムの誕生、P57
<構成>
Thesis
アニメのような映像を実写で作ったマトリックスの歴史的意義とは
Intro
自然主義的リアリズムを目指すことから本格的に脱却し、観たことない奇抜な映像を創造することに意識がシフトしていったきっかけ
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大塚英志の新井素子の話・・・ルパン三世みたいな小説を書きたいという発言の深い意味
自然主義的リアリズムからアニメ・まんが的リアリズムが生まれた
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アニメみたいな映像を作りたいというウォシャウスキーに対応できるのでは。
カメラのインデックス性に依拠した自然主義的リアリズムを評価してきた映画に対して、アニメのような創造性を目指す転換点としてのマトリックス
Body1 1999年の深川氏の議論
アニメーション論試論その一 ロトスコープとリアル 深川一之 『映画学』Vol13、映画学研究会、1999年
次のような考えは現在でも大勢であるように思われる。現実の光景を再現することが(実写)映画の原理であり、架空の光景をつくりだすことがアニメーションの原理である。ゆえに、アニメーションと映画は、互いにまったく別の意味を担った媒体である。しかし、現在、そうした形でアニメーションと映画の違いを強調することは、双方を閉じられた領域に囲い込み、不自由を強いることにしかならないように思われる。(P114)
ロトスコープを初めて目にした人々がその動きを「リアル」であるのと同時に「神秘的」であると感じているという点である。(P115)
イメージを本物と間違えるというよりも、観客は映写された動きという新しい幻想(illusion)を通してその変化に驚いた。軽々しく信じるのとはほど遠いが、幻想それ自体の信じられないような特性が、見る者に言葉を失わせた。(P115)
デジタル危機によって生みだされたバーチャル映像が、被写体なしで、完全に写真を模倣し得るなら、写真映像の再現能力そのものに疑念が差し挟まれることになる。そのとき、写真映像は再現性を支える規範としての地位を失うだろう。それは、すでに現実のことであるかもしれないのだ。(P118)
現在、多くの映像が、その場において優勢な、ひとつのコードに閉じ込められているのではないかという考えである。(P120)
2021年、被写体なしで完全に写真を模倣し得る時代が到来している。すでに我々が本物だと思って観ている映像のかなりの部分がCGによってつくられている。はっきり言って、テクスチャーそのものを本物と同等に見栄えで作ることが出来ている時代である。
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レザレクションズは、物語の上でそれを描く。トーマス・アンダーソンのテクスチャーは髭面のキアヌ・リーヴズに見えるか、老人に見えるか、人によって違う。テクスチャーは写真レベルで自在に変形可能である。
↓
マトリックスは、そもそも、そういう物語だ。世界まるごと被写体なしで写真を模倣した世界で、機械に支配された人間たちを解放するという物語だった。
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写真のような本物だと思ったものが虚構であるという作品世界の主張と、その手法が見事に合致した作品だった。
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黒いルックスのカッコいいアバターを身にまとう。そして、創造の世界であるがゆえに、マンガやアニメのような跳躍や動きが可能になる。
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それを言葉でなく、物語レイヤーでなく、映像のレイヤーで示したのがバレットタイムだった
Body2バレットタイムと映像の仕組み
バレットタイムは何を目指したか。
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要するに回り込み作画を実写でやろうとしたと言える。
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映像ではなく、カメラで静止画を連続撮影した。
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マイブリッジの映像の原点を参照したと言われる。
スピード・レーサーでオマージュをしている。
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実写でアニメをやろうとして、映像の原点に立ち返った
トム・ガニング・・・アニメーション理論家のアラン・チョロデンコは、「すべての映画(フィルム)との遭遇とは、アニメーションとの遭遇のことなのであり、映画(シネマ)、すなわち写実(ライブアクション)映画もそこに含まれている」と述べている。これは、まずもって技術的な事実なのだ。P272
トム・ガニングはそれを・・・・映画の技術的な本質――不連続な瞬間(フレーム)から連続した動きを生産すること――が明らかにしているのは、時間の操作という点において、写真とアニメーションが共有する土台である。それが、私が瞬間の製造と呼ぶものである。P273
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マイブリッジがやりたかったことは、運動を作ることでなく、運動を止めることだった。動かすのではなく、止めたかったのだ。
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映像とは動くイメージを作ることだが、映画を産むきっかけのアイディアを提供したマイブリッジは動かしたかったのではないのだ。
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バレットタイムもまた、動かすことではなく、止めることを重視している。
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それは究極的には時間を操作するということを目指している。
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レザレクションズのバレットタイムの扱い
止まっているネオたち、アナリストは自由に動き、事物を自由に操作する。メタ的にバレットタイムの実現したことを物語ってる
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ここでは2つの時間が流れている。アナリストの時間とネオたちの時間。時間の多重性をどうとらえるか
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マトリックス一作目においては、カメラのスピード感と止まった対象たちという時間の二重性をさらにメタ的に表現したものと言えるか
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それは、これが作り物、創造の空間と時間であることを示している。。。。映画の本質は時間と空間の創造であり、瞬間の製造と積み重ねというアニメーション論の本質、それは映像の本質という議論につながるか
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時間を操作し、静止も運動も思いのままに操る変容させていく欲望。。。映像の欲望とはこれか。それはとりわけアニメーションの世界で育まれ、発展していった欲望か
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映画の開いた欲望とはここにあるのではないか。
時間の創造。。。すなわち世界の創造・・・マトリックス レザレクションズは創造された世界で生きていく決意をする物語だった。
Body3映画史初期を参照し、アニメーションに至る
デジタル技術は初期映画史、あるいは映画前史に接近する。
現代の映像文化やデジタル技術との近接性が、これら初期映画やその周辺に指摘されるようになってすでにひさしい。科学者の網膜P283
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トム・ガニングの議論・・・
(ゾートロープやフェナキスティスコープを差して)はっきりと言わせてほしい。これらの装置は動きを表象しているのではない。動きを作り出しているのだ。P224
(マイブリッジを差して)この瞬間に絵画と写真は、運動のイメージについての全く異なった考え方によって、劇的に衝突することになったのだ。近代的なアニメーションはこの衝突から登場したと主張することもできるだろう。P288
マノヴィッチが指摘しているように、イメージをアニメーション化する最初期の諸装置は写真よりも先行していたのだ。P288
↓
ウォシャウスキーは、実写とアニメーションに分かれていったこのマイブリッジの瞬間写真の原理を持って、実写とアニメーションの融合を試みた。
そして、瞬間写真は馬の足の動きの正確さを示そうとしたのとは対照的に、現実にはありえないイメージ「バレットタイム」を作り出すことに成功したのだ。
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ここに再びマイブリッジが瞬間の記録から動くイメージを生み出すことから生まれた、映画、いや実写映画の記録性(インデックス性)は終わりを告げたのだ。
<以下は含めるか再検討>
Body? アニメと実写の快楽原則の違いに直面したウォシャウスキー
スピードレーサーはなぜうまくいっていないのか。
人間のテクスチャーは実写、背景や運動、遠近感はアニメ的なハイブリッドな映像を目指している。
なんとなく気持ち悪く見えてしまう。
スピードレーサーでやったこと
アニメの遠近法の導入
モブの繰り返し使用、背景動画の導入、爆発のエフェクトもアニメ調
役者とその他のテクスチャのリアリティラインが異なっているために気持ち悪い感覚を産んでいるのかもしれない。
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セルルックCGアニメの奇妙さにも通じる齟齬が生じている。
トム・ガニングのアニメーションⅠとアニメーションⅡの違い
マトリックスは、アニメーションⅠの映像の本質に迫っていると言えるか。それはすなわち映像の本質的な変容性に接近する試みだった。
では、スピードレーサーはどうだったか。。。いささか遊戯的と言えるのかもしれない。その遊戯性は自体は否定すべきではないかもしれない。
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だからこそ、大きな価値あるものだった。。。。。これは疑問のある結論だ。
しかし、スピード・レーサー以降、ウォシャウスキーはこのような挑戦はやっていない・・・なぜ?
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なぜかわからない。証言が見つからない。
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メモと構成案、終わり。
映像の本質とは、時間をコントロールすることでは、というのが今回の発見、というか仮説。元々マイブリッジは、馬の動きを研究するために時間を止めたかったんですからね。現実をそっくり切り取ることなんて思考してなかったんだと思うんです。
後に映像は現実を客観的にできるようになった、というだけのことで。実は、それは映像の本質じゃなく、機能の一つに過ぎないというか、使い方の一つというだけなのではと思った次第。
『レザレクションズ』の作品内容については、いろいろ言われていますが、説明過剰なほどにバレットタイムを説明してくれていて、ああ、時間のコントロールがやりたかったことなのかなと。そして、それはマイブリッジの最初の欲望につながっているんじゃないかと思います。
そして、それはアニメーションがコマを操作して、時間をコントロールするということにもつながるわけです。
なかなか難産の原稿でしたが、きちんと形に良かったです。もっと読まれてほしいな。