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ドキュメンタリー映画についてコラムを書きました

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 リアルサウンドに、デジタル化とドキュメンタリー映画の変化について書きました。

 デジタル化がもたらしたドキュメンタリー作品への影響 人々を惹きつける記録映像の未来|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 カメラのデジタル化でドキュメンタリーという映像カテゴリは、量が増えました。量が増えたことで優秀な作品も増えましたし、一般化したと言えます。YouTube動画の大半はドキュメンタリーと言えます。人気がないようで、実は今一番、多くの人が身近に接している映像はドキュメンタリーです。

 そんなドキュメンタリーの今現在をちょっとまとめてみようと思いました。機材の低廉化と普及という側面と、時代精神としてのドキュメンタリーという側面と、主に2つの側面から分析してみました。

 現実と直接接するドキュメンタリーは、時代を映す鏡ですが、デジタル化は現実を映すものとしての映像の地位を揺らがせた、という「現実」が見えてくるような、そんな内容になっているかなと思います。
 
 
 以下、原稿作成時のメモと構成案。
 
 
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方向性決めのために、
震災とドキュメンタリー、、、藤田さんの議論、カメラを向けるだけで強度ある映像が撮れる。2011年の東日本大震災に対して、いち早く反応した創作ジャンルの1つは、映像だ。

文芸評論家の藤田直哉氏は、「震災ドキュメンタリーの猥雑さ」という原稿でその理由を、「そこにあるものを撮影するだけで『作品』として成立してしまう『強度』があった」と述べる(※3)。

寺岡裕治編『21世紀を生きのびるためのドキュメンタリー映画カタログ』キネマ旬報社、「震災ドキュメンタリーの猥雑さについて」藤田直哉著、2016年、P87

時代精神としてのドキュメンタリー・・・渡邊大輔さんの議論
映画評論家の渡邉大輔氏は、『新映画論 ポストシネマ』において、現代はドキュメンタリーの時代であると主張している。低予算のホラー映画、怪獣映画などがフェイクドキュメンタリーのスタイルを選択するケースが多いこと、ネット上に記録映像が溢れていることなど、ドキュメンタリー的な映像が溢れている状況を指し示し、「いまやひとは誰でもスマートフォン片手に即席の『ドキュメンタリー作家』になれる」といい、成長過程を見せるアイドル産業やプロレス人気の再興など「ドキュメントと演出が混在する」コンテンツの流行を分析し、「時代精神としての『ドキュメンタリー的感性』がある時代」であると定義づけている(※16)。

『新映画論 ポストシネマ』渡邉大輔著、ゲンロン叢書(株式会社ゲンロン)、P83~P96

ドキュメンタリーと非ドキュメンタリーの境界線の曖昧化・・・アニメーションすらも接近・融解してきている。。。山形の例。。。ニッツ・アイランド

映像による批評もやりやすくなったと言える。
[週刊エンタメ]監督ドキュメンタリー 続々…映画演出の粋に迫る : 読売新聞

デジタル化を始めとする映画界の技術革新も後押ししているとみられる。松崎さんによると、2010年代後半からこういった記録映画が増え始めたといい、「デジタル機器が発達し、個人でも撮影・編集できるくらい制作費が安くなった。作品映像を並べて、演出の意図を分析する『映像による映画評論』とでも言うような、文字による評論にできないことも可能になった」と語る。 

– ドキュメンタリー映画における<アクチュアル>の問題に関する一試論 

ハンディなデジタルビデオキャメラの技術的な発達がもたらした変化のひとつが,キャメラの存在感の希薄化,あたかもキャメラなど存在しないかのように振る舞うことを対象に許す(あるいは強いる)被写体としての意識の低減,そしてそこから生じるかもしれない「自然な」状態であるのだ。そのことは,すでに山形国際ドキュメンタリー映画祭において『鉄西区』(王兵)が大賞を受賞した際の審査委員長アラン・ベルガラの発言にもあった22。キャメラ以上に観客にとっては不可視の存在である(しかし被写体にとってはキャメラ以上に時に大きな存在感をもつことになる)照明や録音といったクルーの最小化もまた,同様の効果をもたらすだろう。

– 市民権を得たドキュメンタリー ポレポレ東中野編成担当に聞くドキュメンタリー映画の動向 「世の中を豊かにしている」|Real Sound|リアルサウンド 映画部

Netflixなどでは、ドキュメンタリー作品も劇映画と同じようにラインナップされているので、それも市民権を得た要因かなと思います。それこそ、YouTubeもある種のドキュメンタリーと言えるかもしれない。ドキュメンタリーは日常的にあるものになったんでしょうね。

ドキュメンタリー制作者にとってデジタルとは
デジタル・ジレンマ2

ドキュメンタリー映画製作者は独特な種類の独立系映画製作者だが、製作やポストプロダクションにデジタルツールを幅広く採用しているため、彼らの経験や現実的課題は劇映画製作者のものと類似している。調査とインタビューの両方において、ドキュメンタリー映画製作者はデジタル技術のいくつかのメリットとして、人目につかずに撮影する自由度が高いこと、編集の柔軟性が高いこと、デジタル配給プラットフォームとの相性が良いことなどを挙げた。デジタル映画が「永遠」ではないことを分かっている者もいたが、彼らは概して完成作品への長期アクセスを保証するための手段を講じていなかった。それよりも、次のプロジェクトに進むことを優先しているようであった。

広くデジタル時代に「映像で記録すること」の拡がりについて射程を拡げて論じる

 
 
Point3つ
デジタル化で誰でも撮れるようになった
渡邉さんの時代精神としてのドキュメンタリーの時代の訪れ
ドキュメンタリーと非ドキュメンタリーの境界線の曖昧化
 
 
Intro

ドキュメンタリー映画は、劇映画よりも注目される機会が少ない。

しかし、その数は増えたのだ。デジタル時代になって。

ドキュメンタリーを考えることは、映像の氾濫する今の時代を考えることにつながる。

どういうことが考えてみよう。
 
 
Body1デジタルカメラの低廉化がもたらしたもの

フィルムやビデオ時代からの大きな変化は、デジタルによって機材は低廉化、小型化し、誰もが入手できるものとなったこと。

高価なフィルムも必要なくなり、カメラを回すこと自体は圧倒的な低コストでできるようになった。

作品数を飛躍的に増大させたのはこれが要因だ。

記録映像は、今や手のひらサイズのカメラ、スマホ、Goプロでも可能となった。実際にそこら中に記録映像は溢れている。端的にこれがデジタル化の影響と言える。

デジタル化によるカメラの発展は人間に新たな視点をもたらした。ドローンやアクションカメラはその展開だ。

アクチュアリティの問題を解決したと言える。

ドキュメンタリー映画製作者はデジタル技術のいくつかのメリットとして、人目につかずに撮影する自由度が高いこと、編集の柔軟性が高いこと、デジタル配給プラットフォームとの相性が良いことなどを挙げた。

– ドキュメンタリー映画における<アクチュアル>の問題に関する一試論 

ハンディなデジタルビデオキャメラの技術的な発達がもたらした変化のひとつが,キャメラの存在感の希薄化,あたかもキャメラなど存在しないかのように振る舞うことを対象に許す(あるいは強いる)被写体としての意識の低減,そしてそこから生じるかもしれない「自然な」状態であるのだ。そのことは,すでに山形国際ドキュメンタリー映画祭において『鉄西区』(王兵)が大賞を受賞した際の審査委員長アラン・ベルガラの発言にもあった22。キャメラ以上に観客にとっては不可視の存在である(しかし被写体にとってはキャメラ以上に時に大きな存在感をもつことになる)照明や録音といったクルーの最小化もまた,同様の効果をもたらすだろう。

ドローンは人間が立ち入ることのできないところにも入れる。あるいは人間が近づくと台無しになるものも取れる。

アクションカメラはかつてない機動性をもたらした。ロッククライミングやスケボーの映像なども驚異的な臨場感を体験させる。

リヴァイアサンというドキュメンタリー映画は、魚の視点を体験させる。
 
 
Body1 時代精神としてのドキュメンタリー

映画評論家の渡辺大輔氏の言葉

映画評論家の渡邉大輔氏は、『新映画論 ポストシネマ』において、現代はドキュメンタリーの時代であると主張している。低予算のホラー映画、怪獣映画などがフェイクドキュメンタリーのスタイルを選択するケースが多いこと、ネット上に記録映像が溢れていることなど、ドキュメンタリー的な映像が溢れている状況を指し示し、「いまやひとは誰でもスマートフォン片手に即席の『ドキュメンタリー作家』になれる」といい、成長過程を見せるアイドル産業やプロレス人気の再興など「ドキュメントと演出が混在する」コンテンツの流行を分析し、「時代精神としての『ドキュメンタリー的感性』がある時代」であると定義づけている(※16)。

『新映画論 ポストシネマ』渡邉大輔著、ゲンロン叢書(株式会社ゲンロン)、P83~P96

そんな時代精神をドキュメンタリーとして映画館で上映される映画作品の枠に限定して語るなら、そこには報道や映画作家など専門家以外の視点を大量に導入できるようになったことが挙げられる

映像作りに従事していない人がドキュメンタリー映画を作ることもある。さらには、素人の撮影した映像を駆使して作るドキュメンタリー映画もある。

例えば、香港デモやシリア内戦、昨今のウクライナ戦争、そして、ガザでもそのような作品がそのうち出るだろう、で戦火に巻き込まれた一般市民、当事者たちからの発信を容易にしたこと。

YouTubeのフッテージだけを駆使して作られた作品もあるぐらいだ。
 
 
Body2SNS承認欲求社会とドキュメンタリー的感性の時代のネガティブ面

しかし、誰もがカメラで記録できる時代は必ずしも良いことばかりではない。変化には必ず表と裏がある。

震災時に置きたこと。文芸評論家の藤田直哉氏は、「震災ドキュメンタリーの猥雑さ」という原稿でその理由を、「そこにあるものを撮影するだけで『作品』として成立してしまう『強度』があった」と述べる(※3)。

寺岡裕治編『21世紀を生きのびるためのドキュメンタリー映画カタログ』キネマ旬報社、「震災ドキュメンタリーの猥雑さについて」藤田直哉著、2016年、P87

カメラは記録の装置だとして、その機動性の向上は、安易な衝撃映像を氾濫させたとも言える。

デジタル化は、カメラを偏在化させ、撮影という行為を一部の専門家の特権ではなく、一般へと普及させたが、その利便性は認識されても、カメラの持つ暴力性は自覚されないままに拡がっている。

そして、SNSの承認欲求社会化と、時代精神としてのドキュメンタリーは、あまり良くない相性を発揮している。撮影の倫理観はどこかに置き去りになっている。

私人逮捕系YouTuberにこのような倫理観は、ない。全て実録であるがゆえに人気を博してしまう。

そして、承認欲求の肥大化は、デジタル化のもう1つの側面、加工技術の低廉化によって、フェイク画像の巣窟となりつつある。デジタル化によって記録行為は容易になったと同時に、記録映像の信頼性は失墜してしまった。記録しやすくなったのに、信用できなくなったというのは何とも皮肉な話である。

世の中に溢れる映像がドキュメンタリーだという意識が拡がれば広がるほど、フェイク動画に引っかかりやすくなる。
 
 
Body4 仮想世界のドキュメントの登場、映像は現実を担保できるのか
映像はもはや現実を担保できない。その映像が事実であるとは保証できない時代となった。

そんな時代にドキュメンタリーはいかなる方向に向かうのか。

今年の山形では「ニッツ・アイランド」というユニークな作品が上映された。

(628) ニッツ・アイランド / Knit’s Island –YIDFF 2023 International Competition

これは、オープンワールドゲームの世界をドキュメントした作品。映像は全てゲーム映像であるが、それは人によってプレイされている。現実とは異なる自分となり、ゲームの世界に浸る人々をドキュメントするという本作は、デジタル世界の記録映像と呼べばいいのか。ドキュメンタリーとデジタルの関係としてユニークな事例だ。加工して作られた世界にもどうやら今は現実があるようだ。

参考
ニッツ・アイランドのCHEBUNBUNの映画レビュー・感想・評価 | Filmarks映画

10/7 「会えてよかった」 – 山形国際ドキュメンタリー映画祭 2023
 
 
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 メモ終わり。

 「映像とはなにか」が今、問い直されているのだと思います。映像は事実の切り取りだと思われてきましたが、デジタル化によってそうじゃなくなった。これからは映像は眼の前にあった現実とは限らないものになったわけです。記録映像という性質を持つドキュメンタリーについて考えることは、その映像の性質の変化について考えることにほかならないと思います。

 これは、映画を超えて社会全体にとって重要なことだと思います。映像によって多くの情報を得る時代に生きている我々ですが、それは事実と扱えないものかもしれないわけです。20世紀は映像は基本的に事実と扱ってきたと思いますが、その感覚自体を変えないといけないんですね。
 
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