ハフポストに、昨年末に出版した僕の書籍『映像表現革命時代の映画論』を社会時評的に応用したコラム記事を書かせてもらいました。
「実写は事実、アニメは虚構」とは限らない。AI時代のいま、2つを「分けない感性」が求められている | ハフポスト アートとカルチャー
書籍出版記念で書かせてもらいました。この本自体は映画批評に属するものですが、その理屈は映画やアニメ作品を鑑賞する以外の場面でも、使える物があると思っています。
僕は実際、映像について考えることはかなりの部分、社会について考えざるを得ない物があると思っていますが、人は映像というイメージから情報を得て判断しているわけですから、映像表現のあり方そのものはダイレクトに社会に影響します。
実写とアニメーションが混淆しているということは、現実とそうでないものがイメージの中で混淆しているということであり、それは証拠能力としての映像に疑念が湧く時代であるということで、映像は記録物ではなく創作物であるという前提を共有しないと行けないということだと思っています。これが本書の根底にある考えです。
その根底の考えを抽出して、コラムにしたのが今回の原稿になります。
以下、原稿作成時のメモと構成案。
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参考
「ふつうの家族なんてないんだから、大丈夫だよ」と励ますことの暴力性 | ハフポスト コラム・オピニオン
「いい大学を出てるのにこんなこともできないの?」高学歴の発達障害者が抱える苦悩 | ハフポスト LIFE
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どちらも本を書いた経緯と動機、題材と社会をめぐる状況について書いている。
社会の中での位置づけ、映画とアニメーションの。
アニメの存在感が増大。逆に実写の大作映画はアニメのようになってきている。
AIの台頭、ハリウッドのストなども起きた。
実写が現実を見せるとは限らず、アニメが虚構を見せるとは限らない時代の映画論
Fleeのハフポストの原稿を使っている、、すずめの戸締まり
現実と虚構もメディア上では区別のつかない時代、芯をもって生きるために映画を通してその状況を知るということ、それを目指した本か
構成12月31日
Point3つ
実写とアニメーションの区別がなくなってきている。そういう時代の映画論であること、本書の内容を概要的に説明
それがなぜ重要か、本を書きながら考えたこと、意識の変化が必要じゃないかと考えた、実写が事実を写して、アニメーションが虚構で嘘ではないこと。。。この時代には何か別の見方が必要になる。。。。事実や真実に対する認識の変化が必要だ。。。例:すずめの戸締まりのところ。マトリックスのところも?
AIの台頭、、、事実とは何かということはますます難しい時代になる
Intro
FLEEの監督の言葉を引用
「実は、映画の製作過程で故郷を探すために一度アフガニスタンに戻ってみないか、という話を持ちかけました。しかし、彼は断りました。理由は、自分の育った故郷はもうない、今はもう違う国となってしまったので、自分の知っているアフガニスタンを美しい記憶のままとどめておきたいと言ったのです」
難民が1億人を超えた。「帰る国を失う」感情を私たちは知らないままでいいのだろうか | ハフポスト アートとカルチャー https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_629ff04de4b04a617347ae1b
アニメーション・ドキュメンタリー映画の監督の言葉だ。
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この言葉はアニメーションという手法の方が、より真実に近づける時があることを示唆してくれた。
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この言葉を引用している本を書いた。これは映画をこれから観る上で、そして氾濫する映像メディアから情報を受けって生きるこれからの時代に必要なものがあると思ったから。
Body1本書の概要
実写とアニメーションの区別がつかない時代の映画論であること。
例えば、アバターのような作品。それからマトリックスのような作品、
Body2 本書を書きながら考えたこと
ここで例としてすずめの戸締まり、
アニメは震災という現実を記録できるか?
本書は「(実写の)映像が事実を写している」という漠然としたイメージに挑んだもの。
この本自体は、映画論として書いていて、社会に直接眼差しを向けていないけど、それは社会を見つめる際の重要な基礎になる部分があると思っている。
Body3AIの台頭、意識の変化、改善が必要?
写真や映像はより事実に近く、アニメーションは虚構という認識では捉えられないものがいっぱい出ているのが現代。
著書『映像表現革命時代の映画論』の解説「応用編」です – Film Goes with Net https://hotakasugi-jp.com/2023/12/16/my-book3/
それはおそらくAIの台頭でますます加速していくのではないか。
そういう時代に映像に触れる時の、基本的な感性を作るための本だと思う。
構成1月4日
Intro
昨年末に『映像表現革命時代の映画論』を上梓した。
映画は実写とアニメーションでなんとなわく分かれている。しかし、デジタル技術の発展はその境を亡くしつつある。
そういう時代にも映画の評価は何となく、アニメと実写で分けて考えるような習慣がいまだに続く。
これは、そうした慣習を更新するために書いた本だ。
Body1 本書の概要と背景
実写とアニメーションの区別がつかない時代の映画論であること。
例えば、アバターのような作品。それからマトリックスのような作品、
デジタル技術によって、精工に実写に擬態した絵が氾濫していて、現実を写したものか、ゼロから創作したものなのか、区別のつかない映像が増えている。
そうした事例を最新の映画・アニメから紐解き、これからの新たな映画論を作り上げることを企図している。
Body2 だから実写映像だけでは捉えられない世の中の真実
こういう状況で筆者はある言葉を思い出す
「実は、映画の製作過程で故郷を探すために一度アフガニスタンに戻ってみないか、という話を持ちかけました。しかし、彼は断りました。理由は、自分の育った故郷はもうない、今はもう違う国となってしまったので、自分の知っているアフガニスタンを美しい記憶のままとどめておきたいと言ったのです」
難民が1億人を超えた。「帰る国を失う」感情を私たちは知らないままでいいのだろうか | ハフポスト アートとカルチャー https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_629ff04de4b04a617347ae1b
Fleeという難民の物語をアニメーションで描いた監督の言葉。
これは、カメラを持って今のアフガンに行っても撮影できない、彼だけの真実があるということだ。
同時に濱口竜介監督の言葉数珠繋ぎのように思い出した。
震災の言葉をここで引用。。。
カメラでは撮れない真実がたくさんあるということ。ならば、実写ばかりが現実を写すとも限らない。そういう感性を持っていた方がいいのではないか。
Body3
本書は社会時評やメディア・リテラシーについて直接書いた本ではないが、そうしたものの基礎の一部になる内容になっていると思う。
これからAI時代には、どれだけ写実的な映像や写真であろうと、それが現実を切り取ったものとは限らない。アニメーションのような絵であっても、元は現実を写した映像であることもあり得る。
そういう時代に、情報に接するためには、実写は現実を切り取り、アニメーションが空想であるという先入観は更新されたほうがいい。
マトリックスのように、何が現実で何が虚構の世界なのか、簡単には判断できない時代はすでにやってきている。
この本は映画論に興味ある人だけでなく、それ以上に
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メモ終わり。
実際にこういうテーマの本も書いてみたいですね。映像というイメージから情報を得る時代のメディア・リテラシー、みたいなテーマで。