『関心領域』が日本でヒットしている。公開初日の3日間では洋画として最も高い成績を記録している。
本作は非常に優れた作品だと思う。アウシュビッツ収容所のすぐ隣に建てられた裕福な一軒家に暮らすドイツ人将校が、その豊かな生活を守ろうとする様子を定点観測的な映像で見せる作品だ。
この作品は映像と音の関係、そして映像が紡いできた歴史とは何かについて優れた洞察を示している。映像とは何を映してきたかの歴史であると同時に、何を映してこなかったかの歴史でもあるのだ。
映像は権力者がおのれを飾るためのもの?
大島渚は1975年に刊行した『体験的戦後映像論』に「敗者は映像を持たない」という論考を残している。2008年の『大島渚著作集 第二巻 敗者は映像をもたず』(現代思潮新社)にも収録されている。
大島渚はテレビ用に『大東亜戦争』というタイトルのドキュメンタリー作品を作った時のことを述懐しつつ、映像とは勝者による記録が多数を占めていることを示唆し、映像の歴史とはどんな映像が存在するかではなく、どんな映像が存在しないかだと語っている。
映像は、権力者がおのれを飾るために撮影するものと、権力者あるいは勝者が、敗者の惨めな姿をさらすために撮るものとに分かれる。(現代思潮新社、P175)
大島渚はこう書いているが、『関心領域』はそれをあえて再現してみせた作品と言えるかもしれない。この作品は、アウシュビッツのユダヤ人収容所の隣にある平和な住宅を描いている。カメラは終始、ドイツ人将校一家の裕福な郊外の生活だけを映し出す。
つまり、戦争のその時点での勝者の生活だけを映しているのだ。決して隣の収容所の中にはカメラを向けない。それは、この映画の狙いが、すぐ隣で恐ろしい虐殺が行われていても、それに関心がなければ人は気にせず豊かな生活を享受できるのだということを描くための、あえての演出だ。しかし、権力者が己の豪奢な生活をひけらかしているようにも見える。大島渚の言うように、権力者がおのれを飾るための映像とも言えなくはないのではないか。
歴史の事実として、アウシュビッツの様子を撮影した映像はいくらか残されている。ゲッティイメージなどでも販売されている。しかし、多くは金網の向こう側にいるユダヤ人の姿を映したものであり、あとは死体の山などだ。それが誰の視点で撮影されたものかというと、少なくとも収容所の捕らえられた敗者の視点ではない。どんな目的で撮影されたのかは映像ごとに異なるが、敗者の惨めな姿をさらす目的の映像も中にはあるのではないか。
大島渚は、ドキュメンタリーを作るために戦争中の映像をリサーチしたのだが、映像素材は真珠湾攻撃あたりは豊富で、東条英機の演説や戦争初期の映像はよく見つかるという。しかし、ミッドウェー海戦あたりから日本側の映像が少なくなり、ほとんどアメリカ側から撮影したものばかりしか見つからないという。
敗戦時の映像もなかなか見つからないそうだ。「マッカーサーが厚木に到着してからは、再びアメリカ側の撮影したフィルムがある。そのちょうど中間の時期、日本にはフィルムがなかったのだ。いや、フィルムはあったかもしれないが、撮ろうという意思がなかったのだ。それは日本が敗者だったからである。敗者は映像を持たないのである」と大島渚は書いている。
アウシュビッツについて考えると、中にいるユダヤ人側からの映像がほとんどないのは当然だろう。カメラを持って収容所に入った者はいなかっただろうから。アウシュビッツの記録映像も犠牲となった者たちの視点からは撮られていないのだ。ということは、我々はあの人類史上、空前絶後の悪行について、犠牲者の側からの映像を持っていないことになる。残されている映像は、徹底して支配者側かあるいは第三者のものだけなのだろう。映像が記録してきたのは勝者の目線ばかりなのではないか。『関心領域』はそのことを見事に炙り出していると思う。
フィクションならば、それを逆転させて敗者の目線に立って撮影することは可能だ。しかし、本作はその選択をせず、歴史の事実通りに勝者にだけカメラを向けて、グロテスクな作品を生み出すことに成功した。むしろ、なまじフィクションなら敗者側に立ててしまい、見事な作品ができれば、みなそのような映像がこの世界に存在するのだと勘違いするかもしれない。敗者は映像を持たないと気づかない。『関心領域』にはこのことに気づかせるための巧みな戦略がある。
フレームの外を音が聞かせる
『関心領域』はわざとらしいまでに勝者側の将校一家しか映さないわけだが、なぜそれをわざとらしいと感じさせることができるかというと、音が効果的に用いられているからだ。
アカデミー音響賞を受賞した本作の本当に重要な部分は音だと指摘されている。この映画には、遠くから聞こえる音がわりあいはっきり聞こえるように仕掛けられている。それは人の悲鳴だったり、銃撃音だったり、焼却炉が燃える音だったりする。かすかにだが、はっきりと聞こえるのである。
つまり、この映画には敗者の映像はないが、音はあるのだ。
大島渚は『大東亜戦争』を作る時に、映像のフッテージが満足に見つからないので、音で構成することを思いついたのだそうだ。
私が『大東亜戦争』をつくったのは、たった一つのアイデアが浮かんだからである。それは戦争当時の音だけで作品全体をカバーしようということであった。
<中略>
私は戦争中のニュース・フィルムの音をそのまま使った。音が不足している部分は、大本営発表と新聞の社説で埋めた。説明的なコメントはつけず、ましてや現在の時点からする批判的なコメントなどは一切つけ加えなかった。戦争中の実感をそのまま放り出したのである。(現代思潮新社、P168)
これは、はっきり言って、映像素材の不足による苦肉の策だった。この映像がないなら音でカバーしようという発想は、『関心領域』に似ていると思う。
『関心領域』には、アウシュビッツの中の映像はない。しかし、音は内部の惨状を想像させる。ここで発揮されているのは、音の空間記録能力ではないか。
映像にはフレームがある。360度の現実を記録することはできず、カメラが向いた方の四角く狭い領域しか記録できない。しかし、音はそのフレームよりもはるかに広い空間を記録している。その結果、『関心領域』で起きているのは、それだけ豪奢で裕福な生活で映像のフレームを埋め尽くしても、フレームの外を記録する音がアウシュビッツの凄惨さを観客に伝えるという事態だ。
音の射程範囲は映像よりも広い。この音の優位性を巧みに活かして、映像の不完全さに気づかせることに成功した作品と言えるのではないか。
私たちの歴史は、どんな映像が存在しないのか
「私たちの映像の歴史は、どんな映像が存在したかということより、どんな映像が存在しなかったかということの歴史なのである」(現代思潮新社、P167)と大島渚は言う。『関心領域』は映さず、音でほのめかすことでこの重大な事実を描いた作品と言える。
このことは何かに言及する時、忘れない方がいいと僕は思っている。映っていない歴史の方がはるかに多いのだということを。日々流れてくるニュースを見る時も、何が映されていないのかも考えざるを得ない。ウクライナやガザの悲劇は関心も高くそれなりに言及されるが、ミャンマーの軍事クーデターはその後どうなっただろうか。リビアの内戦は?
『関心領域』というタイトルは実に秀逸だ。関心のある領域にしか人の目は向かない。関心がなければ人はカメラを向けない。関心の外のことは映像には残りにくい。フレームには限りがあるからだ。
このことを踏まえると、『関心領域』について語る時は、カメラに写っているものだけに言及するのでは足りないのではないかという気になる。しかし、これはとても難しいことだ。この映画は、何かを映すことで表現する映画のアキレス腱をついているとすら言えるかもしれない。
関連作品