リアルサウンド映画部に、映画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』のレビューを書きました。
映画『デデデデ』の結末が示した“日常の強靭さ” 1人の命と世界を天秤にかける倫理とは|Real Sound|リアルサウンド 映画部
ちまたでセカイ系と評される事が多いですが、ちょっと違う角度で書いてみました。これはセカイ系よりも日常系だと思っています。原作者の浅野いにお先生も『けいおん!』を意識した発言をされていますし。
現代に生きる人が漫然と抱えている不安感を見事にビジュアル化し、日常描写の中に組み込んだ作品として解釈しました。不安で、不確かなものばかりの世の中で(フェイクニュースとか)、友情だけが絶対。だから、どれだけデカい話になっても、主人公の二人にとっては半径数メートルの関係が重要。この距離感のあり方が、日常系の作品的ですね。
今を生きる人の感覚を的確にすくい取っていると思います。映画オリジナルの結末もこうした方向性を上手く強調した結果になったと思います。壊れた社会で日常をすごしていくしかないんですね。
以下、原稿作成時のメモと構成案。
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【インタビュー】浅野いにお『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』 『デデデデ』は『けいおん!』だ! 浅野いにおの新たなる挑戦とは!? | このマンガがすごい!WEB
Thesis
現代人が漠然と抱える不安?
本当はどれくらいこの世界はヤバいのか
「わたしにとっては、少なくとも」という個人的視点の強固さ、、、という信頼感
大きな物語に回収されることを拒んでいるように見える二人の物語
物語の特異な点
主人公たちが物語の中心にいるようでいない、あるいはいないようでいる。
↓
東京で母艦が爆発しようとしているその時、主人公の二人は合宿で東京を離れている。。。悲劇や事件は、いつも自分の少し遠いところで起きている感覚
この10年間くらいに、現実の世の中で見聞きした何かが大量に含まれている作品
この世界は、自分が行動すれば変えられるのか。
変えられないと言っているようでもあり、変えられると言っているようでもあり、世界とは事故の認識であるから、意識を変えろと言っているようでもある。
変えたいという衝動と変えられないという諦念がまぜこぜに同居したような作品
不確かな世界で友情だけが絶対
そして、強調される強靭な日常
Point3
311以降の世界、今さらに切実な感じになっていることが感じられる作品
主人公二人が渦中にいないことの意味
この世界は行動すれば変えられるのか、変えられないのか。
Intro
「本当はこの世界はどのくらいヤバいのか」
平和で不安いっぱいの日常を生きる私たちの寓話であることを書く。
Body1 311以降の世界観を反映している
浅野いにおの言葉を引用
危機が迫っている。しかし、危機の渦中が日常となる。
世界が実際にどのくらいやばいのか、よくわからないままに日々が過ぎていく。
前章はこの感覚も見事に描いている。
いきなり、友人が事故に巻き込まれて死んでしまうなど、危険と隣り合わせの状態で、それでも日常を生きる若者が描かれる
コロナ、ウクライナ、ガザ、危機は突然やってくる
Body2行動すべきか、行動すべきじゃないのか
この世界はどこか狂っていると主人公たちも思っている。
おかしいと思っているのに、変えようと行動しない
行動に移す者もいる。
実際に、行動すれば変えられるのか、変えられないのか、信じきれない揺れ動きがここにはある。
変えられると信じて(妄信して)行動する小比類巻、信じていたけど立ち止まるふたば、
託された大場が行動が少し実るという改変
Body3渦中の周辺に配置される主人公
僕らの毎日もそのように流れていってしまっている。
ミニマムな友情の絶対と、世界の滅亡の瀬戸際が同時進行で描かれる構成が後章の
映画において、世界は崩壊しないで半壊した。
半壊した日常がこれから続くのだろうか。
映画は日常の強靭さが一層感じられる内容と言える。
構成2 6月3日
「ポストモダン」も「セカイ系」も使わずに語ろう。
「自殺とは、他殺である」|河合優実主演・映画『あんのこと』を通じて戸田真琴さんが感じた、実在の人物を描くことの怖さと希望の光 | Hanako Web
私たちは普段、どれほどニュースの中の「死亡1名」という文字に、興奮も見下しもなく、ただ正面から本気で向き合っているのだろうか。
Point
コロナで思い知る得体のしれない不安、その世界を経た今、という時代
正しさの乱立する時代は全てが不確かとなるのではないか。小さな正しさが乱立する時代、
個人的な観点に留まること、そこから世界を見るということ、セカイ系の論を超えること
友情だけが「絶対」にとどまるしかありえないほどに不確かな正しさが乱立する時代、そこに留まることさえ、「ほんとうにこれでいいのかな」と思えて不確かになる時代
↓
自殺者1名と世界の危機は常に、誰も疑うこともなく世界の危機の方が重要である。それは世界の傲慢ではないか。
「わたしにとっては、少なくとも」という個人的視点の強固さである。
Intro
コロナを経て、今何を思うか
デデデデは、311から着想を得られた作品と原作者は言っている。
その不確かな現実、いきなり巨大な破滅が襲ってくることがあるが、それでも日常がやってくるということの奇妙な居心地悪さを、的確に描いた作品。
Body1
311は日本人にどんな感覚を与えたのか。
起こらないということはあり得ないことを突き付けた。
↓
コロナも起きた。信じられないことだ。しかし、現実になればそれを受け入れ生きていく。日常になる。ウクライナもガザも信じられない。しかし、それは新しい現実になっていく。
思うに、第二次世界大戦中の日本もそんな風にいつの間にか信じられないことが日常になっていたのではなかったか。
それは平和ボケということで言い表せない部分がある。のど元過ぎれば熱さを忘れるのは、生きていくためである。
↓
しかし、結果として本当は今、世界がどれくらいヤバいのかわからなくなっていく。ある人はこういう、別の人はこうもいう。あとで正解がわかったとしても、たまたま当たっただけかもしれない。
じゃあ、何を信じたらいいのかわからない。そういう漠然とした不安感に覆われた現代社会を活写している前章
Body2 正しさの乱立する世界
後章では、世界の危機に向かって着実に進んでいく物語がある一方で、それとはあまり関係なくおんたんと門出の友情が描かれていく。
クライマックスで東京が崩壊する段階に、おんたんと門出は参加していない。合宿に行って別の場所からそれを眺めることになる。
侵略者と地球人の両方に立つ大場がそのクライマックスで活躍することになるのだが、彼のヒロイズムは立派であるが、作品の主題とはならない。
やはり、世界の危機とは別のところで友情の絶対が確認される展開
↓
この世界線は、元々おんたんがシフトした結果の世界。彼女は門出が生きている世界を望んだ。結果として世界が崩壊することになっても
↓
個人は常に全体の犠牲となる。1人の命と世界なら、常に世界が選択されてしまう。
しかし、日々のニュースで大きな社会問題が語られるたび、犠牲者の数をみるたびに、私たちは1人の命の死に向き合えているかどうか、という点を考えなくてはならない。
セカイ系批判にどうも乗れない部分が筆者にはあるのだが、世界の危機と個人の危機が接続されることの気持ち悪さを指摘することに対して、自分の周囲の大事なものというのは、本来世界の全てを引き換えにしても守りたいものではないか、という感覚をないがしろにしすぎているように思えるからだ。
小さな正しさが乱立する時代である。小比類巻の正義もSHIPの正義も相対化される。
「少なくとも、私にとっては」、これが「絶対」。その「絶対」は他者からは用意に相対化されてしまう。
世界が壊れた責任を問うことをしない。
侵略者が地球に来なければよかったが、元々彼らは地球に住んでいたのだ。帰ってきたにすぎない。
地球人も日々の営みを必死にやってきたにすぎない。
というよりも世界が壊れても日常は続く
日常を続ける力だけは人間は確かなものでもある。
原作よりも損害の規模が抑えられているように描かれる。
それは地球が崩壊するまではいかずに、半壊した世界で日常が続くことを意味している。
日常を倒すことはできない。でもそれは同時に、どんな状況でも生き抜く人の強さでもある。
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メモ終わり。
映画の結末はマンガと比べると、日常の強靭さが強調されたかのように僕には思えました。そこを一番のポイントにして書いてみました。
自殺とは社会による他殺である、という戸田真琴さんの文章はおおいに刺激になりました。素晴らしいインスピレーションを与えてくれました。
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