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『リッチランド』が映し出す原爆の複雑な遺産 ―― 『オッペンハイマー』後の必見ドキュメンタリー」

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リアルサウンド映画部に、原爆を作るための生み出された街を描くドキュメンタリー映画『リッチランド』のレビューを書きました。

原爆の街を描いた『リッチランド』が日本公開される意義 “他者を知る”ことから始める一歩|Real Sound|リアルサウンド 映画部

今年はアカデミー賞で『オッペンハイマー』が作品賞を受賞し、アメリカ映画における原爆の表象を考えることが多い年となっています。そんな年にこの映画が日本で公開されることには、とても大きな意味があると思います。

本作は、原爆施設で働く人のために作られた街。現在も街の人々は核兵器を作ったことを誇りに思っており、戦争を終わらせたのだと考えています。

しかし、一方で放射能汚染にもさらされており、一時期は乳幼児の死亡が相次いだといいます。若い世代では異なる考えを持つ人も出てきており、ただ誇りに思っているという一言では言い尽くせない複雑さが街の中にあることがよく分かる内容になっています。

また、街を作るために土地を奪われた先住民族の視点も本作には導入されています。先祖から受け継いだ土地が一生使えないほどの汚染にさらされてしまったことへの失望、それがアメリカ現代史の政治の産物であったことへの怒りが描かれます。

そして、広島の原爆サバイバー三世の川野ゆきよさんのアート作品が大変に印象的に使用されています。クリストファー・ノーランの『オッペンハイマー』になかった視点がたくさんある作品で、日本人にとって必見の映画だと思います。
 
 
以下、原稿作成時のメモと構成案。
 
 
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気になった点
先住民への視点
原爆汚染の実態。。。見えないものを可視化する姿勢?、ただのでかい爆弾ではないということが分かる内容になっている
原爆を誇る人々もどこか「自分にいいきかせているような」感じがある。
若い世代は対照的。。。きのこ雲の校章を恥ずかしく思っている高校生たちが登場
世代間で考えに違いが。。。しかし、今の感覚で否定しても意味ないことを彼らはよくわかっている。
原爆を下から見上げる疑似体験。。。川野さんのアートの撮り方が秀逸
『オッペンハイマー』が描かなかった、原爆を巡るアメリカ側の課題を取り上げた作品と言える。
 
Thesis
オッペンハイマーが描き切れなかったものがこの映画にはある
 
 
Point4つ
リッチランドの人々の逡巡
 原爆で繁栄した町であるという後ろめたさをどこか持っている人々
 あれは功績だった、と自らに言い聞かせるように言う人々
 若い世代は、ボマーズの校章を恥じている
 被爆で家族を失った人々は、そのおかげで大学に行かせてくれたと涙ぐむ
 この町なりの同調圧力に苦しむ人もいる
原爆を点ではなく線で捉える視点・・・監督の言葉で言うとコンディション
 土壌汚染の除去作業から始まる映画でもある
 先住民の奪われた土地は帰ってこない
 乳児の死亡が相次いだという不審な事実
日本の観客はこれをどう見るべきなのか
 他者の目線と立場を知るということ
 その上で自らの意見を組み立てること、、河野ゆきよさんの存在
 アウトサイダーとインサイダーの対立を超えて原爆の是非を語るという目線に立つこと
原爆アートをしたから見上げるアングル・・・人類はいまだに原爆をしたから観たことはない。
 
 

Intro

今年の洋画話題作『オッペンハイマー』はノーラン作品であることと同時に、あるいはそれ以上に関心を集めたのはその題材であった。・・・というより、アメリカという他者が原爆をどう考えているのか、ということだった。それに関して、答えが得られたような得られていないような、作品だった。アメリカ全体でも、平均的な考えでもなく、あくまて一人の男の内面に迫る内容であるからだ。それ自体は作家の選択であり、責められるべきでもないが、本当に日本人が知りたい答えを知れたかどうか

被爆国として、原爆開発者の映画をどう受け止めるべきか。

もう一つのアメリカ製、原爆にまつわる映画が公開を迎える。

この二本は補完関係にあると言える。『オッペンハイマー』が描き切れなかった部分に、静かに的確なカメラで持って光をあてる。
 
 

Body1 リッチランドの人々

オッペンハイマーに登場したロスアラモスと同様に、この町も原爆開発のために人工的に作り出された町だ。

その後の冷戦での核開発の恩恵もあって町は反映していった。見たところ、アメリカの郊外の町という風情で、おそらくここには白人の中産階級がそれなりの数暮らしていた、アメリカンドリームの郊外生活があるのだろうと思われる。

ここに生きる人は、原爆を誇る。それが町の業績だと。いいとは言わないが悪いとも言わないともいう。しかし、どこかその言葉は力強さはなく、自分に言い聞かせているかのようでもある。

原爆で繁栄したことの複雑な胸中は威勢のいいことを言う男性の中にすら、かすかにあることをにおわせる。

学校の校章はキノコ雲だ。それを街のシンボルだと言う人もいれば、恥じる人もいる。若い世代がそのことを議論するシーンは象徴的である。

しかし、被爆で命を落とした人もいる。父親を失った女性は、そのおかげで大学にまで行かせてくれたと涙ぐむ。

また、別の人はかつて乳児が大量に死亡していたという不審な事実をカメラに伝える。
 
 

Body2 原爆を点でなく線で捉える視点

アイリーン・ルスティック監督の言葉で言うと、コンディション(状態)

『オッペンハイマー』には、この視点がなかった。原爆はただの威力の大きな爆弾ではない。その後、何十年あるいは何百、何千、何万年も被害を放射能汚染の被害をもたらすものであるという意味で、一過性の事件や出来事ではなく、コンディションである。

この映画は、土壌汚染を除去する作業のシーンから始まることがそれを物語る。

そして、その土地はそもそも先住民のものだった。土壌汚染によって返すことのできない土地となっているという事実。原爆によって奪われた人がアメリカ国内にもいるという事実にこの映画は目を向ける。

また、別の人はかつて乳児が大量に死亡していたという不審な事実をカメラに伝える。

そもそも、このリッチランドの今にカメラを向けるということ、そのものが原爆の歴史を線としてとらえる実践のひとつである。
 
 

Body3 日本人はこの作品をどう見るべきなのか。

ここに映っているのは、他者である。他者を知るということが重要な作法である。原爆を巡って「アメリカ」という他者を知ることのできる、本当の機会となっている。『オッペンハイマー』よりもずっとそうだ。

この町を訪れる日本人アーティストがいる。川野ゆきよさんは広島の原爆サバイバー3世。

この町で言葉を届ける。対話を試みる

アウトサイダーとインサイダーの視点。リッチランドの人々は常に、加害者の象徴のような役割を背負わされてきたとも言える。そのことに人々は傷ついてもいるのだ。

他者の意見に傷つき、イラつく日本人もいるだろう。しかし、この町の人々がどう生きざるを得なかったのかを知ることもまた大切なことだ。

そして、若い世代には希望がある。

国内での議論や教育とは違って視点をもたらす作品。その他者の視点を知るということの貴重さがあふれている

視点つながりで、川野さんのアートを下から見上げるアングルのショットは秀逸だ。

誰も原爆を下から見上げたことはない。下にいた人はみな吹き飛んだからだ。映像では上から落とされる原爆か、運ばれる原爆を横から見ることしかなかった。

違う視点をもたらすアートが、この映画の姿勢そのものでもある。

そのような原爆政策のもとで繁栄したアメリカという国そのものが、ある意味で原爆という「状態」の影響下にあるのだと、この映画は気づかせる力を持っている。
 
 
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メモ終わり。

取り上げられた題材もいいのですが、映画として完成度が高い作品です。ショットが素晴らしいです。印象的なショットが数多く登場して、詩的な美しさを持った作品でもあるので、是非見てください。

登場人物の1人、トリシャ・T・プリティキンさんは昨年本が日本語訳で出版されています。リッチランド出身で、被爆に苦しんでいる方でアメリカ政府に対して訴訟を闘った方です。

本作監督のアイリーン・ルスティックさんにインタビューもしています。合わせてお読みください。
“原爆の街”をなぜ映画に? 『リッチランド』監督に聞く、アメリカ社会が抱える矛盾|Real Sound|リアルサウンド 映画部
 
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※サムネイル画像はAdobe Fireflyで作成。