8月11日、12日の2日間で開催されるコミックマーケット「C104」にサークル参加します。僕は2日目の12日に参加です。
冬の「C103」にはじめてサークルとして参加しましたが、楽しかったのでまた出ることにしました。
今回、女性アニメ監督について書いた「日本の女性アニメ監督1」を出します。ページ数は72ページで、文字だけで構成されています。
お代は、600円の予定です。
2024年は、劇場版『名探偵コナン 100万ドルの五稜星(みちしるべ)』を永岡智佳監督が、『化け猫あんず』ちゃんを久野遥子監督が(山下敦弘監督と共同)、8月30日から山田尚子監督の『きみの色』と注目劇場アニメを女性監督が務めています。
興行収入(コナン)、内容(きみの色)、賞レース(あんずちゃん)とそれぞれに注目されている理由がありますが、今年は女性のアニメ作家が、「映画」という枠組みにおいて活躍していることは間違いありません。
しかし、そもそもこの3人だけが突然変異で活躍しているわけではなく、もっと長く女性のアニメ監督の活躍の歴史があったはずです。本書はそれに改めてスポットを当ててみようという内容です。
今回出すものは「Vol.1」の予定で、いくつまでいくかまだわかんないですが、多分4か5くらいではないかと。全体の目次は以下を予定していますが、今後変更していくかもしれません。今回の「Vol.1」は、赤枠で囲ったところまでになります。
ちなみに、この同人本を企画書代わりに、商業出版の道も探ろうと思っています。同人もいいけど、広く普及したい内容ですので。商業出版が決まったら、同人展開は途中で打ち切るかもしれないです。
『日本の女性アニメ監督』を書こうと思った動機
執筆動機は、本書の「はじめに」に書いているんですが、カジュアルに要約するとこうなります。(Claudeに要約させた)
要するに、「日本の女性アニメ監督」について書こうと思ったんだよね。きっかけは日本映画の女性作家について書いた『彼女たちのまなざし』って本なんだけど、この本はアニメにあんまり触れてなくて。
この本の、「『女性監督』って言葉、使いたくないけど今は使わざるを得ない」っていう考え方に共感してる。将来的には「女性」って付けなくてもいい世界にしたいんだって。
でも、アニメの場合、映画だけ見てると女性監督少ないように見えちゃうんだよね。テレビアニメとか短編とか、もっと広く見る必要があるって思ったわけ。
実際、アニメ業界には結構女性がいるんだけど、トップの方になるとまだ少ないんだ。だから、女性監督が増えてる今、その流れを後押しする本があってもいいんじゃないかって。
要は、アニメの女性作家についての研究が足りなくて、それが外の人にアニメ業界の実態を説明する時に不便だし、誤解を生んじゃうってことだね。
もう少し長めにきちんと説明すると、主に動機は2つあります。
動機その①
『日本の女性アニメ監督』について書こうと思った動機は、『彼女たちのまなざし 日本映画の女性作家』(北村匡平/児玉美月=著)という本です。日本映画の女性作家について書いた本で、内容も素晴らしく、なにより「女性作家」を取り上げる際の姿勢が良かった。
児玉さんの書いた序論にはこうありました。
「女性監督」という言葉は、それが発せられるとき、女性が存在しえなかったかつての歴史、そして現在もなお続くジェンダーの不均衡を都度証立てるだろう。(P7)
監督という職業が普通に女性のものなら、「女性監督」とは言われないわけで、その言葉自体がジェンダーの不均衡があることを示してるわけです。では、どうしてその言葉を使うのか。児玉さんはこう答えています。
男性権威主義的な映画界においても女性の監督が確かにいること、性差別がなお温存され続けていることをつねに含意させながらも、同時に私たちは「女性監督」の呼称を、一刻も早く手放せるよう焦燥感に駆られながら用いなければならない。(P8)
また、「女性ならではの感性」という雑なくくりで捉えてしまう傾向を排するためにも、まとめて女性作家を特集することで、一人ひとりの作家が持つ感性はこんなにも異なり、多彩なのだと示すために、「敢えて」女性監督と言う言葉を使っているわけです。実際、この本を読むと、まるで指向も目線も演出スタイルもことなる女性作家がたくさんいることに気づかされるでしょう。
僕も基本的にこれと同じ立場をとり、「女性監督」という言葉を用いることにします。アニメにおいて女性の演出家の名前を見かけることは珍しくなくなりましたが、それでも男性と同数というわけでもありません。増えているけど、同数ではない状況。この流れを加速させる援護射撃になればと思ったのは、本書を作るひとつ目の動機です。
動機その②
『彼女たちのまなざし』は素晴らしいのですが、取り上げられている監督は、実写映画の作家中心です。長い作家論が16本掲載されていますが、アニメからは山田尚子監督のみ。その理由は共著者の北村匡平さんのこの一文に集約されていると、僕は思いました。
アニメーション映画の女性監督は、実写映画に比べてかなり少ないのが現状だが、2020年代に山田尚子以降の新たな作家の登場が増えていくことが期待される。(P39)
確かに、長編映画という枠組みでは、アニメの女性監督が実写映画に比べてかなり少なく見えるかもしれません。しかし、日本のアニメに女性監督は本当に実写に比べてかなり少ないのでしょうか。
これは考えの枠組み、あるいは(実写)映画とアニメの研究や批評のあり方の違いによる齟齬に僕には思えます。
日本のアニメについて語る際、長編映画だけを取り上げても、全体像を把握できないと思います。最大の巨匠である宮崎駿監督ですら、監督デビューはテレビシリーズで、高畑勲監督の「生活感をアニメで描く」という画期的な方向性もテレビで実践されたものです。純粋に映画から出てきたアニメ作家、例えば新海誠監督、は例外的な存在と言えます。
つまり、アニメについて書く場合、映画だけ見ててもわからないことは大量にあるということです。なので、実写映画の枠組みだけで、女性作家を「かなり少ない」と言うのは実情に即していないと思います。山田尚子監督にしてもテレビからキャリアスタートしていますし。
つまり、動機の2つめは、『彼女たちのまなざし』が映画という枠組みに限定して書かれたゆえに零れ落ちた部分にスポットを当てることにあります。
『彼女たちのまなざし』が女性監督を取り上げるのは、男性監督に偏っていた批評や研究領域で、不可視化されてしまった女性作家に光を当てることだとすれば、長編に偏る実写研究の枠組みによって不可視化されてしまう存在を救い上げることもまた必要だと考えています。
実際、研究・批評領域では、実写の方がたくさん女性作家を取り上げてきたと思います。『彼女たちのまなざし』発売当時は、書店で選書フェアをやっていましたが、選書フェアができるくらいには、関連本があるわけです。同テーマで、アニメで選書フェアできるか疑問です。須川亜紀子さんなど、表象や観客の受容論的な本はいくつかあると思いますが。
まとまった本がないとアニメに詳しくない人からは、「かなり少ない」と見えてしまってもしょうがない部分はあると思います。今は不可視化されてしまっている状態なので、「かなり少なく」見えるのもいたしかたない。
これは余談ですが、実写映画の女性作家の多くは、インデペンデント領域で活躍しています。アニメーションの場合、インデペンデントと言うと、主に短編作品とかになってくるし、枠組みがどうしても違うので、長編映画を特権的に扱う実写批評の枠組みでは、アニメのジェンダー研究も的確に捉えられない可能性があると思っています。『日本の女性アニメ監督』では、アニメーションのインデペンデントな領域の女性作家も紹介したいと思っています。最近、本当にいっぱいいますよね。
以上の内容は、『日本の女性監督1』の序論にも書いていますので、より詳しくこの考えを知りたい方はぜひ買ってください。
ブース位置・日時
サークル名:hotakasugi
日時:8月12日(月)
場所:東地区ウ-15b
ちょうど、以下の地図の「ウ」と書かれた真上です。角のブースになるので、見つけやすいと思います。
当日、お待ちしております。多分後日、BOOTHで販売すると思います。BOOTHの手数料を考えると値段は600円より上がるかなと思います。
それと、Vol.2は冬コミ「C105」で出したいと考えています。間に合うかどうかわかんないけど。Vol.2は、個別の作家論で山田尚子と内海紘子の京アニ出身の2人と、加瀬充子、森脇真琴の70年代デビューの2人が書けたらいいなと思っているけど、まだわかんないです。現状の資料の集まり具合だと、加瀬さんや森脇さんより四分一節子さんが先になるかも。