リアルサウンド映画部に、アニメのリメイクに関するコラムを書きました。
リメイクアニメはなぜ批判されるのか メディア間“翻案”の歴史からみるリメイクの創造性|Real Sound|リアルサウンド 映画部
名作をリメイクする企画が、アニメ業界で増えてきています。しかし、それらの作品はしばしばファンに批判されています。アニメファンはリメイクに厳しいのだろうか?というお題のコラムです。
結論から言うと、アニメファンがリメイクに厳しいのではなくて、人類はリメイクに厳しいということです。実写映画でもリメイクはまず批判されることが多いです。
しかし、リメイクを含むアダプテーションにも、創造性はあると思います。それはいかなるものかを探るというのが今回のコラムの趣旨です。
元々、原作ものが多いアニメ業界ですから、翻案の創造性はどういうものか、きちんと議論したほうが良いのではないかと思っています。実写映画の方ではいくつかの研究があると思うのですが、アニメにも必要かなと。
以下、原稿作成時のメモと構成案。
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お題
・アニメファンが「リメイク」に厳しいのはなぜか?
一部のアニメファンには昨今流行の「リメイク」を叩いては「オリジナル」を持ち上げる風潮が見られますが、その心理を分析したコラムを作れないかと検討しています。
たとえばキャラクター論においてはアニメーターによる絵柄の違い、性別転換、デフォルメ度合いなどは無視して同一キャラクターとみなせるからこそ、
二次創作やメディアミックス展開が可能になるわけですが、なぜ「オリジナル」と「リメイク」の差異にはやたら厳しいのか、論じていただけないかと思っています。
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・アニメのリメイク作品で批判がある、アニメファンはリメイクに厳しいのだろうか
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・しかし、そもそも実写映画でもリメイクは「単なる焼き直し」のようなレッテルを貼られてきた。人はそもそもリメイクに厳しいのかもしれない。
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・それでも、リメイクされる意義はあるのだろうか。
・商業的理由、新たなファンの獲得といった理由の他、オリジナルの価値再発見という意義もあるのでは。
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・アニメファンにとって比較的新しい事態であるリメイクとどう向き合うべきか。
・作り手たちの解釈の違いや差異を楽しむという方向は考えられないか、
・かつての作品を豪華な映像で観たいという願いもあるのでは。・・・ONE PIECEのリメイクTHE ONE PIECEや、サイエンスSARUによる攻殻機動隊もあり、今後も増えるだろう。(庵野さんのヤマトも?
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・ある意味、アニメの歴史がそれだけ重なってきたことの証でもある。
・リメイクへの接し方、向き合い方をアニメファン向けに考えてみる。
みたいな内容は考えられるか。
Thesis
リメイクアニメの創造力、、、、アダプテーションの一形態としてのリメイク
Point3つ
リメイクがさげすまれる理由、、、歴史的経緯、人はそもそもリメイクに厳しい(=オリジナルが絶対主義)
リメイクの良い点、何を活性化させるのか
リメイクが作られる意義、商業的な理由は第一にあったとしても他にも意義はあるのでは。
Intro
近年、過去のアニメのリメイク企画が増えてきている。らんま2分の1、うる星やつら、来年には赤毛のアンも。るろうに剣心、ダイの大冒険、ベルばらなどなど
個々の企画には個別の事情があるが、リメイクとは商業的な事情が多分にあって企画される。
ある意味、リメイク企画を大量にやれるほどに、アニメの歴史も深まってきたとも言える。
だが、アニメファンはリメイクにしばしば厳しい目を向ける。マンガファンも映像化に厳しい目を向ける。オリジナルと比べてどうなのか。昔の名作を商業的な理由だけで掘り起こすことに倫理的な怒りもあるかもしれない。
リメイク企画は、第一に商業的理由でなされるだろうが、それだけではないし。リメイクに厳しいのもアニメファンが特別そうだということもない。
リメイクが持つ弱点と利点、オリジナルとは異なる創造性が何か、議論を深めていく必要が生じてきている。
Body1 人はリメイクに厳しい
リメイクとはどういう風に実写の世界では扱われてきたのか。
「リメイク映画」は「オリジナル映画との比較」という宿命を背負って世界に産み落とされ、「焼き直し」や「創造力の欠如」という固定観念から高く評価されることはあまりない。たとえば、ビリー・ワイルダーが演出し、オードリー・ヘップバーンが主演した『麗しのサブリナ』(一九五四年)は、『サブリナ』(一九九五年)というタイトルでシドニー・ポラックによってリメイクされた。ヘップバーンの役柄サブリナを演じたのはジュリア・オーモンドである。ここではオリジナルの知名度から「ヘップバーン」というレンズを通して映画は鑑賞されるだろう。したがって「リメイク版の出来云々以前にノレなかった記憶がある。いずれにしろ、ヘプバーンは誰にも超えられない」(11)という反応は製作前から想定可能だったはずだ。(リメイク映画の創造力)
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駄作をリメイクするメリットはないから、よほど優れた物語の再解釈=再構築をしない限り高く評価されることはない。
「リメイク映画」とは、商業的にリスクヘッジを追求する営みである一方、芸術作品としてはリスクを負って製作されることになるのである。
(『リメイク映画の創造力』編著:北村匡平・志村三代子、水声社、P16)
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じゃあ、映画ファンがリメイクに厳しいのか。そんなことはない。
映画から映画、アニメからアニメの翻案だけでなく、広くとらえてアダプテーションの在り方を考えれば、基本的にオリジナルが絶対視される傾向はどこでもある。
ロバート・スタム(Robert Stam, 1941-)が主張するように、アダプテーションがしばしば文学の劣位に置かれてきた背景には、後者が前者に「先んじていること」(anteriotiny)と、同じ芸術でも歴史が古い(older arts)という事実がある。芸術は時間の経過とともに「優位性」を獲得していくという先入観がどこかにあり、その点において、映画、ミュージカル、漫画などのメディアは歴史が浅い分、文学作品と比べるとその芸術的価値は低いとみなされてきたふしがある。
(『文学とアダプテーション ヨーロッパの文化的変容』春風社、2017年、編著:小川公代・村田真一・吉村和明、P14)
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そもそも、歴史がある方に重きを置く習性が人間にはある。
だから、人間がリメイクに厳しいのはその習性ゆえでもある。
だから、アニメファンがことさらにリメイクに厳しいということはない。実写映画ファンも厳しいし、文学の批評家も厳しい。人類はリメイクに厳しいのだ。
オリジナル絶対主義というものの存在
リメイクを見ることは、オリジナルを見るのとは鑑賞体験からして違うのだ。
反復の快楽と差異による刺激。あっちはああだったなと思いながら見るというのは、普通に見るとは異なる鑑賞体験だ。(リメイク映画の創造力、P17)
Body2 リメイクの利点、役割、メリットはないのか
じゃあ、商業主義、金儲けだけにアダプテーションやリメイクはなされるというのか。第一の理由がそれだとしても、それだけで語り尽くせるほど、アダプテーションもリメイクも単純なものではなく、そこにはオリジナルとは別の創造性はあり、作品にとって、あるいは社会にとっての有用性もある。
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小川公代は、利益の追求ということだけでは、物語を模倣しようとする人間の衝動は説明できないという。(P14)
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物語が「反復」されると自動的に芸術的価値やオリジナリティーが消滅するわけではなく、むしろ、物語を新たなメディアに「転位」(transposition)させたり、あるいは異文化に「移植」(transculturation)したりすることによって創造性が喚起され、オリジナルを超える作品もあるという(P15)
ここに、時代の変化も加えていいだろう。昔とは異なる価値観や倫理観で物語を改めて語り直すことでオリジナルとは別の創造性が発揮されることもある。
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時代性は歴史研究への扉も開く
藤津亮太さんの「ゲゲゲの鬼太郎という定点」はリメイク研究として一級品。リメイクされ続けてきたからできる歴史研究だ。「妖花」が5回映像化され、その語り口の変化によって、戦後日本の戦争観の変化が見て取れる。リメイクによって社会の変化を紡ぐ好例。
Body3アニメのリメイクとの向き合い方
必ず過去作と比較されるという宿命を背負う。。それは過去の名作を再びスポットを当てるということでもある。
過去の作品の掘り起こしという効果も期待できる。
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リメイクは今後もされ続ける。。。比較的アニメファンにとって新しい事象だが、これとの向き合い方は重要だ。今後も増える、ワンピースや攻殻機動隊など大型タイトルのリブート作品も控えている。そこにどんな新たな創造性が加えられているのか、差異だけでなく、昔の方がよかったという紋切型だけではなく、現代アニメは昔に比べて何を表現できるようになったが、どのような価値観が反映されているかなど、反復と移植によって発生した何かに目を向けることも重要だ。
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より広くとらえると、アダプテーション全般の批評・研究をもっとやった方がいいんだろう。
マンガをいかに映像化するか。コマの引き写しではない映像としての空間の捉え方に留まらず、物語の運び方などの媒体の違いと特徴を意識したアダプテーションの理想的な在り方をいかに丁寧に見出すかも重要
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その中の一環として、リメイクというアダプテーションも捉える。時代性の違いや技術の違い、観客の嗜好の違いが作品に何を及ぼしているのか。
仮に技術力や演出力が低くなっているのが事実だとしても、その事実がはっきりとわかるというのも、リメイクという比較論があればこそでもある。
アニメのアダプテーション、リメイク研究は、原作ものが多いからこそ、より本格的にされるべきだろう。
ちなみにアニメや漫画の場合、二次創作とリメイクをどう捉えるのかという議論もできるだろうが、リメイクは映像から映像への翻案であるために、帰って差異が強調されるということはあるだろう。絵柄も発表媒体も異なり、ファンが勝手に行う二次創作は、受容する側も「オリジナルとは違う」ことを前提にするので、つよい比較は発生しない。実際、オリジナルと近い形にすればするほど、逆にささいな違いによって逆に差異がより強く強調されることがある。北村は、アルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』を、台詞もショットもオリジナルに忠実にリメイクしたガス・ヴァン・サント監督版を引き合いに、そのことを説明している。
オリジナルの細部にまでオマージュを捧げてダイアローグ/ショットを模倣しているからこそ、ヒッチコックの『サイコ』に精通している観客にとって、類似するショットの反復と同時にその差異が逆説的に強調されるのである。『リメイク映画の創造力』編著:北村匡平・志村三代子、水声社、P18
リメイクを見ることは、通常の鑑賞体験とは異なり、(オリジナルを知っている人にとっては)目の前に見えている作品の他にオリジナルの作品にも同時に向き合わせる性質を持っている。これは通常の鑑賞体験とは異なる。それは程度の差こそあれ、小説やマンガを映像化した時にも、オリジナル作品のファンにも生じているだろう。
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メモ終わり。
リメイクというお題から、アダプテーション全般の創造性について考える内容となりました。今後もリメイク企画は続々出てくるでしょう。
商業的な理由としては、親子2世代に訴求できる可能性がありますし、今活躍しているクリエイターにとって思い出の作品を映像化するというのも感慨深いものがあるのでしょう。こういう議論は結構世の中的に求められるのではないか、と思っています。
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