渡邉雅子さんの新著『論理的思考とは何か』は大変面白かった。何か新しい知識を授けてくれるというより、考えるための枠組みを増やしてくれる本だった。
日本人はロジカルシンキングが苦手とよく言われ、それは日本の公教育の国語における感想文的なもののせいだみたいに言われることがあるわけだが、ああいう読書感想文的なものにも、論理があり、この世の中には文化に応じて様々なタイプの論理的思考があることを明らかにしてくれる内容だ。
日本人の考え方は非論理的だと言われることが、アメリカ人からあったとしよう。しかし、論理的/非論理的の線引きも一つではないのだと本書は教えてくれる。
この本では、アメリカ、フランス、イラン、日本を代表例として文化によって異なる論理的思考のあり方を紹介している。大事なのは、その中のどれが優れているかではなく、使い分けられるようになることで、他者の理解が進むのだということだ。
ぼくもアメリカの大学に行ったので、これは腑に落ちる話である。日本とアメリカでは思考の回路や目的意識がそもそも異なっているような気がしていたのだが、この本はそれをクリアに説明してくれた。
4つの論理的思考
著者もアメリカの大学への留学経験があるらしい。そして、その時に論理的思考のあり方は一つではないことに気がついたという。それは「エッセイ」と呼ばれる小論文を書いた時の経験があったという。著者はどれだけ丁寧に書いても採点不可能でしか評価されなかったのに、アメリカ式のエッセイの構成で書き直すと、いきなり高評価を得たのだという。
そして、その構成方法で書いたら主張や結論まで変化したそうだ。これを「論文の構造に導かれた論理と思考法の日米の違いという、まさに『見えない文化衝突』の体験」だったと書き記している。
要するに、言語体系や文化などで思考の構造そのものが異なり、それによって論理的思考のあり方も変わってくる。アメリカのエッセイ式のように、他の国にもそれぞれの「思考の型」があるということだ。
この本では、アメリカ式の「エッセイ」、フランスの「ディセルタシオン」、イランの「エンシャー」、日本の「感想文」と4カ国の作文の構造を比較して、それぞれの長所と短所を紹介している。
アメリカのエッセイは、まず序論で「主張」し、本論で主張を支持するための根拠を3つ示す、結論で主張を別の表現で言い換え、繰り返すという。
僕もアメリカの大学でこの型を習った。実は僕が普段書いている原稿の構成パターンはエッセイ式なのだ。
Intro
Body1
Body2
Body3
Concl
という形で構成している。根拠を示すBodyの数が増えたり減ったりするが、構成を考える時には、まず3つのポイントを探すようにしている。探した結果、もう一つ増やした方が良い時はBody4まで作るし、これはまとめた方がいいと思ったら、Bodyを2つにすることもある。
Introには、主張のほか、原稿全体の概要をなんとなくわかるように書く。基本、主張は一つに絞る。これが僕の書いている原稿の基本的な型だ。日本人なので、日本的な情緒が入り込んだハイブリッドだと思うけど
フランスのディセルタシオンは、僕にとって興味深かった。ディセルタシオンの場合は、導入で「概念の定義」、「問題提起」、3つの問いによる全体構成の提示をする、そして、展開で弁証法的に、定立(正)、反定立(反)、総合(合)の順番で書いていく。自分の主張に対する反論を書いた上で、総合でその2つをあわせてさらによい意見に昇華させるらしい。そして、最後の結論で最初に提示した問いに答えるようにする。
イランのエンシャーも独特でペルシアの文化の影響を如実に感じさせる。序論では主題の背景を提示、本論で主題を説明する3段落、細かな主題群の3つの展開や3つの具体例を提示、結論で全体をまとめて、ことわさや詩の一説か神への感謝で終えるらしい。
ペルシアには優れた詩人が多いが、これはこういう思考回路の影響なのかもしれない。
そして、日本の感想文だが、序論は対象の背景について書く、本論では書き手の体験、結論で体験後の感想と得られた成長や今後の心がまえについて記して終える。
それぞれの論理的思考の短所・長所
アメリカ式のエッセイは言いたいことが非常にわかりやすく書ける。これは僕も経験している。しかし欠点もある。複雑な問題をシンプルな構成と主張に押し込めることになるので、社会問題などは単純化される傾向にある。これは利益重視、効率重視の経済的な分野で有効な思考法と言えると著者は語っている。
フランスのディセルタシオンは、問いを最初に立てるのが特徴で、その問いを解決するために、半体験も自ら書くのが面白い。これは自分の書く作文に他者の意見を取り入れることを意味する。これは民主的というか、プロセスを重視しているわけだ。反対意見も聞くよという態度そのものが民主政治におって極めて重要なことだ。
著者は、この思考法の確立は、フランス革命の後、人民が政治を担うことになったので、「フランスは統治者である国民の育成という大事業に取り組むことになる。そのため公教育の目的は、憲法をも真理として扱わず事実として教え、完成している法律の称賛ではなく、『この法律を評価したり、訂正したりする能力を人々に附与すること』を求める」ために生まれたという。
この訂正する能力というのがなければ、民主主義って維持できないんだなとおもわされた。それはひとえに自分が間違っている可能性を考える能力なんだろう。
そして、日本の感想文だが、これにも一定の論理性が認められるといいう主張が、この本の面白いところ。日本では共同体を成り立たせる親切な慈悲といった感情を育てるために共感が重視される。
著者は、「子どもの作文」といわれ、日本人が論理的に書けない元凶と揶揄される感想文だが、実は独自の論理を持ち、社会領域に特徴的で重要な役割を果たしている」という。
それは何かというと、例えば読書感想文でどう感じたのかを書くというのは、自己と他者の間に共通の主観を構築する、「間主観性」を内面化することだという。これによって利他の精神を育み、強権的なルールやイデオロギーに頼ることなく社会秩序を形成できるようになるのだとか。
確かに、日本社会の秩序だっていて、治安もよくて他人の迷惑を嫌うが、それはこういう作文のあり方によって利他的なマインドを育んでいることも要因なのかもしれない。
ただ欠点としては、戦略的な駆け引きのマインドは形成しにくいという。確かに、それは日本人の弱点としてよく指摘される部分だ。
このように、論理的思考の型には種類があるということを知ることで、自分の思考がどのように形成されているのか、文化的な側面から分析できるようになる。そして、異なる文化圏の思考パターンを知り、場面に応じて使いこなせるようになれば非常に役に立つだろうし、他者の理解も進む。
著者は、これからの時代は「多元的思考」が重要だという。本当の意味で多様なグローバル社会を実現するには、文化ごとの思考の違いをも知る必要があるのだということだろう。
単純に表面的な多様性を推進するだけでなく、なぜその国ではこのようなアウトプットになるのか、思考の型から考えていくという訓練は、ますます重要になってきているなと思う。