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『虎に翼』で「はて?」と同じくらい印象に残ったセリフ

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今年の話題は今年のうちにと思い、何か書きたかったけど書き残したことはないかなと、頭の中を模索したら『虎の翼』が残っていたことを思い出しだ。なので、忘れないうちに『虎に翼』について書き残しておこうと思う。

放送中に、本作の画面の演出が良いよねって原稿は書いているのだけど、今回はまた別の視点で。
徹底解説】『虎に翼』の隠された演出意図 セリフだけでは語れないドラマの世界 – Film Goes with Net

近年の朝ドラの中でもとりわけ、大きな注目を集めた作品であり、そのトピックは多岐に渡る。多くは、法曹界における初めての女性判事という点で、フェミニズムの見地から語られる作品であり、その点で貴重で意義ある内容であったのは、間違いない。

それについては、多くの論者が言及しているので、ここでは別の観点を提供したいと思う。それは寅子という主人公が「よく謝ることについて」だ。

寅子の台詞で最も多くの人が印象に残っているのは「はて?」だと思う。社会の中で常識となっているが不平等でおかしいと思える事柄に対して、ふと寅子が「はて?」とつぶやくところは、常識の中に差別が根付いていることへの気づきを与えた。「はて?」の2文字でそのことに気づかせるこのセリフは非常によいセリフであって、なかなか書けるものではない。

ただ、僕はそれ以外にも「ごめんなさい」という至極ありふれた言葉が同じくらい印象に残っている。寅子はよく謝るのだ。こんなに謝る主人公は、『謝罪の王様』をのぞけば見たことないかもしれない。時には、月曜から金曜まで毎日謝っている週もあった気がする。

寅子が社会の中で立場が弱いゆえに謝らざるを得ない、という場面もあったかもしれない、しかし、それ以上にこの「ごめんなさい」というセリフは、寅子が自分に間違いがあれば反省して軌道修正できる人物であることを象徴するものだと思う。

「謝ったら死ぬ病」というネットスラングがあるが、人は今、謝れなくなっている。あるいは、謝り方がおかしいことが多々ある。謝る動機もおかしいことが多くなっているかもしれない。心から間違いだったと認めてるのではなく、「とりあえずこの場をなんとか切り抜けたい」という動機の謝罪が目立つようになってきている。

Youtubeなどにいたっては、謝罪動画は人気コンテンツである。
「謝罪動画のコンテンツ化」はどこへ向かう?すぐに謝る若者と、絶対に謝らないおじさん – QJWeb クイック・ジャパン ウェブ

そんな時代にあって、寅子の「ごめんなさい」はたいていの場合、本当に彼女は反省して軌道修正のために発せられる。そして、目上の人間に対してのみではなく、自分の娘に対してさえも深々と頭を下げて「ごめんなさい」と言える。花江さんとかにもよく謝っていて、親しき仲にも礼儀ありを体現していた。

寅子がそのように誤って反省できる人物として描かれたからこそ、穂高先生の退任式のエピソードが素晴らしいものとなった。花束を渡す係にされた寅子だが、穂高先生の「雨だれ」の一件で怒りを覚える。

「先生に雨だれの一滴なんて言ってほしくない」「女子部の我々に雨だれになることを強いて、歴史にも記録にも残らない雨だれを無数に生み出した」

退任式での無礼に対して、寅子は「謝りませんよ、私は」と言った。いつもは自分が悪ければ心から反省できる寅子が謝らなかったシーンとして、非常に目立った。

そして、穂高先生はこの件で自分の過ちを認めて「すまなかった」と謝罪をする。

これが、寅子が常に謝らない人物として描かれていたら、このシーンは全然ダメになっていただろう。「ああ、いつもの癇癪ね」みたいなシーンになったかもしれない。

『虎に翼』という作品は、きちんと自分の間違いを認めて謝り、軌道修正できる人こそ、真に進歩的な人間なのだと描いているんじゃないかと思った。

今、本当に間違いを認めて謝罪して、自らを直すことが難しくなっている。謝罪の意味も変わってきてしまっている。謝罪は反省の意を、当事者に示すことであって、騒ぎを鎮めるではなかったはず。『虎に翼』はそういう時代に、謝罪についてとても重要な示唆を与えてくれる側面がある作品だった。

よく言われることだけど、誰も完璧な人間ではなく、完璧な社会もどこにもないのだから、せめて謝るという可能性は手放してはいけないんだと思う。
 
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