一億総クリエイター時代である。誰もがちょっとしたクリエイターで、手軽に作品を発表できる時代になった。
『劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク』は、そういう時代の青春映画だった。
本作の原作となっているゲームはプレイしていなのだけど、ボカロ文化は、一応通っている。ニコニコ動画がまだ今よりも元気だったころ、米津玄師が今ほど有名になる前の時代は一応知っている。40mPとかマンボーPとか好きでしたね。最近はあまり追いかけられていなのだけど。
本作は、5組くらいの高校生くらいのグループがいて、それぞれがセカイと呼ばれる不思議な空間に集い、そこにはそれぞれの初音ミクなどボカロのキャラクターたちがいる。初音ミクは、公式なキャラクター設定を持たないというか、あの有名な一枚絵から、作り手の数だけミクのイメージが形作られる存在であることを反映している設定なのかな。
そして、どのグループにも属していない、はぐれミクみたいな存在が現れる。「私の歌は届かない」と悲しそうな顔を浮かべているが、このミクはどうやら、目標を見失った人とか、夢を諦めた人たちに自分の歌が届かないことを嘆いている。
そして、その負の感情が積み重なっていくと、彼女は消えてしまう。5組のグループは、それぞれの想いを届けるためのパフォーマンスを披露し、その想いによってミクは復活し、やさぐれていた人々も希望を取り戻す。
ボカロという文化は、音楽を発表する敷居を劇的に下げたものだった。ここから多くの才能が飛び出していき、メジャーな音楽シーンで活躍している。クリエイターの活躍を促したカルチャーだったと言える。人々の伝えたい想いを媒介する存在なわけだ。この物語では、その「想い」が届けることをテーマにしていたが、まさにボカロ文化が担った本質的な部分を物語に落とし込んだのだと思った。
何かを諦めたり、やさぐれたりしている人に想いを届けるというのは、すごく難しいことだ。押し付けすぎても良くないし、なによりそういう人々は心を閉ざしているわけだから。まず、心の壁を突破しないといけない。その心の壁は、どういうきっかけでヒビが入るのかは、個人差がある。
だからこそ、色々な表現が世の中に溢れていることが大切なんだろう。ある人は、この曲にゆうきをもらい、別の人は別の曲に励まされる。映画で、5組のパフォーマンスがそれぞれ、別々の「諦めた人」に刺さっていることが描かれるのも、そういうことの具現化だろう。別に諦めていた人たちとメインキャラクターたちは交流もしない、どこかで誰かが自分の表現に勇気づけられていると描かれるのみだけど、なんかそれがいい。どこかで誰かが自分の作品を必要としていると信じたいよね。
自由に音楽を発表出来て、自由にそれを享受できることは幸せなことだ。そうやって勇気づけられた人が何かを作って、また別の誰かを勇気づけていく、そういう幸福な循環ができるだけたくさん生まれてほしいという願いのこもった作品だったのだと思う。
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